#03 ギリギリ、セーフ、アウト、ベランダ

──桐谷 梨子きりたに りこの家のベランダ。夜11時すぎ。


 わりと風は涼しくて、夏の終わりがちょっとだけ見えてきた夜。

  空は曇りがちで、星はほとんど見えなかったけど、それもかえって落ち着く感じだった。

 遠くの道路では、たまにトラックのブレーキ音が響いていた。


 アパートの二階から見えるのは、電気がぽつぽつと灯った住宅街。静かだけど、完全な無音じゃない。誰かが洗濯機を回してる音とか、遠くのテレビの声とかが、時折耳に届く。

 その中で、4人はなんとなく集まっていた。たいした理由もなく。


 ベランダにはコンビニの袋とスナック菓子、コンビニのプリンの空きカップが転がっている。

 冷えた缶の底からは、ちょっとだけ水がにじんでいた。


 理由がいらない関係って、なんとなくありがたい。


「みんなはさ、ギリギリ犯罪じゃないこと、したことある?」

 るかがベランダの手すりにもたれながら、みんなに問いかける。

「ないよ」

 すぐさまタバコに火をつけ終え、口に咥えた梨子が返す。食い気味だった。

「タバコ吸ってる奴がそんなわけねーだろ」

 るかは煙を吐き出している梨子の方に振り向きながら、やれやれといった様子で言葉を返す。


「これは合法です。私、成人済み」

「本当に?」


 美南みなみが室内から缶チューハイを2本持って現れる。ひとつを自分の足元に置いた。

「ねぇ、とりま、乾杯だけしとく? 何にかは知らんけど」

 カン、と小さく音が鳴った。夜の静けさに、変に目立つ音だった。


「じゃあ、ひなは?」

 るかがひなたのほうを見ながら尋ねる。


「ん~……公園の鯉さんに、“さくら棒”を1本まるごとあげたことかなぁ」

「何それ」

「さくら棒って何?」

 梨子が眉をひそめる。


「静岡名物。お麩みたいなお菓子。めっちゃ長いやつ」

 るかがサラッと補足する。


「1メートルくらいあってね~。あれをちぎってポイッてあげたら、鯉がわぁぁって群がってきて。ちょっとファンの現場みたいで、情けなくて、可愛かったの」

「言ってることとやってること、割と最低だからね」

 梨子がじっと見つめる。

「え〜でも、鯉さん嬉しそうだったよ?」

「その“鯉さん”って言い方で全部ごまかせると思うな」


「じゃあ、みなは?」

 るかがふと訊く。


「んー、弟の動画配信サービスのアカウントで映画観たことならある」

「それ普通に犯罪寄りだよ」

 梨子がタバコの煙をくゆらせながら即答する。


「でもさ〜、映画見ながらのお酒が進むのよ」

「そっちのほうが法に触れてる気がする」


「あとさ、履歴消し忘れて、勝手におすすめが“恋愛リアリティーショー”だらけになって、めっちゃ怒られた」

「みな、意外とそういうの見るんだ」 

 一瞬だけ、空気がゆるむ。

 でも、それに乗じるように、ふと風が吹いて、ベランダの灰皿の端をかすめた。

 しん、とした時間が少しだけ流れる。


「……あたし、それで弟にパスワード勝手に変えられてから、マジで一言も口きいてないんだよね」

 美南がポツリとこぼす。

 缶の表面についていた水滴が地面へと落ち、小さな染みへと変わる。


 るかが何かを言いかけて、やめた。

 梨子は黙ったまま煙を吸って、何も言わなかった。


 そういう沈黙って、わりとありがたい。


「え、てかそれで終わってんの?」

 思いついたように、るかが笑いながら聞き返す。


「終わってるよ。『家族だからこそ面倒』っての、あるじゃん?」

「まぁ……あるかも」

 梨子がタバコを指で弾きながら、ベランダの向こうを見ていた。


 誰かが、何かを言いかけたけど、結局何も言わなかった。

 夜の住宅街は相変わらず静かで、遠くで車のエンジン音がゆるやかに通り過ぎていった。


「……鯉さんは、文句言わないのにね」

 ひなたの声に、みんながそれぞれの手元にある缶やタバコに、視線を向ける。

 でも誰も笑わなかった。

 

