第20話「生きようと」
俺は車から降り、傘を差し一歩ずつ蹲る女に近づいた。全身ずぶ濡れ、そして何故か血だらけになっている。
俺が女の前に立つと、女は顔を上げた。俺はその時、その女が涙を流しているのを見た。激しい雨のせいじゃない。その女は涙を流していたんだ。俺はその時の顔程、人間の執念が籠もった表情を今まで見たことがなかった。
俺はこの時にこいつは普通の身分ではないんじゃないかと一瞬で気がついた。この女は何か特別な気がした。言葉は何も交わしていなかった。話しても伝わるかどうかわからなかった。表面的な言語のことじゃない、俺の言葉が彼女の底知れない場所に届く気がしなかった。何を言えば良いのか、この場でどのように振る舞えば良いのかがわからなかった。
「お前、大丈夫か?」
俺は彼女の上に傘を差し出しながら、声をかけてみた。そもそも伝わるのかがわからない。今更俺が傘を差してやった所で、彼女はもう全身水浸しだ。それでも傘の下に入ると、彼女は反応したように見られた。彼女は十数秒間、俺を見て黙っていた。そしてかすかな声で何かを話した。
「⋯、私もう死にたいの。」
彼女が何かを話しているのはわかったが、何を言っているのかはわからなかった。俺は彼女がゴーグルをかけてない状況であると思い出した。ゴーグルの同時翻訳はお互いがつけていなければ駄目だ。彼女をまずどこか落ち着いた場所に移動させなければならない。
俺は片手で、近くに停まっている車を指差し、乗れよと身振りでやってみた。彼女は車に視線をやり、何となく言いたいことはわかった様子だったが、俺が歩き出してもその場から動こうとしなかった。何をやってるんだこいつは。
そう言えば、と、もしかすると怪我をして動けないんじゃないのかと思い、彼女の足元に屈んで注意深く様子を見てみた。すると彼女の血だと思っていたものは、彼女の衣服に付いている血で、彼女のものではなかった。血は彼女の服についているんだ。俺は更にこの女に何があったのかわからなくなった。不気味さを感じた。
俺は女の片手を取り、車の方に引っ張ってみた。女は少し笑っているようだったが、腰を上げることは全くしなかった。俺はもう一度女の顔を見た。
彼女は今まで見たこともないような非常に端正で整っている顔だった。そして何よりも、死者のような鋭さがあった。
俺が立ち尽くしている時、背後からサイレンの音がした。驚いて道路に振り返ると、救急車と、何台もの警察車両が全速で走っていった。俺はまさかと思った。そしてもう一度彼女を見た。彼女は笑っていた。俺はこの時理解した。
俺は彼女を見つけた時、彼女が必要としているものは傘、移動手段だと思った。だから彼女にそれを与えようとした。でも彼女の目を見て、彼女が今必要としているものは雨を凌ぐことでも車でもないのだとはっきりと理解した。彼女は別のものを必要としていたんだ。
俺はここで、この女を見捨ててもこの国の警察に任せても良かった。俺の知ったことじゃないし、そもそも彼女は自分の意志でここにいるのならば、俺が何をやっても余計な世話だ。だから放っておいてもよかった。
でも彼女が恐らく、普通の身分の人間ではないことと、彼女が今後警察に引き渡された後どうなるのかを考えると、見捨てる気になれなかった。よくわからないが、何故かそう感じた。
足元を見ると俺自身も雨と泥でとんでもないことになっていたし、約束のパーティーも原因不明で中止になった。このままホテルに帰った所で、これから家が、俺の人生がどうなるのかが一切わからない。このとき俺は、俺の人生に何か新しいことが起き始めてるんじゃないかと感じた。根拠は何もなかった。でも何かを心で感じたんだ。そうであって欲しかったのかも知れない。何も証拠はなかった。でも新しい予感を抱いたんだ。言葉では上手く言えないが。
俺は一度車に戻り、運転手に事情を話した。謎の女を見つけたが、ここから動こうとしないことを話した。運転手はちらりと彼女を見ると、何かに気がついたようだった。
俺はもうあまり深く考えてはいなかった。ゴーグルも外した。今は役に立たない。また女の元に行った。
俺は昔見た何かの映画で、1つ深く印象に残っていた言葉を思い出した。伝わるかどうかはわからない。だが今あの女に一番必要な言葉だと思った。
俺は女の前にもう一度屈んで、彼女の目を見ながら、その思い出した言葉を言った。
「風が立つ。生きようと試みなければならない。」
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