幽霊カーブ

@HRKURSN

幽霊カーブ

 私が高弘に殺されかけたのは、夏の午後だった。

 その日、私と高弘は都会の凶悪な暑さをしのごうと、蓼科にあるログハウス群に向かっていた。

高弘とは会社の取引相手として出会い、何度か打ち合わせで顔を合わせるうちに、自然と二人で食事に行くようになった。お付き合いという形になって4か月、二人での旅行は初めてで、行先は高弘が決めた。

 まさか彼が死ぬ気だとは思わなかったので、私は休みのうちに履きつぶしてもいいごきげんに安いサンダルを買い、到着後の掃除や1週間の長い自炊に備えて黒いスウェットの上下も買い、わくわくしながら夏の休みを待っていた。

だから、サービスエリアでやたらに苦いアイスコーヒーを差し出された時も、全く疑問に思わなかった。むしろ、ああ、私が甘い飲み物を好きじゃないと分かってくれているんだなあ、お砂糖いくつっていうやつ。小さい以心伝心が二人のこれからを作っていくのね、などと途方もなくお気楽な事を考えていたぐらいだった。

おかしいなと思ったのは、車が走り出してすぐのことだった。

「あれ、変だなあ。さっきまで眠ってたのに、まだ眠い」

「ほのか残業続きだったろ。疲れてるんだよ。眠っちゃっていいよ」

「うん」

 最後に見た高弘の横顔は、妙に張りつめて見えた。敵わない巨大な敵から宣戦布告を受けた一国の大統領でもこんな顔をしないだろうと思うような、この世の悲創を全て詰め込んだような表情だった。

 高弘、どうしたの。

声をかけようとして舌が回らないと気づいた。だけど、疑問に思う間もなく、私は薬による深い眠りに落ちていた。

そして私たちの乗る車は、ログハウスに向かう途中の「幽霊カーブ」に突っ込んだのだった。崖の下へと落ちた車の中で、高弘は死んだ。即死だった。なぜか私だけが、奇跡的に大きな怪我をせずに助かった。

 とんでもない夏だった。



 直前の様子から私が心中など考えてもいなかったと、言葉にせずとも周りが理解してくれたのは幸いだった。しかし、そんな病院のベッドの上で何より怖かったのは、ここからまた日々を始めなくてはならないということだった。

 4か月という長くはない時間の中で、二人の間に心中に至るような種類の暗い情熱が生まれたとは思えなかった。でも、つい3日前までさわれた手や、耳や、ちょっとでもくっついていれば安心出来たつま先が、私の知らない場所で灰にされているかと思うと、やはり一緒に死んでしまえたら良かったのではないかと本気で考えたりした。

 「傷つく」とは、何かのショックに捕われたままの、自分自身の欠片を取り戻せずにいる状態をさすのだと思う。

残りの部分でそれなりに毎日を過ごしていかなくてはならないが、どうしても立ち上がれないだるい朝や、微熱の続く冬の夕暮れや、お腹を抱えて叫びたくなる生理の痛みや、誰もいない夜に限って訪れてくれない眠りや……その全てに、今後きっと人より少し弱くなってしまうだろうことを、私は知っていた。立ち向かえないのだ。飲まれてしまう気持ちになるのだ。背中を庇ってくれる何かを感じられなくなるのだ。

「生きていていい」という確証を少しでも奪われた魂は、恐ろしいほどすぐに傷つく。

 真っ黒な痣が黄色くなり始め、退院後の予約を白いベッドの上で取りながら、私はこれから積み重ねて行かなくてはならない一瞬という数えきれないノルマを思って、絶望的な気持ちになっていた。



 私が心中という運命に取り込まれそうになったのは、奇しくもこれが人生で二回目だった。

 一回目は3歳の頃で、母と2つ年下の男性との恋に巻き込まれた形だった。

 心中を試みた男性と母の恋のカットインは壮絶で、母の働いているスナックで、お互い結婚していた状態で出会った。私を連れた母と子供のいなかったその男性は、なんだかんだの騒動の末に駆け落ちした。その結果、お互い以外の全てを失ってしまい、悩んだ末にその界隈では有名な橋の上から、私を連れて飛び降り自殺を図ろうとした。結局柵を乗り越えようとしているところを近所のおばあさんに見つかり、説得されて事なきを得たらしい。

 それだけの騒ぎを起こしたにも関わらず、男の人は1年もたたずに姿をくらまし、本当の本当の父はもちろん戻らず、母と私は二人きりになってしまった。元々事務作業やOLのむかなかった母は、夜の仕事をしながら私を育ててくれた。

 私はその心中事件を幸いにもほとんど覚えていない。だけど、母が深夜まで家を空けて帰宅すると、眠っている私はいつもうなされていたそうだ。いくつか病院に連れて行かれた記憶もあった。母は事件が、何らかの形で私を苦しめているとは分かっていたが、私が本当に怯えているものについて理解してはいなかった。

 違うんだ、と思った。

 例えば、風邪やなんかでどうしても家に一人でいられない時、母の働くスナックの片隅で漫画を読んだり、気のいいお客さんにジュースをおごってもらったりして過ごす時、私は一人でいる時よりもずっと怖い思いをすることがあった。

 母の勤めるスナックは、真ん中に毒々しい赤色のソファーがでんと設置されていた。そういう店にしてはやたらと広く、所々塗装のはげたフローリングと、置いた当時は輝きを放っていただろうそれなりに高そうな中華風の花瓶が入り口に置いてあった。品のない花と、下手くそなカラオケと、あらゆる種類の笑い声が絶えない、よくある店だった。

「ほのちゃん、今日はどうしたんだい?」

「風邪を引いてしまって。夜中に熱が上がったらと思うと心配で連れて来たの」

 でっかい背もたれの影に隠れた母がひょこんと頭を出し、笑顔で私に手を振る。私はその日発売の少女雑誌から顔を上げて、手を振りかえす。

母はどこにでもいる水商売のおばさんで、似合わないラメの入った黒いワンピースと派手な化粧は、娘の私からも見ても時に下品ですらあった。だけど、笑った時だけは大きな目の下にきれいな皺が寄って、いつまでも見ていたいような優しい顔になる。その光は彼女の持つ無二のもので、私はそれを見るたびに「ああ、これが私の母なのだなあ、ママ、ずるいなあ」と思うのだった。

「こんなとこいっつも連れて来られてなあ」

「ほのかも慣れてるし。ここ、いい人ばっかりじゃない。家族みたいなものよ」

「ほのちゃん、若いうちにいいパパさんつかまえておいたほうがいいよお」

「もう! やめてよ!」

「そうだそうだ、今日はやめてやれよ」

 怒ったふりをする母の声と、他の男の声がする。

 こういうやりとりは育った立場上数えきれないほど見て来たので、特に何とも思わない。みんな一時の安らぎを求めてちょっと気まずそうに、何となく照れ笑いを浮かべながらいそいそとここを訪れている気がするからだ。幼心にかわいいなとすら思った。