 その沈黙がいやじゃなかった。多分、みんなちょっとずつ、疲れてただけ。


「いや、だからその“鯉さん”って言い方で全部ごまかせると思うな」

 梨子が吹き出しながら言うと、空気が少しだけ戻る。


「……てかさ、今思い出したけど」

 美南が缶ビールのプルタブを引きながら、ふと呟いた。


「チェキ会のときにさ、“これって2ショットですか? 3ショットですか?”って聞かれて、咄嗟に“守護霊なんで大丈夫です”って答えたことある」

「は?」

 缶チューハイを飲んでいた梨子が、眉をひめた。


「いや、隣にぬいぐるみ置いてたから。たぶんその子のこと聞かれてたんだけど、“守護霊はカウントされないんで、気にしないでください”って言ったの」

「怖すぎるって」

 るかが思わず吹き出す。


「でもファンの人、“あっ……はい”って納得してたの。しかもチェキに“守護霊ちゃんもありがとー!”って書いてくれて」

「あぁ、乗ってくれたんだ、優しいな」

 タバコをくゆらせながら、梨子が小さく頷いた。


「でしょ? でもその日から毎回、“今日も守護霊ちゃんと一緒に撮ります”とか言われて。なんかこっちが怖くなってきちゃって」

「もう守護霊とみな、どっちが推しなのかわかってないじゃん」


 笑いが小さく広がる。風が梨子のタバコの煙を優しくさらっていった。


「ひなもあるよ〜」

 ひなたが缶ジュースをくるくる回しながら手をあげる。


「ひなはね、小学生のときから“15歳”って言ってたの」

「え、それは無理があるって」

 美南は目の前を飛び回る蚊に視線をやりながら、ひなたへと言う。


「“永遠の15歳”ってことにしてたの。でも、年齢確認のときに保険証出したらバレて、チェキで“詐欺罪”って書かれたことあるの」

「どんなファンだよ……」

 美南が吹き出す。


「しかも“今日から年齢偽装、卒業します”って発表したら、逆に“えっ、違ったんですか!?”って驚かれたの」

「信じてたの⁉」

「だから、申し訳なくなって“あ……15歳のままにしときます”って引き返しちゃった」

「もう迷走しちゃってんじゃん」

 るかが笑いながら、梨子の缶チューハイを一口もらう。


「私はあれだな。誕生日の時期が微妙すぎて、祝われたり祝われなかったりするのが面倒くさくて、“5月生まれ”ってずっと言ってた」

 タバコの煙を吐きながら、梨子が言った。

「本当は?」

「10月。半年以上違う」

「大ウソつきじゃん」

 美南は後ろで蚊を叩いて、ひとりでガッツポーズをしていた。


「でもさ、それでも祝われると嬉しくて、“あれ?私ほんとに5月生まれだったかも?”ってなってた時期あった」

「ファンもなんで祝うんだよ」

「だって、『誕生日おめでとう!』って言われると、なんか……いいなって思っちゃうじゃん」

 梨子が目線を伏せて笑う。


 話はだんだん“懐かし恥ずかしい自分”に向かって、緩く転がっていく。

 あの頃の嘘のいくつかは、誰かのためだったし、たぶん自分のためでもあった。


 気づけば、梨子も少しだけ笑っていた。

「……嘘ついてる自覚、あの頃あんまりなかったな」

 静かにこぼすその声に、誰も突っ込まなかった。


 ゆるい沈黙の中で、また風が吹いた。

 4人の前髪が少しだけ揺れて、それがその夜の空気に溶けていった。


「でもさ、“グレーゾーン”の線引きってさ、むずくない? たとえば──“夜中の住宅街でパーカーのフード被って走る”とか」

 るかがポテトチップスの袋をいじりながら言う。

「それ、間違いなく不審者だよね」

 梨子が即答する。


「合法だけど、通報される可能性高いやつ」

「でもわかる。ひな、夜中に家の前の自販機でコーラ買っただけで、通りすがりのおじいちゃんに“うわっ”って言われたもん」

 ひなたが肩をすくめて笑う。


「あたしも、深夜2時にコンビニの前でレジ袋めっちゃガサガサ鳴らしてたら、警備員っぽい人にずっと目で追われたことある」

 美南がふてくされるように言う。

「でもそれ、みなが真っ黒なパーカー着て、サングラスしてたからじゃないの?」

 梨子がタバコを指に挟んだまま、顔だけ向けてくる。


「それがちょうど“推しの舞台”の帰りだったのよ。ペンライト2本も持ってたし」

「……それは怪しい」

 数秒の沈黙のあと、全員が笑い出す。


「ねえねぇ、みんなってさ、たとえば“誰にもバレないならやってみたいこと”とか、ある?」

 ひなたがぽそっと呟く。


「嫌いな奴を呪い殺すとか?」

 るかが食い気味で答える。

「怖いって。犯罪だよ」

「いや、呪うだけだからセーフ」


「あ、そういえばあたし、りこにアイス買ってきてって言われて渡されたお金のお釣り、少なく返したんだよね」

 美南が缶ビールを口にしながら言う。

「それ、立派な詐欺罪だよ」

「通報した」

 梨子がタバコの煙を吐きながらぼそっと言う。


「え、ちょっとやめてって。りこ、あのマンションから警察があたしらのこと見てないよね?」

 美南が身をかがめて、向かいの建物をちらっと見る。

「見てるわけねーだろ」

 るかが即ツッコミを入れる。


「みなちゃん、逮捕されちゃうかもね〜」

 ひなたがジュースの缶を傾けながら、冗談めかして笑う。


「ねぇ、ちょっと。警察来たらみんな助けてよ? 仲間でしょ?」


 一同、沈黙。


「……ちょっと! あたしたち Milky♥Tune の友情は、永久不滅でしょ!?」

 美南が両手を上げて叫ぶ。謎のカーテンコールみたいに。

 夜空に向かってポーズまで決めていたけど、誰も拍手はしなかった。

 るかだけが、「いや解散ライブかよ」と小声でつぶやいた。


 ──ピンポーン。


 唐突にインターホンが鳴り、全員の動きが一瞬止まる。


「……うそ!? 警察来た?」

 美南がわたわたと立ち上がる。


「普段は真面目で優しい子で……まさかこんなことをするとは思っていませんでした」

 るかが急に芝居がかった声で言い出す。


「ちがうって!!」

 美南が慌てて止めに入る。


 梨子は無言で美南の肩に手を置き、ゆっくりと横に首を振った。


「だから!ちがうってば!!」

 美南は顔を真っ赤にして、玄関の方をちらちら見ていた。

 足がそわそわしているのが、全身から伝わる。

 誰も、わざと何も言わない。


 ──そして。


 ひなたが玄関のドアを開けながら、にっこりと笑う。


「富士宮やきそば届いたよ〜」

「……ひなは、なんでそんな静岡名物ばっか推してんだよ!!」


 袋の中から取り出された発泡容器は、どれも微妙に湯気が残っていた。

 ソースの香りが、夜の空気にじわっと広がっていく。


 誰も頼んでないのに、ちゃんと箸の数は4本あった。

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