もう俺には何も残っていない。ただ真実を追い続けるだけの壊れた少年に、かつて俺を嘲笑っていた学園の美少女が、今さら距離を詰めてくる。
ニュウミー
第1章 – 動かず、崩れゆく
この世界のこと、ずっとよくわからなかった。
人は、偽りの笑顔と気のない言葉で挨拶を交わし、目を合わせようとしない。
笑い声が廊下に響くけれど、それに意味があるように見えて、すぐに消えてしまう。
本当に存在していたのかさえ疑いたくなるほどに。
毎朝、校内放送がどこかの録音テープみたいに鳴り響き、生徒たちはまるで演劇の一場面のように、決められた動きを繰り返す。
観客のいない舞台劇みたいに。
――で、俺はというと。
それをただ、眺めているだけ。
最初から、その中にいる資格なんてなかったかのように。
俺の名前は、朝倉 蓮(あさくら れん)。
ここでは、その名前に特別な意味なんてない。
いや、最初から意味なんてなかったのかもしれない。
その朝も、いつものように窓際で、額をガラスに預けていた。
冷たい感触が肌に伝わる。
外の空は重く沈み、雲が今日はいつもより低く垂れ込めているように見えた。
すべてが淡い灰色に包まれ、まるで世界そのものが、自分の色を見せたくないとでも言っているかのようだった。
その景色は、俺の心の中とよく似ていた。
悲しいわけでもない。怒っているわけでもない。
ただ――疲れていた。
眠ったところで取れないような、奥深い疲れ。
息をするだけでも力がいるような。
空気が重くなって、存在するだけで精一杯みたいな、そんな感じ。
教室の中は、どうでもいい声で満ちていた。
噂話、笑い声、誰が誰を好きだとか、誰がフラれただとか、有名人のどうでもいい発言の話。
全部、隣で起きているのに、まるで遠くの水中から聞こえてくるみたいだった。
関心はなかった。
教室の隅。いつもの席で、いつものように、ゆっくりとペンを動かす。
大した内容を書いてるわけじゃない。
ただ、頭の中の静けさに呑まれないように、手を動かしているだけだった。
彼らは俺のことを話題にする。毎日、欠かさず。
聞こえてないと思ってるんだろう。でも、ちゃんと聞こえてる。
「陰気なやつ」
「長髪のアイツ」
「不気味」
まるで、名前を与えれば俺が消えるとでも思っているかのように。
それでも、俺は書き続ける。
書くのをやめたら、考え始めてしまうから。
そして考え始めたら――もっと悪くなる。
クラスの真ん中で、うるさい男子が笑った。
「また殺人計画でも書いてんのかよ」
別の奴が続ける。
「絶対、女子と一回も話したことないよな」
「てか、あのボサボサ頭いつ洗ったんだよ」
俺は反応しない。
いつも通り。
……でも、だからといって、心に残らないわけじゃない。
やつらはいつも笑って、次の話題に行く。
そして――彼女がいる。
速水 莉花(はやみ りか)。
完璧な成績。完璧な声。完璧な笑顔。
誰もが憧れるような存在。たとえ本人の意思じゃなくても。
でも、その言葉の裏には、目に見えない刃がある。
切られたと気づいたときには、もう遅い。
一度、彼女は俺を真正面から見た。
そして、クラス全員に聞こえるような声で言った。
「いじめないであげなよ。気持ち悪いのは本人のせいじゃないし」
クラス中が笑った。
今でも、あの瞬間だけは、鮮明に覚えている。
傷ついたからでも、驚いたからでもない。
――自分が、全く動じなかったから。
それが一番、怖かった。
授業が終わると、他の連中は集まって、カラオケだ、カフェだ、ゲームの新作だのと盛り上がる。
いつものように、どうでもいい予定。
俺には、そんな予定なんて一つもない。
鞄を取って、無言で教室を出た。
誰も気づかない。いつも通り。
図書室へ向かう。
あそこだけが、俺の思考が働く場所。
静かだ。
誰にも話しかけられない。
古びたパソコンのファン音と、時折めくられるページの音。
それだけで、十分だった。
奥のいつもの端末に座り、検索を始める。
未解決事件、失踪者、汚職、警察の隠蔽。
少しでも不自然な事例を、ひたすら探す。
娯楽じゃない。
繋がりを探している。
何かひとつでも。
どんな情報でも、それはパズルのピース。
たとえまだ全体像が見えなくても――見つけなきゃならない。
なぜ、あの出来事が起きたのか。
なぜ、俺だけがここにいるのか。
やがてログアウトして、荷物をまとめる。
外の光はもう、夕焼けに近かった。
教室の前を通り過ぎたとき、中から笑い声が聞こえた。
騒がしくて、雑で、思慮のない笑い声。
開きかけたドアから、その笑いがまるで安物の花火の煙みたいに漏れ出していた。
通り過ぎるだけのつもりだった。
でも――
名前が聞こえた。
俺の名前。
足が止まる。
聞きたくなかった。
気にしたくなかった。
でも、気になってしまった。
名前を口に出されるときって、大抵は"何か"に巻き込まれるときだ。
中では、誰かがゲームのルールを説明しているようだった。
騒がしくて、めちゃくちゃで、俺が呼ばれたことのないグループ活動の典型。
――たぶん、「本音と罰ゲーム」か、似たようなくだらないやつだろう。
その中に、あの声が響いた。
「ちょっと待って!?なんで私なの!?」
間違いない。
速水 莉花。
皮肉ひとつで場の空気を変える、あの声。
また笑い声。
「ゲームに負けたんだろ?約束は約束!」
「てか、莉花って今まで誰とも付き合ったことないんでしょ?今がチャンスじゃん」
「陰気なアイツに告白なんて、無理!」
声が、笑いながらも明らかに動揺していた。
俺は反射的に一歩、後ろに下がった。
誰かがこっちを見ても、気づかれない距離。
でも、それ以上離れることができなかった。
「なんかさ、いつもそこに"いる"だけって感じなの。幽霊みたい。
あんなのと付き合うとか、マジで死んだほうがマシ」
どっと笑いが起きる。
「たった一週間だよ?ビビりすぎじゃない?」
「好きって言って甘えてればいいんだよ。アイツ、何が起きてるかもわかんないって」
「たぶん、女子と話すの初めてだろうし。全部、人生初だよ」
笑い声が止まらない。
莉花はまだ抵抗していた。
その声のかすれ方で、それがわかる。
「知らないんだよ、私。あの人。なんか…見てるだけでゾワッとする。
全部見透かしてるのに、自分は何も感じてないような…そんな目」
彼らはそれを「ただの冗談」として笑い飛ばす。
言葉が人を傷つけるなんて、これっぽっちも思っていない。
「莉花、ビビってるだけじゃない?本当は惚れちゃったりして〜」
「うるさい!」
莉花が叫ぶように言い返すと、一瞬だけ静寂が走った。
でも――
誰も俺の味方なんてしない。
今までも、これからも。
その時、廊下の上にある蛍光灯がかすかにジジッと鳴って、チカチカと点滅した。
まるで、つけるべきか消えるべきか迷っているように。
周囲のすべてが、少し冷たくなった気がした。
少し遠くなったようにも感じた。
まるで、見てはいけないものを見て、聞いてはいけないものを聞いてしまったような。
――でも、もう十分だ。
俺は踵を返す。ゆっくり、しかし迷いなく歩き出す。
違う名前。違う声。
でも、繰り返される、同じ脚本。
俺はもう、"笑い者"とか、"ぼっち"とか、"幽霊"とか――
その役を演じるのは、とうの昔にやめたんだ。
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