 怖いのは本気の人間だった。母をじっと見つめる視線の中に心底の好意を込めた、真摯な態度と、礼儀正しさを兼ね備えた人間だった。

 大体そういう男の人は、ぱりっとしたスーツを着て、煙草も吸わず、お酒も大して飲まない。そして母と二言三言話しをするだけで帰っていく。その男の人が本当に母に思いを寄せているのかは小学生ぐらいではよく分からない。それでもいつもこの店に集まる、雑然とした思いを抱いている人間とは別種の気配が紛れ込むという事態に、私は強い恐怖を感じた。

 そんな光景を見て帰宅した夜はいつも、「さっきの男の人と母に連れられて、橋の上から飛び降りて死ぬ」という夢を見るのだった。そしてその夢は相手の男性の顔がはっきり見えていない普段のものとは、リアリティが格段に違うのだった。

 ああ、今日も自分の命の重みは誰かの本気に敵わなかった。血まみれの母の顔を見て泣き叫ぶよりも、地面に衝突するスローモーションの映像よりも、そう思って目覚める瞬間が何よりも嫌だった。

 だけど、私の思いとは裏腹に、母にその後恋人が出来る気配はなかった。さすがに私が成人して家を出てからは分からないが、一緒に暮らしていた頃は恋愛の気配のない人だった。だから、当時の私の思いのほとんどは杞憂だった。そして、杞憂であるにもかかわらず、いつまでもその思いに繰り返し付きまとわれていたことが、私が本気で怯えていた証拠でもあるのだった。

 また、こんなこともあった。

 何かふとした瞬間、母がひどく寂しそうな時、少しお酒に酔って昔の話なんかをしている時、働いている店がちょっとピンチに陥った時、無言で空なんかを眺めている時、どうしても私の頭にこびりついて離れなくなってしまった考えがあった。

それは、もしかして母はあの時死んでしまえれば良かったと思っているかもしれないということだった。

 それは決して言葉レベルで伝わってくる思いではなくて、

「あの頃は良かったわ」

 とか、

「時は戻らないね」

 という声の端々で、ただしんみりと感じてしまうものなのだった。

母が一番輝いていたのは、もう会えもしない男性と死を選ぼうとした瞬間ではないかと、幸せであるということと、誰かを愛している思いの振れ幅は、必ずしも一致しないのではないかと、私は幼いながらもどこかで感じていた。そして、それは恐らく真実だった。



 病院のベッドの上で、私は最近見なくなっていた幼少期の夢を頻繁に見るようになっていた。それはかなり精神を擦り減らすことで、お見舞いに来る人の前では平気な顔をしていたが、夜になると枕の端っこを見つめてどうか今日は夢を見ませんように、と祈るのが通例行事になった。高弘を思い出す痛みが、またその辛さに更に拍車をかけた。

 退院の2日前だった。

 私は病院からもらった書類に目を通していた。それは、退院後の注意だとか、薬の飲み方だとか、次回の予約だとか、漠然としか想像したくない今後についてこれでもかというほど明確に書かれたものだった。私はうんざりして、軽く体を動かすつもりで、荷物をまとめ始めた。今後のための作業とはいえ、頭をからっぽに出来る荷造りの方がまだましな気分になるかもしれないと思ったからだった。

そこでふと、事故直後から外されたままになっているアクセサリー類が目に留まった。

「これ、お土産」

 まだキスもしていない頃に、そう言って高弘がくれたアンクレットも、ちゃんとそこにあった。革と、貝と、シルバーのパーツとビーズで出来た、ちょっとエスニックな手作りのアンクレットだった。

「なあに、これ」

 私は言った。そのアンクレットは、社会人6年目の大人が差し出すものとしては、ずいぶんと子供っぽく見えたからだった。

「この間外回りで海の側を通ったらさ、かわいい雑貨屋があって。そこで、貝とかシルバーとかのパーツでアクセサリー作りをやってたんだ」

「ま、まさか入って行ってこれを作ったの?」

「そのまさか」

 高弘が誇らしげに笑った。私はその顔を見てふき出した。

「大の男の人が海辺のファンシーな雑貨屋で、こんなに小さなビーズたちを連ねて、くびれもない私の足首へ贈ろうと思ったわけ?」

「笑うなよー。好きそうだと思ったんだ。ほら、ほのかってブランド物とか、派手なものとかつけてないから、僕なりに気を遣って」

「確かに、男の人から高いアクセサリーをもらったことはないわよ」

 ちょっと意地悪く言うと高弘は、

「そういうことも言う子なんだねえ」

 と、ちょっと残念そうに言った。私は笑いながらそうよ、と言い返した。

 今思えば、高弘と私の間にあったのは、夢にも似た透明な気配だった。始まったばかりだったとはいえ、私も女だから、相手が自分に何を欲しがっているのかぐらいは分かる。高弘にとって私は、現実から遠い場所にいる女だったように思う。約束をはらん出来つく締めつける指輪や、今後の日々が透けて見えるような生活感や、記念日の堅苦しいお祝いを求め合うよりも、初めて恋愛というものを知った中学生みたいに、素朴で丁寧な思いをただ抱いているために側に置かれた存在であったように思う。

 喧嘩も、行き過ぎた欲もない真摯な間柄を、小さなこのビーズを一つ一つ連ねるような純粋な関係性を、高弘は私に投影していた。そして私自身も、激しすぎる世の中の色からそっと匿ってくれているかのような高弘の振る舞いに、時にじんと痺れるような甘い感覚を抱いていた。

 小さなビーズがしゃらんと音を立てるのを聞いていたら、事故に遭ってから初めて、自分ではどうすることも出来ない猛烈な悲しみが胸の奥から湧き上がってきた。

私は慌ててカーテンを閉め、声を殺して泣いた。二度と戻らないということのあらゆるエッセンスが、流れ始めた涙の中につまっていた。息をこらえすぎて頭が痛くなっても、嗚咽と一緒に吐きそうになっても、いつまでも涙は止まらなかった。


 

 そして、退院まであと一日となったその日に、私は柊(ひいらぎ)に会った。昨日の号泣から腫れたままの目をタオルで冷やしていたら、突然声がかかった。

「あなたがほのかさんですよね?」

 つかつかと病室に入ってきた彼女を見ながら、誰だろう、知らない人だけど。私と年齢は同じくらいだから同級生か誰かだっけ? と考えていると、

「芹沢(せりざわ)柊です」

 柊はそう名乗ると同時に、ベッドの上に巨大な百合の花束を投げつけた。むっとした甘い香りが部屋中に広がった。

「高弘の婚約者だった者です。人の男寝取りやがって。挙句の果てに殺しやがって。ついでにあなたも軽い怪我なんてしやがったみたいですから、お見舞いに来ました」

 柊は大きな目をきっちりと私に向けてそう言った。婚約者なんて全くの初耳だった。

「それはどうも。でも私は殺してなんかいないわ。御愁傷様ですけど」

 動揺を隠しながら、私は投げつけられた花束をベッドサイドの棚によけた。衝撃の事実らしき台詞を言われながらも何とか自分を保てたのは、この子はもしかしてちょっと頭のおかしい子なのかもしれないと思ったからだった。眉の上までの短い髪は瞳と同じに真っ黒で、ホットパンツから伸びる足は、細くて白くてまるで思春期前の子供の足みたいだった。何かが成長しきっていない、どこか異様な気配が柊にはあった。

