第三章 遠ざかる天蓋

遠火

1891年(明治24年)5月13日 午前七時過ぎ 内務省・政務課


村岡が課に入ると、すでに部屋の空気は張りつめていた。

誰もが朝刊の見出しを目で追っている。いや、黙読しているというより、視線が吸い寄せられているのだった。


「……『死刑論相次ぐ』です」


課員のひとりが、手にした新聞紙面の見出しを読み上げた。

活字が大きいわけではない。ただ、見出しと並ぶ筆致に、火薬の臭いが染みていた。


「複数紙が、議員の談話をあおってます。“主権の危機”“日本人の礼節が問われている”――」


村岡は、黙って別の紙面を取った。

朝日、読売、都新聞――論調に濃淡はあるが、すでに「津田事件」は各紙で主要記事として扱われていた。

しかもただの報道ではない。

“怒り”が、意図的に、あるいは無自覚に紙面に書き込まれている。


「これを、ただの報道と言い切れるか……」


誰ともなく漏れた声に、室内の空気がわずかにざわついた。

火は、確かに起きている。

ただしそれは、未だ遠く、けれども確実に風に乗って迫ってくる――そんな印象だった。


村岡は、手元の新聞を折って机に置き、指先で額を押さえた。

昨日の午後にかけて打った“報道封鎖”の布告は、強制力こそあるものの、時間との競争では限界がある。

各紙とも“封鎖前”に手に入れた談話や材料を元に、ぎりぎりの編集をしているのだ。

表立った非難は避けながら、社会の感情を煽る。

その筆の動きを完全に封じる術は――いまのところない。


「外務には、すでに抗議文が届いたか?」


「まだです。大使館側は、引き続き“静養中のご意向”として、報道についても慎重です」


「慎重なうちに、鎮めなければならん」


村岡は吐くように言った。


「このまま煽り続ければ、“正義”の名で津田を処刑せよという声が止まらなくなる。

それが、我々の正義とどう両立する? いや、正義は複数あるのか?」


言いながら、村岡自身にもその答えはなかった。

刑法に基づけば、いずれ津田には裁きの場が設けられるだろう。

だが、その前に「世論という裁判所」が彼を絞首台に乗せてしまえば――それを政治は止められるのか。


「政務次官が今朝、宮中に控えております。おそらく、見舞いの段取りかと」


その報告に、村岡は小さく頷いた。


「ならば、今朝中に政府声明の草案に入る。外務、司法、官邸と連携をとって、

最悪の筋書――すなわち“公的死刑要求”を封じる構えにする」


「世論の火が強まりすぎれば、逆に“恩赦的減刑”に対する反発が来るのでは?」


「来るさ」


村岡は新聞を手に立ち上がり、無言のまま窓のほうへ歩いた。


「だからこそ、いま消さなければならん。火が目に見える前に、水をかけるんだ。

誰に見えずとも。新聞にも、読者にも、ましてやロシアにも」


外はもう十分に明るく、日差しが省内の石畳に反射していた。

遠くで、まだ見ぬ火がくすぶっている――そんな朝だった。


           *


1891年(明治24年)5月13日 午前九時半 内務省・政務課会議室


「……よろしいですね? この文案を外務省・官邸側に回し、明日中の発表として進めます」


会議室の中央に置かれた机の上には、二枚の紙が置かれていた。

村岡の手になる草案である。

文面には、政府の遺憾の意と治安の責任に触れつつ、津田を「法の下に厳正に対処する」と記されている。

だが、“死刑”の文字はない。

あるいは“激しい非難”といった情緒の語も、意図的に避けられていた。


「我が国の法秩序に則り、厳粛に裁きを行う。ロシアに対して感情的な譲歩はしない――そう読める内容です」


若い課員がそう確認した。


「それでよい。これは感情の問題ではなく、制度の信頼性の話だ」


村岡は頷いたが、表情に硬さが残る。


「……ただし、外務は異を唱えるかもしれん。“政治的妥結”を先に図るべきだと」


「忖度、ということですか?」


「そうだ。そして外から見れば、“政府の誠意”があるかどうか。それを誰が判断するのか……」


そこまで言いかけ、村岡は言葉を止めた。

部屋の空気がひとつ、すっと冷えたように感じた。


「世論だよ」


静かに言ったのは、古参の課長補佐だった。


「世論が、“それでは足りぬ”と叫べば、政府も国会も、引きずられる。

ましてロシアが、“日本が反省していない”と見れば、どこかの誰かがそれを言葉にして広める。新聞に、議会に。どこまで火が届くか、もう時間の問題だ」


「火の先を読むことはできません」


村岡は机に置かれた草案を見つめた。


「だが、火が起きていることを知らないふりは、もっとできない。

津田の刑がどうであれ、政府が先に制度を示す。それだけです」


「……今日中に閣議に通すには、正午までが限界です」


別の課員が腕時計を見た。


「外務省、司法省、それから官邸には、私が回します。準備を」


村岡は席を立ちかけてから、ふと、もう一度草案に目を落とした。


文章の中に“怒り”はなかった。

だが、“責任”の二文字が、どこか鉛のように沈んでいた。



正午すぎ 内務省本館玄関前


石畳を踏んで庁舎を出ると、陽光がまぶしく村岡の目を刺した。

いつの間にか気温は上がり、道行く人々の声もいくぶんざわついているように感じた。

その中に混じって、一人の新聞記者らしき男の姿があった。手帳を胸に抱え、誰かを待っている。


村岡は足を止め、短く言った。


「何も語ることはありません」


その一言に、記者は深く頭を下げたが、何も言わなかった。

ただ、村岡が庁舎を背にして歩き去ったあと、彼はすぐに手帳を開いた。

音のしない火が、ここにも、確かに近づいていた。


(続く)

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