空心
@shikyoku
プロローグ:空っぽの神
北の果て、和人の世の境界(くにざかい)と呼ばれる岬があった。
かつて、そこには村があった。ニシンの群れを追って人々が集い、神仏に祈りを捧げ、ささやかな歴史を紡いだ場所。しかし、ニシンが去り、人々が去り、今では風に崩れかけた数軒の廃屋と、忘れられた墓標だけが、塩辛い風の中に佇んでいる。
その岬の、最も海に近い崖の上に、一体の石地蔵が座していた。 永い風雪に穿たれ、その顔の輪郭はとうに摩耗し、慈愛も怒りも読み取れぬ、ただの丸い石と化している。苔は、その身に涙の痕のような緑の筋を幾重にも刻んでいた。
しかし、その石の中には、まだ、一つの意識が宿っていた。 かつて、この村人たちから「お地蔵さん」と呼ばれ、その祈りを一身に受けてきた、神仏のなれの果て。彼の名は、とうに忘れられた。祈りの言葉が途絶えて久しい今、その力もまた、冬の陽光のように弱々しく、消え入りそうに揺らいでいる。彼は、もはや指一本動かせず、ただ、目の前に広がる鉛色の日本海と、灰色の空を、永遠とも思える時間、見つめ続けていた。
その日も、風が唸りを上げていた。 その風の音に混じり、彼は、かつての記憶を聞いた。
彼が、まだ強大な「地蔵菩薩」であった頃の記憶。 病を癒し、海難から人を守り、不漁に喘ぐ村に奇跡の豊漁をもたらした。人々は彼を崇め、感謝し、その神威を讃えた。彼の周りには、常に線香の煙と、救いを求める人々の熱気が満ちていた。彼は、この和人たちの共同体にとって、確かなる守護者であり、その存在は絶対であった。
しかし、風は、別の記憶も運んでくる。 和人たちがこの地に住み着く、さらに昔の記憶。この森が、今よりもずっと深く、神々の気配に満ちていた頃の記憶。異なる言葉を話し、異なる神に祈っていた人々、アイヌの記憶。 彼の信者たちが森を切り拓き、村を広げていくその傍らで、静かに追いやられ、その文化や言葉を奪われていった人々の、声なき声。
彼は、救済の神であった。しかし、彼がよって立つ「和人」という文化そのものが、力による支配の歴史の上に築かれたものであるという事実から、彼は目を逸らすことができなかった。彼の慈悲の光は、その光が届かぬ場所で消えていった者たちの、広大な影によって縁取られていた。彼は救済者であると同時に、その存在自体が、一つの**『業』**を背負っていたのだ。
風が、さらに強く吹いた。 彼の意識は、この忘れられた岬を超え、南へ、現代の日本全土へと、引き寄せられるように広がっていく。
彼は、見た。 無数の人々が、光る板(スマートフォン)の中の、空虚な熱狂(スペクタクル)に心を奪われている姿を。人々が、互いを血の通った個人としてではなく、敵か味方か、勝ち組か負け組か、という冷たい**『ラベル』**で断罪し合っている姿を。 そこには、かつて彼が救ってきたような、分かりやすい飢えや病はなかった。しかし、その代わりに、魂そのものが渇き、すり減っていく、新しい種類の、静かな地獄が広がっていた。誰もが、自分は価値がないと、誰からも必要とされていないと、声なき声で叫んでいた。
それは、**『名前』**を失った者たちの、無数の慟哭であった。
彼の地蔵としての力は、この新しい地獄の前では、あまりに無力だった。神通力で、失われた尊厳を取り戻すことはできない。奇跡で、人の心の孤独を埋めることはできない。彼の救済の力 は、完全に時代遅れとなっていた。
—ああ、私は、このために、ここに在るのか。 信者を失い、力を失い、ただ、自らの無力さと、かつて見過ごしてきた罪の記憶を、この北の果てで、永遠に反芻し続けるために。
その絶望が、彼の意識のすべてを飲み込もうとした、その瞬間。 彼は、決意した。
このまま、意味もなく風化していく石として終わるのではない。 この無力さの、まさに、その底の底から、もう一度、始めよう。
彼は、その存在のすべてをかけて、内なる宇宙の、さらにその先へと、祈りを捧げた。かつて、自らに、この六道(りくどう)の衆生を救済せよと、その大いなる役目を託した、唯一絶対の存在に向かって。
—釈迦如来様。我が師よ。
—あなたが私に託されたこの世界で、私は、敗れました。私の力は、もはや、この新しい魂の病を癒すことはできません。そればかりか、私の存在そのものが、かつてこの地で光の届かなかった者たちの苦しみの歴史の上に立っていることを、今、悟りました。
—もはや、この『地蔵菩薩』としての強大な力も、その名も、私には必要ありませぬ。この神通力のすべてを、今、あなたにお返しいたします。
—その代わりに。どうか、この私に、最後の、そして、たった一つの力を、お与えください。
—それは、強者の力にあらず。最も無力な者として、他者の痛みに寄り添う力。
—自らの命の灯火を代償に、人々が失った、その人固有の『名前』という尊厳を、そっと呼び覚ます、ただ、それだけの力を。
—この身が滅びようとも、構いませぬ。この行いこそが、私が背負うべき、すべての罪への、唯一の贖いであると、信じる故に。
祈りが天に届いたのか、一瞬、世界から音が消えた。 鉛色の雲の切れ間から、一本の、細く、しかし、まっすぐな光が差し込み、石地蔵を照らした。その光は、慈愛に満ちていたが、同時に、深い悲しみを湛えているようにも見えた。 光が消えた時、石地蔵の眉間に、ぴしり、と一本の亀裂が走った。 そして、その古びた石の身体から、すうっと、人影が抜け出た。
それは、痩せた、ぼろぼろの衲衣(のうえ)をまとった、一人の若い僧侶の姿だった。 彼は、生まれて初めて、北の風の冷たさを、その肌で感じた。神仏であった時には感じることのなかった、激しい空腹と、心細さ、そして、自らの命が有限であるという、確かな感覚。
僧侶は、自らが抜け出てきた、今やただの石くれとなった地蔵の亡骸に、静かに手を合わせた。 そして、彼が自らに与えた、新しい名前を、そっと、つぶやいた。
「空心(くうしん)」
すべてを捨て、空っぽになった心。 だからこそ、あらゆる人々の痛みを受け入れることができる、空っぽの器。
空心は、かつての自分の墓標に背を向けた。 これから始まる、終わりに向かうための旅。 命を削り、名前を返す、贖罪の巡礼。
彼は、ただ一人、南へ向かって、その最初の一歩を、踏み出した。
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