「私ね、ものすごく腹が立ってるんだけど、寛容にもあなたの強運を試してあげようと思って。はい、ぶすっ」

 突然柊が、ポケットから取り出したナイフを私の胸に向かって突き出した。

「ちょっと……!」

 あまりにも突然だったので、柊の手首を掴もうとした手は空を切り、銀色に光る刃が私の胸に食い込んだ。

「きゃあ!!」

 私は柊の手を振りはらい、自分の胸に突き立ったはずのナイフの柄を握ろうとした。ナイフは、ぼとんという鈍い音を立てて病室の床に落ちた。

 恐る恐る自分の胸に触れた。怪我はしていなかった。床に落ちたナイフをよく見ると、刃は金属特有の鈍い輝きを放ってはいなかった。プラスチックの安っぽいつやが、まるで私を馬鹿にしているみたいだった。

「あなた何なの!? 悪ふざけもいい加減にして!」

「悪ふざけじゃないわ。ほら」

 柊は勝ちほこった表情で、ホットパンツのポケットに手を突っ込んだ。もう一本のナイフがその右手に握られていた。

「こっちが本物だったみたい。刃をよく見て。ちゃんと本物で、金属でしょう? ポケットに手を入れて、最初に手に触った方のナイフであなたを刺そうって思ってたの」

 柊の言葉は本当だった。彼女の手に握られたナイフの刃は重くくすんだ光を放っていた。ぞうっとした。私は出来るだけそれを気取られないように柊を睨み付けた。やっぱりこの子はおかしい。私はナースコールのボタンを後ろ手に探った。

柊はすぐに気づき、

「もう刺したりしないから押さないで。ねえ、あなた仮にも高弘と死にかけたんなら、彼と私が本当に婚約してたのかとか、色々知りたくない?」

 と言った。

「聞きたくないわ。ナースコールを押されたくないなら帰って!」

「ちゃんと帰る。外しちゃったけど、今日は殺人だけしにきたの。残念ながらこれからバイトだから。ねえ、元気そうだからもう退院でしょう? 退院したら電話して。私だって聞きたいことはあるのよ」

「さっさと帰って! ……帰りなさい!!」

 私は花束を掴んで投げつけた。柊のTシャツに当たった百合は花粉をぱっと散らせ、彼女のビーチサンダルを履いた足の上に落ちた。

柊は何事もなかったかのように踵を返すと、ひらひらと手を振って病室を出て行った。

私は文字通り茫然とした。何をどう考えていいのかさっぱり分からなかった。

床の上で無残な姿を晒している百合の間から、電話番号を書いた白いメッセージカードがのぞいていた。



 アパートに帰ってみると、そこには今までと少し違う世界が広がっていた。2Kの部屋を妙に小さく感じた。どこか居心地が悪かった。誰がお見舞いに来てくれても現実感がなく、まるで自分だけが全く違う次元にシフトしてしまったかのような感覚があった。

 大きな死別や事故を経験すると、みんな一時的にそうなるのです。とよく言うが、それとも少し違うような気がした。

「ほのかちゃん、大丈夫ー?」

 制服のままでお見舞いに来てくれた同僚の鈴ちゃんも、まるで過去からやってきたタイムトラベラーのように、自分からものすごく遠い存在に思えた。あんなに毎日取引先の悪口だとか、近所のコンビニの店長の口真似だとかでいつまでも話し続けられたのに嘘みたいだった。

「大丈夫。せっかく社長が休んでと言ってくれるから、休ませてもらってるけど」

「休んだ方がいいよー。もし気分転換になるなら出て来たっていいけど、まさかこんな目に遭うなんて、ねー」

「高弘がさ、何を考えていたのか私も分からなくて。でも、もう、どうしようもないことだなって」

 鈴ちゃんが意識的に高弘の名前と話題を避けているのが分かったので、私はゴーサインのつもりでそう言った。鈴ちゃんは案の定ほっとした顔になって、

「うん。高弘くんの会社の人たちもよく分からないんだって。あっちの社長が頭下げに来たんだけどさ、あんまりぺこぺこ頭下げるから、悪いけど笑っちゃったー。うちの社長も、「本人に任せておりますので」って言うの。ごめんね、こんなこと言って。でも、芸能人か! って。もちろん亡くなったのが高弘くんじゃなくてほのかちゃんだったら、こんなふうに笑っていられないけどさー」

と、我慢していたらしいネタを、一気に披露してくれた。これが話したかったんだな、鈴ちゃん、と思った。私は適当にうん、うん、と相槌を打ちながら、鈴ちゃんの話す世界に思いを馳せてみた。

 その世界は、大体のことは他人事で、だからこそ何でも面白おかしくその日限りの新鮮な話としてしゃべれて、机の上に注ぐ光が眩しくて、たまに気の狂いそうな残業があって、だけど何からも逸脱していない世界。幸せという範疇にしっかりとおさまっている小さな世界。懐かしいと感じるのは、今回の事件で自分がそこから蹴り出されてしまったからだと、私はもう気がついている。まるで映画『マトリックス』の主人公が頭のプラグを抜かれてしまったように、私の本当の命は初めから、心中だとか、繰り返す悪夢だとかの殺伐とした世界に生かされていたんだと見せつけられている。

 さっきまでよく出来たかりそめの毎日を貪っていただけだ。お前は元々その世界を信じられるような人間じゃないだろう。幸せや日常と名のつく何かが、いかにすぐ吹けば飛ぶような幻想から構成されているのか、それに怯えて暮らして来たお前にはよく分かるはずだ。

 まるで神様か何かに耳元で言われ続けているようだった。

「とにかく、ほのかちゃんがいないとみんなさみしいのよー。業務なんてみんなでやったらいいんだからさ、お休みが明けてもゆっくり復帰するつもりで出て来てねー」

 鈴ちゃんは、お盆休みにイケメンの彼と行ったという伊勢神宮のお守りと、会社の傍のケーキ屋のモンブランというちぐはぐなお土産を置いて帰った。ありがとう、と言いながら私はこの数十分のやり取りで、自分がひどく疲れていると気がついた。

なぜか柊の横顔を思い出した。何度考えても、高弘に婚約者がいたなんて考えられなかった。もちろん高弘だって男の人だから、隠し事の一つや二つあったのかもしれない。でも、二人の人間に同時に恋をいられるような真剣な不真面目さを、そこに踏み出していく勇気を、持ち合わせていた人だとは思えなかった。

 柊はちょっと高弘をいいなと思っていた程度の女で、単なるいたずらでナイフを持ち出したと考えた方がよっぽど現実味がある。初めからプラスチック製の方を選ぶつもりの嫌がらせだ。だから白いメッセージカードは、退院してから荷解きをしていないスーツケースの底におしこめたままになっていた。



 夢を見た。いつもの夢だった。

 シュールに歪む景色の中で、私はいつもの橋の真ん中に立っている。錆びた柵の側に、顔の見えない若い男の人と、母が立っている。母はいつものあの笑顔を浮かべている。幼い私は手を引かれ、橋の下を覗き見てははしゃいでいる。

親戚から縁を切られていた私と母は、苦労こそあったもののそれなりに幸せに生きて来たつもりだった。寒い日に「生きてて良かったねえ」と言いながら一緒に入ったお風呂も、「これぞ人生の醍醐味だね!」と言いながら食べた旅先でのつつましい和膳も、何もかもがたった一つの瞬間に敵わないとしたら。死を選ぼうとした瞬間が母の人生最高の瞬間であったとしたら、私は一体何を生きる理由として日々に立ち向かわなくてはならないのだろうか……私は寄せ集めたようなちぐはぐな3人の後ろ姿を見ながら、絶望的な気持ちになる。

ふと誰かが肩を叩く気配がして、私は振り向いた。白いYシャツにジーンズ姿の高弘が立っている。

「ほのか、こっち」

 ねえ、あなたは何で死のうとしたの? そう聞きたいと口を開きかけた途端、場面は事故を起こしたワンボックスの中に変わる。私はエアバックと座席の間に挟まれて身動きが取れないでいる。目だけ動かして運転席側を見ると、高弘の背中とぐちゃぐちゃになった運転席のドアが見えた。

 ふと、足に生ぬるい感触を覚えた。嫌な感触だった。恐る恐る下を見ると、足首の辺りに細い蔦が這い上がり絡まっている。周囲の狂ったような緑から繋がっているものらしい。

 ――そうだ。ここは「幽霊カーブ」っていう名前がついているんだ。

 私は初めてそれを思い出す。眠ってしまっていたから、このカーブに来たという実感はないけど、あの日確かにここにいたんだ。

蓼科に行く途中でそういう場所があるんだって。ほのかは怖がりだから、眠っている間に過ぎちゃうといいね。しおりを挟むのが面倒なのか、じゃらんの宿のページを、丁寧に半分に折って、高弘は笑っていた。懐かしいオレンジ色の表紙。

夢の中の私は、慌てて周りを見回す。傾いた車内と、窓を突き破る太い枝。

 事故の日は晴れていたはずなのに、木々の隙間から見える空は暗い。途切れたガードレールの白が、崖の稜線上のかなり高い位置から覗いている。そこもかしこも濃い闇が落ちている。繁華街の薄汚い暗がりと、ネオンの下を流れる水路のぎらつきと、そこに垂れ流される欲望と衝動をミックスして何の遠慮もなくぶちまけたら、こんな気配になるのだろうか。

 だけど、そんな混沌は誰の心の中にもあるもので、そこに捕まってしまうかしまわないかの違いだ……私はそう分かっている……きっと高弘は捕まったんだ。もしかしたら母も。そしてもしかしたら、何もかも投げ出してしまいたい今の私も……と考えて、目を閉じて足を這い上がってくる蔦の感触を感じようとした時だった。

「出ろ」

 どこからか、高弘の声がした。

「えっ」

 私は目を開けた。隣には相変わらず血だらけの背中が見えるだけだった。

 突然高弘の背中が起き上がり、真っ赤な手が伸びてきた。その手は信じられないほどの力で私の体を押した。助手席のドアと高弘の大きな手に挟まれて、肩がぎしぎしと音を立てた。

「やめて! 高弘、痛い!」

「早く出ろ!」

 助手席のドアがばあん!と開き、私は空中へと投げ出された。

 ひどい! 何するの!

 ――そう言おうとしたところで目が覚めた。

 耳元でスマートフォンが鳴っていた。

 上顎にからからに乾いた舌が張り付いていた。頬にはぬるい涙が張り付いていた。私はごしごし顔をこすって、その手を伸ばした。スマートフォンの画面に表示されていたのは知らない番号だった。

「……はい」

「ほのかさん? 芹沢です」

 電話の向こうから例の子供みたいな声でそう言われて、私はびっくりした。

「全然かかって来ないから、こっちで勝手に調べたの」

「ちょっと! どうやってそんな」

「現代SNSにフルネームとか会社名とか載せない方がいいよ。口の上手い人なら電話番号ぐらいすぐに聞き出せるから」

「私はあなたに話はないわ……」

 もう切るからかけてこないで、そう言おうとした時だった。

「幽霊カーブに行かない?」

 柊が言った。私は通話終了ボタンを押そうとした手を止めた。

「高弘の死んだ場所を見たいの。せっかくだから誘ってあげる」

「結構よ」

 私は言った。

「今から迎えに行くから住所を教えて。さすがに住所までは直接聞いて下さいって言われちゃったの」

「お断りします。これ以上しつこくすると警察を呼ぶわよ。嫌がらせにしては悪質すぎるわ」

「……お願い」

 懇願に近い口調で柊が言った。それは極限まで喉が渇いた者が水を欲する響きにいていた。思わず私は黙った。

「ナイフの件は謝る。もうしない。だからお願い」

「どう信じろと……」

「信じて」

「じゃあね」

 私は言って、電話を切ろうとした。

「……いいよ」

 耳から離したスピーカーから、低い柊の声が聞こえた。

「殺そうとしていないことはともかく、高弘の婚約者であったことは証明出来る。高弘がどうして死のうと思ったかという話も出来るだろうし、現場への足も提供出来る。引き換えに、ほのかさんは私の願いを受け入れる。ギブ&テイクだと思うよ」

「今ここで全部教えてくれたら信じるわよ」

「それはだめ。交換条件だもん」

 柊は何も言わない私に、畳み掛けるように言った。

「どちらにしても私、いつか住所も探し当てちゃう。だから同じ」

私はここに帰ってきてから一度も畳んでいない掛布団をじっと見つめた。自称恋敵の柊と恋人の死に場所に行くのか、またぬるいベッドの中に戻るのか、選択肢はひどく貧相だった。しかも、理由は分からないながら、柊の声にはどこか私に寄りかかるような、わずらわしく、重たい気配があった。

「あなたみたいな人をストーカーって言うのね」

 うっとおしさのにじむ口調で言っても、柊は全く折れなかった。もしナイフでの行為が本気であれば殺される危険があるし、嘘であればからかわれているわけで、どう考えても同行していいことなんて一つもなさそうだった。だけど、私の言葉の語尾からは、イエスがにじんでしまっていた。柊は敏感に気がついて言った。

「夕方までには向こうに着きたいから、今から出るね。一人で退屈してるってほのかさんの会社からは聞いてるの」



 昔から自分がお人よしだとは知っていたが、まさかこんなに訳の分からない相手と、高弘の死に場所に向かうことになるなんて。私はハンドルを握る柊の横顔を見ながら考えた。彼女は病院に来た時と同じビーチサンダルで、軽快に高速を飛ばしていた。

 車線変更は強引だわ、クラクションは気にしないわでやっぱりこの子はおかしいと何度も感じるのだが、不思議と不安な気持ちにならない。手つきやちょっとした視線の配り方が、不安定な人間のそれとは違う。ものすごく苦労してきた人間が、どこに出されても大して動揺しないというような、独特の芯のしなやかさが彼女の全身から香っていた。

 決して男好きしそうなタイプではないが、柊は人の心を強烈に惹きつけて止まない何かを持っているように見えた。高弘がこんなにもファンキーな女が好きで、もし本当に婚約者だったというなら、何で私なんかに近づいてきて挙句の果てに心中までしようとしたのか説明がつかない。もやもやとした気持ちながら、自分の恋人としての座は疑いようもなく感じられた。

「高弘は、うちの隣に住んでたの」

 私の視線に気づいてか、柊が言った。

「へえ。映画みたい」

 私は適当に相槌を打った。

「信じてないでしょう」

「それはそうよ」

「カバンに証拠写真がある」

 柊が後部座席に手を伸ばそうとしたので、私は遮って彼女のカバンをとった。

「勝手に出すわ」

「本の間に挟んであるよ」

 私は本からはみ出した、3枚の写真を取り出した。通学カバンを持った制服の女の子と男の子、ディズニーランドのシンデレラ城をバックに笑う高弘、顔があまり判別出来ない家族の集合写真が、窓からの光を反射した。

「制服のは、言うまでもなく私と高弘。家族写真は高弘の親戚に混ぜてもらった5年前の新年会。ディズニーは一年前の」

「知り合いなんでしょうけど、これだけじゃ婚約者だとは分からないわ……」

 言いかけて、顔を上げた時だった。写真を挟んであった本が、ぱさりと床に落ちた。半分からきれいに折りたたまれた一ページが、不意に私の目の前に開いた。

 一瞬、同じ光景をどこで見たのか分からなかった。その変わっているであろう癖が高弘と全く同じだと気づいた時、じゃらんの宿のページを折った高弘の姿が脳裏をいっぱいにした時、柊は嘘をついていないという感触が、啓示に近いほど強く私の心を打った。それは言葉に出来ない類の確信だった。どんなに友人としてふるまっていても恋人同士だと察せたり、夫婦なのか愛人なのか、隣に並ぶだけですぐに分かったりするのと同じだった。目の前にあるのは、本能に訴えてくるどうにもならない類の類似形だった。私は黙った。嫌な冷たさで胸がいっぱいになった。

「私、とんでもなく荒れた家庭に育って、見かねたおじいちゃんおばあちゃんのうちに来たのが8才。その時隣に住んでたのが高弘の一家で。知り合ってもう20年近い。時々離れられたりこっちから遠ざけてみたりしたけど、思い出の共有量が多すぎて、誰も代わりになれなくて。いずれ結婚するもんだって、私も高弘も、周りの人たちも信じる必要がないぐらいに普通に信じてて」

 私の気持ちに追い打ちをかけるように、柊が言った。

「ええ!?」

 なんだそれは、と思った。それでは私はまるで初めっから蚊帳の外ではないか。それなのに図らずも命の危機に晒されるなんて。柊がちらっと私を見た視線に、どこか優越感のような物を感じて、私はかちんときた。

「だったら何であなたと死のうと思わなかったのかしら」

 出来るだけ嫌味に聞こえるようにそう言うと、

「高弘は元々危ういところがあった。だから、死のうと思った時に偶然側にいたのがあなたで……」

「偶然!?」

「そう」

「あのねえ。言っていいことと悪いことってもんがあるでしょ。こっちは死ぬところだったんだから!」

「でも、本当にそうなの。隣にいたあなたに、意味なんてないの」

「意味もなく意味がない人と死のうとなんて思わないでしょう!」

 そう言うと、柊はまるで同情するような顔つきで、私を振り向いた。

「……子供だね」

「何ですって!」

「あなただって「いいな、素敵」ぐらいの気持ちで高弘とあれこれしてただけのくせに。大して意味なんかないくせに」

「そんなことないわ……!」

 言い返す側から言葉が力を失っていくのが分かった。私は柊を睨み付けた。

「その程度の思いで人と接しているから、王の墓に添えられる埴輪程度の命としてしか扱われなかったのよ。偶然側にいただけなの。衝動的に選ばれただけなの。だけど自業自得なの!」

 私は思わず柊の頬を打った。ぱっちーん!! と我ながら巨大な音がして、車がぐらりと揺れた。クラクションの嵐が盛大に襲いかかって来て、私は慌てて席に座り直した。

「何で叩くのよバカ! せっかく誘ってあげたのに!」

 柊が涙声で言った。

「埴輪って言われて怒らない人がいると思う!?」

「そんなもんでしょう! あんたみたいな女と誰が心底一緒に死にたいと思うもんか! 高弘は一人で死ぬのがちょっとさみしかっただけなのー!」

「……うるさい、うるさい! じゃあ何であなたと死のうとしないのよ!」

「きっと私を殺せなかったの!」

「勝手ばかり言わないで!」

 私は柊が運転していることも忘れて、その肩につかみかかろうとした。柊はその手を振り払うと、一気にまくしたてた。

「自分の面倒も自分で見られない幸福で暗い育ちの男が、本当に厳しい育ちの私に思い入れてさ! 大丈夫だよとか何とか言うの。だけど私は人生の全部を、高弘のその甘さを通して見てきたの! バカだなと思いながらも、あんたと違ってそれが全てだったの!」

 言うなり、柊はわあっと声を上げて泣き出した。

「ちょ、ちょっと!」

 再び車体がぐらりと揺れて、私は思わずハンドルを支えた。

「ハンドルハンドル! あ、次サービスエリア! 入って! 泣くならそこで泣きなさいよ!」

 柊はわあわあ声をあげながらもハンドルを握った。よろよろしながらサービスエリアに車を停めると同時に、更に大きな声で泣き出した。クーラーを効かせておくために窓を開けられないのが幸いだった。

 私はただただ黙り込んだまま、自分の腿を打ち、ハンドルに突っ伏して泣く柊を見ていた。

 埴輪。私だって泣きたい。どうせ私は昔からおまけで殺されそうになる運命なんだ。母といい、高弘といい、添え物扱いなんだ。一番じゃないんだ。小さい頃からそこに何よりも傷ついていたと、鈍い私も二度目でようやく気がついた。オレンジ色の空がじゅっと音を立てて心の奥に焼き付いた。

「どうせおまけで殺される運命よ……」

 そう言ったら、あれあれあれ……という間に、涙がぼろぼろとこぼれてきた。柊の泣き声が止むのが分かった。

「ほのかさん……?」

「どうせ埴輪よ……」

 私は柊に負けないほどの大声で泣きに泣いた。

 世界は、私が生きたって死のうが全く関係ないだろう人であふれている。自分が死んでも海も山も変わらずあるし、泣いてくれる人だって手の足と指の足を合わせたぐらいいたらきっと幸運なのだろう。

 神様は私たちをこの世に生み出しておきながら、ここにいていいなどとは本当は一かけらも伝えてくれていない。寂しい夜をこらえ、笑いたくもないことで笑い、守らなくてもいい約束まで義理堅く守り、幾多の言葉の端々や表情の一つ一つにまで気を遣い、誰かを傷つけないように、出来れば傷つかないように、どうにかこの世に間借りしようとしたところで、何が報われるわけでもない。実の母には愛の果てに道連れにされそうになるし、恋人だと思っていた男の人には婚約者がいて、大したこ理由もなくまた私の存在は消えてしまいそうになる。

 もちろん、心中に巻き込まれるなんて目に遭う人は少ない。しかしどんな形であっても、自分の命を誰かの感情より軽く扱われたことのある人間なら、日常の隙間から窺っているある弱気の恐ろしさを知っている。ある簡単なからくりに気づいてしまっている。

 脳みそマッチョな熱い教師や、前世療法の施術師や、街頭に流れる音楽や、小難しい心理書がいくら「君は生きている意味がある」と伝えていたとしても、そんなものは巨大な力の前では、風前のともしびだということに。この命に大した意味なんてないということに。 

 普段は色んなものに囲まれて、笑顔を向けられて、地球より重い命だと催眠術をかけられて、愛されているような気がして、何となく気づかないだけだということに。



 私たちが泣きやんだのは、もう夕焼けがあたりを支配する時間帯だった。

 鼻の頭を真っ赤にした柊が、まだ止まらない横隔膜のけいれんと格闘していた。

「二回目だったの、心中。母親のに巻き込まれそうになって」

 私は運転席の横に置いてあった、携帯電話会社のロゴが入ったティッシュを抱えたままで言った。

「何それ、呪われた埴輪」

 柊が私の手からティッシュの箱を奪って鼻をかんだ。

「黙りなさい」

 柊は口をつぐむかわりにこう言った。

「そういう人が好きね、高弘。まるで誰かを助けないとこの世に生きていちゃいけないって思ってるみたい。ああ、もう死んじゃったけど」

「結局女なんて男に何一つ救ってもらえやしないのにね」

 私は言った。柊はじっと前を見つめていた。そして、まるで犬か猫みたいな切ない角度で首をかしげると、ふっと笑った。

「そう思えるなら幸せだね」

「え?」

「私は何にだってすがりたかったから。一晩だって、一瞬だって誰かに救われたいって思っていたから」

「……そう」

 夕暮れのオレンジ色が、柊の白い手に落ちていた。彼女がどういう苦労を背負ってここまで歩いて来たのかは知らないが、少なくとも私の思い計れる範疇の生易しい苦労ではなさそうだった。

 ただ、分かっていたのは、この瞬間この夕暮れを分け合っているのは、世界中で私と柊だけだということだった。私たちは果てしなく孤独だった。高弘の死というものを挟んで、どんな人たちより二人きりだった。そのことだけは痛いほど分かった。



 結局私たちは夜の道を幽霊カーブへと向かった。

 高速を降りて一般道に入ると、あたりは驚くほど暗く、密閉された時間と空間の中で、沈黙がやたらと際立った。時折過ぎて行く対向車のエンジン音が、ダンプカー並みの音量で鼓膜を揺らしては消えていった。

 この柊という女を、私はどこかで一人の人間として感じるようになっていた。彼女は「高弘に関係した嫌がらせ女」ではなく、きちんと私の頭の中で固有名詞「芹沢柊」として登録されたのだった。

「昼間に来ればソフトクリームとか牧場とか、きっと何かしら楽しみがあったのに」

 私は言った。

「ほのかさんと二人でソフトクリーム食べたり、牛とか馬とか見てもねえ」

 柊が言い、私は確かにそうだと思った。私たちの関係性としてありえなかった。

 だけど、それも悪くないなと思った時から、だけど叶わないなと思った時から、遠い世界のどこかで、この世ではないどこかで、私と柊はソフトクリームを食べて、のっそりした牛を眺めているのかもしれない。大した話題もないのに、おいしさでついにこにこしながら、柊の黒い髪は太陽に輝き、私はむき出しの額に高原の風を受けて、そこに立っているのかもしれない。目を閉じてそう思うと、ちょっと泣きそうになった。

 それはひょっとしたら高弘と行くはずだったログハウスや、母と心中を企てた男の人と行くはずだった遊園地でも同じことなのかもしれない。

 この人生ではしがらみで決して叶わなかった約束が、ずっとずっと遠い時間と空間の果てに存在していて、そっと果たされ、見えない力で私を支え続けているとしたら。そういうのっていいなと思った。でも、柊には黙っておこうと思った。

「ねえ、高弘のどこが良かったの?」

 右にウインカーを出しながら、柊が言った。

「どこがって? うーん……ちょっと暗くて、優しくて、何考えてるか分からない所かな」

 正直に答えた。

「私はつらい時になぜか側にいてくれたところかなあ。「なぜか」っていうのがポイントね。不思議と外さないよね、というような」

「単純だなあ!」

「ほのかさんこそ!」

 言いながらも、真理だなあと思った。男だろうが女だろうがその「側にいてくれる感じ」が、その人を優しく微笑ませもし、地獄のような愛に貶めたりもする。だけどきっとそれが全てだ。

「ねえ、本当に「なぜか」なの……」

 夜の闇に響く柊の澄んだ声を聞きながら、私はだんだん眠くなってきた。

 泣きすぎたせいかもしれない……、高弘と来た時もこの辺で眠くなってしまったのよね……もう一度死ぬ目に遭うのはごめんだわ、だから起きていないと……と思いながらも、私は眠りに落ちていった。幽霊カーブは刻一刻と近づいていた。



 家のベッドで寝る時以外はあまり夢を見ないので、見慣れた橋の上の風景が現れた時は下手くそな瞬間移動をしたような気持ちになった。

 私はいつもの橋の真ん中に立っている。錆びた柵の側に、顔の見えない若い男の人と、母が立っている。母はいつものあの笑顔を浮かべている。幼い私は手を引かれ、橋の下を覗き見てははしゃいでいる。空は底抜けの青空だ。

 母の足がいつものように一歩進み、頭の上までほどの高さのフェンスを登り始める。

 ああ、いつもの夢だ。また、私は道連れで死んでしまうのだろうか。私はいつも通り絶望的な気持ちになる。ここで母が手招きするか、男が私の手を引くかして、私はあのフェンスを乗り越える。

 しかし、不思議なことが起こった。母がまるでフェンスに拒まれたように後ろにしりもちをつき、そのまま横に転がって、膝から血を流したのだ。こんなパターンは初めてだったので、私は驚いてその光景に釘付けになった。

 小さな私が母に近づき、しきりに何か言っている。ああ、聞こえない。私はもっとよく聞きとろうと、3人の方へと歩きだそうとした。

 その瞬間、母があの美しい微笑みをふっと浮かべ、小さな私を、壊れてしまってもいい、だけど絶対壊したくないといわんばかりにぎゅっと優しく抱きしめたのだ。私は思わず足を止めた。私の心がぎゅっと締め付けられているようだった。

母が耳元で何か話している。

 そして、母が顔を離した。小さな私が大きく顔をそらせて泣き出した。

「ママー! ママ――! ママ―――!」

 甘えるという美しさを全て体現したような澄んだ声で、幼い私は泣き続けていた。

 ――……何が起こったか分からなかった。

 胸の中の熱い塊と、自分の背中にある車のシートの感触を感じた。ああ、夢だ。何だかすごい夢だった。現実に戻って来たんだなと、しっかりと機能し始めた五感が伝えていた。

 そうだ、私は柊と幽霊カーブに来ているんだ。エンジン音がしないから、もう着いたのだろうか。耳に感じる温い感触は泣いているからだろう。起きたと気づかれたら、柊に涙の理由を説明しなくちゃならない。ちょっと面倒だな……と思いながら、ゆっくり薄目を開けた。

 ――そしてそれは柊が、私が眠っていると信じている時間から、目覚めたと気づくまでのほんの数秒の間に起こった出来事だった。

 柊と私の目が合った。

 柊は全てを抉り出さんとするように深く深く私を凝視していた。無表情の仮面の下に鬼神が棲んでいるような、強烈な憎しみの表情だった。目はどこまでも澄み切っているのに、不思議と悲しく燃えていた。こんな顔をする人を見たことがなかった。私の体の組織の一つ一つ、細胞の一つ一つに至るまで、彼女は全身全霊で憎んでいるんだ。高弘の命が尽きる時、側にいたのが自分ではなかったという事実は、高弘の最後を私に奪われたということは、この人にとってそこまで激しい感情を呼び起こすほどの、決して埋められない喪失なんだ。私はようやく、体の底から理解した。

 殺される、と思った。全身が総毛立つような震えが来た。殺されてしまう方が自然だった。それほどの激情で、彼女の瞳は私の魂を射抜いていた。

 私が目を覚ましたと気づいた柊は、ふと視線を逸らして前方を見つめた。その横顔からは憎しみの表情が消えていた。

 ――そうだったんだ。

 柊は、高弘の死の瞬間にいた私のことが、憎くて憎くて仕方ないのに、それでも高弘に繋がっている何かが欲しくて、本当にどうしようもなくて、私を誘ってしまったんだ。車まで出して迎えに来て、ここまで来てこうしているんだ。それほどまでに好きだったんだ。

切なかった。

「……柊」

 私はその横顔に呼びかけた。

「そんなに憎いなら、また、ぶすって刺してもいいよ」

「……起きてたの」

 気が付いていたくせに、柊が言った。

「おまけで殺されるよりずっといいわ。今、自分の命をやたらとはっきり感じたもの」

 振り向いた柊が笑った。

「……何それ。マゾっぽい」

「そうかしら」

「ふふふ。そんなんだから命の危機に遭ってばっかりなんだよ」

「笑いたきゃ笑っていいわ」

 私はフロントガラスに切り取られた星空を見上げた。柊も小さな頭をシートに預けて空を見上げていた。

 この星空を、もう二度と訪れることはないのです。ちょっとずれた位置で出会ってしまっただけで、ほんの些細なかけ違いで、ひとときどんなに深く通じ合った気がしても、共にはいられない未来を歩いていくしかないのです。人ってそういうものなのです。

 なぜかふと、そんな気持ちになった。きっと明日の朝になれば忘れてしまう気持ちなのに、「ああ、あの柊って子とは、違う出会い方をしてたらもっと仲良くなれたのかなあ」程度の思いになっていつかは消えてしまうのに、私はこの思いが代えがたい真理であるかのように、今ここにある全てを全身全霊で悼んだ。

 柊が人にそういう感情を抱かせる子なのか、幽霊カーブという恋人が死んだ特殊な場所にいるからなのか、それとも、私の悼む気持ちこそが真理で、普段は日常にまぎれて気が付かないだけなのか分からなかった。知ってしまってはいけないこの世界の秘密のような気がした。

「外に出てみようよ。ほのかさんが眠っている間に花を買っておいたから」

「準備がいいわね」

「あのガードレールが途切れてるところだよ」

 柊が言った。

 私たちは暗い道の上を歩き出した。



 幽霊カーブは確かに嫌な感じのする山道のカーブだった。何かしら見える人や感じる人だったなら「人の悪い思いの吹き溜まりとなる場所です。それが生きている物を引きずり込むのです」とか、「普段は日常に隠れてる死の衝動を増幅させる場所です」とか言うのかもしれなかった。

 だけど私にとっては、生きている人間である柊のさっきの憎しみの方がよっぽど怖かったので、幽霊カーブの念らしき者たちも子供が書いたお化けの絵のように、どこか愛嬌がある存在に思えた。高弘が死んだと聞いた時の周りの無関心さや、忘れていくという自分自身の中の無慈悲な力の方がよっぽど怖いと思った。

 途切れたガードレールの下を覗くと、暗い道路灯の下でも木々が大きくえぐれているのが見えた。根本から折れた太い幹が、所々きらきら光って見えるのは、割れた窓の欠片がまだ残っているからだろう。

 柊が手に持っていた菊やりんどうを寄せ集めた地味な花束を、崖の下へと投げた。花束はくるくると回りながら、崖の下の闇へと吸い込まれていった。しんとした気持ちになった。

「……私のせいかなと思ったりもするの」

 柊が言った。

「高弘は私という存在から逃れられなくて、世界も生きている動機もどんどん狭くなっていって、結局どうにもならなくて死んだのかなって」

 あり得るだろうなと思った。

 崖の下から温い風が吹き付け、柊のTシャツをはたはたと揺らした。

「しんどそうだったとか、何か前兆はなかったの?」

 私は尋ねた。柊は頷くでも否定するでもない微妙な角度に顔を背けた。

 強い思いというものは、味わえば味わうほど麻薬みたいに人生を犯すのだ。柊は高弘の人生にとって、きっとそういう思いを抱かせるものすごいエネルギーを持った存在だったのだろう。こんなに強烈な女が側にいたのなら、私を出来るだけ優しい所へ、ただ心地よく側にいてくれる存在として扱ったのにも納得がいく。私が知るすべはないが、きっと何かどうしようもない形で、高弘と柊は末期だった。高弘ばかりが疲弊した。もしかして最初から、辛さを慰めるそのためだけに、私が選ばれたのかもしれない。

 それでも高弘は生きる気力を取り戻せなかった。そして、自分にとって非常に犯しがたい存在であった柊を、死に道連れにする勇気もなく、私を道連れにして死のうとした。

 私は、夢の中でぐいぐいと私の肩を押した高弘の真剣なまなざしを思い出した。あそこで目覚めなければ、私は柊とこうして幽霊カーブに来ることは一生なかったのかもしれない。柊に私を出会わせたかったのだろうか。

 だとしたらずるいなと思った。そして、中々いいなと思った。

 私が殺されかけたことも、こうして生き残ったことも、柊とここまで来たことも、重要な意味があるのかもしれないし、全くないのかもしれない。でも、何かしらのゴールま出来っちりと走り切ったという感覚はあった。やるべきことを、いいタイミングで、自分にしか出来ないやり方で、やり切ったという代えがたい実感があった。

「高弘が幸せだったのか、不幸だったのかなんて誰にも決められない」

 私は言った。

 柊は何も言わなかった。分かってると言わんばかりに目を閉じていた。

「さっきさ、寝言で言ってたよ」

 柊が言った。

「え?」

「ママ――! って」

「うるさいなあ。そういうことは聞いてもそっとしといてくれるもんでしょ……」

 と、上手く切り上げてしまおうと思ったが、どうしてか、濃密な夏の夜の気配と、さっき見た柊のむき出しの感情が、私にそうさせなかった。

「……小さい頃ね、いつも道連れにされて死んでしまう夢ばかり見てたの、私」

「さっき見てたのもその夢?」

 柊が言った。

「うん。でも、今日は少し違った。橋の上にいて、母がフェンスを登って乗り越えようとするんだけど、なぜか転んでしりもちをつくのよ」

「ふーん……」

「それで、母が膝を怪我するんだけど、小さい私が何か言うの。そうしたら、母がぎゅっと私を抱きしめるのよ」

「ふーん……」

「ふーんじゃなくて何か言いなさいよ。せっかく話したのに」

「……いい夢だね」

「それだけ?」

「うん、それだけ」

「もう。話して損した!」

 話した覚悟に見合う返答をあきらめて、車に戻ろうと足を踏み出しかけた時だった。

「これは物語なんだけど」

 柊の声が後ろから追いかけて来た。私はその場に立ち止まった。なぜか振り返りはしなかった。

「――ある所に、男と女がいました。女には子供がいましたが、得も言われぬ事情から、三人で赤い橋の上から飛び降りて心中を図ろうとしました」

 柊の声は静かだった。一体何なの、と言おうとした私の言葉はその静けさに飲まれて心の奥へ消えていった。

「しかし、フェンスを越えようとした時、スカートが張り巡らされた有刺鉄線に引っかかり、女は大きく後ろに転んで、その拍子に膝をすりむいてしまいました。……ここまでは大体合ってるかな?

女も男も泣いていました。男と女は再び橋のフェンスを乗り越えようと足を踏み出しました。ところが、そこで子供が言うのです。そっと女の擦りむいた膝に手をあてて、

「イタイのイタイの飛んでけー」

 と言うのです。細く小さな声でそう言うのです。

 女は思わず踏み出した一歩を後ろに下がらせました。

 そして、思いました。

「――これからもっと痛いことがあるのに、じゃあこの子のこの手って何なのかしら。そうされて流れてきちゃうこの涙って何なのかしら。大げさに言えば、私たちは結局死んでしまうのに、優しくし合ったり、庇い合ったり、そうされることでこんなにも心が震えたりする。もしかしてそれってちょっとすごいことかもしれない。

きっとまた激情は襲ってくるだろう。燃えるような愛の前では何もかも無価値だと、私はこんなにも知っている。だけど、私は一瞬死を、その愛をためらった。その全てを中断した。業火にそれでも落ちてくる一滴の水の美しさに、こんなにも見とれた。

この一瞬の気持ちにかけて生きられるだろうか。私にも、出来るだろうか」

そして、3人は手を繋いで橋を戻りました。夏の昼下がり、蝉はどこまでも高く鳴き続けていました」


    ◇


 私が会社に復帰したのは、それから一週間後だった。早い復帰に周りは驚き、何度も早退をすすめられるし、事情をよく知らない人から「恋人と死に損ねたかわいそうな女」という目で見られるのにはうんざりした。それでも、帰りにコンビニで胡散臭いお菓子を買ったり、満員の通勤電車でふと会社の後輩を見つけたり、そういった小さな日々の欠片が再びささやかな輝きを取り戻し始めたことは、素直に嬉しかった。

 鈴ちゃんは相変わらず取引先の悪口に余念がないし、社長は相変わらずお人好しで、お陰でぎりぎりで受けてきた仕事に全員で残業づくめになる日が続いた。

 柊からの手紙はそんな日々の中、エステのDMや電気料金の支払い書に紛れて、ひっそりとポストに届けられていた。


 ほのかさん


 あなたとは昼間の蓼科の高原だの、牧場だのに行く運命ではなさそうなので、せめて写真を送ります。

 ソフトクリームおいしかったよ! ほのかさんもぜひ、高弘の死を慰めてくれる男友達といつの間にか恋人になったりなんかして、二人で行くといいよ。

 あの日、一緒に幽霊カーブへ行ってくれてありがとう。殺されてもいいと言ってくれてどうしてか嬉しかった。なんせ憎しみは孤高ですから、受け止めてもらえないとその私の心は永遠に一人ぼっちなわけです。今はそう思わないから。あなたのおかげだと思っています。本当にありがとう。

 あなたみたいな女と誰も一緒に死にたいと思わない、ってあれはほめ言葉です。この人と一緒になら生きていける。そう思われた方が、よっぽどいいことなのだから。

そうでしょう?

それでは、またいつか。    芹沢柊                

                  

 手紙というところが、妙に柊らしかった。写真の柊は、青空の牧場を背景に今にも溶け落ちてしまいそうなソフトクリームを持って、真っ白い歯を出して笑っていた。かさかさと音をたてる便箋をたたみ直しながら、私は窓をあけて夜空を見上げた。上を向いたので涙は流れては来なかった。

 柊。あなたは一滴の水の美しさを信じるの? あなたはどんな業火でも真っ直ぐ愛というものに飛び込んで生きて行きそうだから。

 返事を書こうか悩んだが、私は結局ペンをとることもなく、柊とはそれっきりになった。だけど、答えは分かっている気がした。そしてこれでよかったのだ、と思った。

 窓から見える夜の街は、あの夏の気配をそっと手放し、澄み切った秋の空気の中で静かに輝いていた。  

                         

                                 終わり


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