サマーレコード

和泉

サマーレコード①

 夏の風が止まったのは、九月の初め…始業式の午後の教室だった。


 窓の外で蝉が鳴いていた。耳をふさぎたくなるほど、しつこく、狂ったように。

 でも、風だけはなかった。まるでこの空間だけ、時間が淀んでいるみたいに。


 そのときだった。

 

 ――俺は、彼女の手帳を見つけた。


 教室の俺のロッカーの端に――埃のたまった隅に、それは落ちていた。

 濃紺のカバーに、かすれた銀色の文字。ページの角は少し曲がっていて、誰かの手の温度がしみついているようだった。


 ぱらり、と風が吹いた瞬間、ページが一枚、勝手にめくれた。


 「8月32日(火)」――

 そこに、ありえない日付が、彼女の字で書いてあった。





――――


 教室内は、どこか寂しく、気まずい空気が流れていた。

 窓の外は白い雲と青い空で、どこまでも夏のままだというのに、

 

  教室の中には風も音もなかった。


 ただ、蛍光灯が一つ、ゆっくりと明滅している。

 カチ、カチ、と時計の針の音がそれに重なる。

 その音すら、やけにうるさく感じた。


 ”彼女”の席だけが、ぽっかりと、そこに残されている。


 まるで誰かが、最初から存在しなかったかのように、

 机の上にはノートもペンもない。


  誰かがそこに“いた”という証拠すら、置き忘れてくれなかった。


 誰もが、その席から目を逸らしていた。

 それは自然なことのように振る舞って、誰も話題にしようとしなかった。


 ――でも俺だけは、どうしても、目を逸らせなかった。


 彼女――あの夏に取り残された彼女は、

 

 【今も俺の中で、終わらない八月をひとり、過ごしている。】


 きっと、今日も俺を待って、あの駄菓子屋の前にいることだろう。


……彼女は白菊のような白く透き通った肌に、黒く長い髪に、その全てを際立たせる儚い様子でいるはずだ。


クラスのあちこちから聞こえるヒソヒソ話。

「各務さんって……転校したんだって……。」

「昨日……ウチの親が、学校から出てくる各務さんと各務さんの両親を見たっ

 て……」

「……え、なに?怖いんですけど。」

「まぁ…。でもあの子、不思議ちゃんだったしね……。」

 

「……なぁ。俺、そーいや”夏祭り”で”藤平と各務”が一緒になってんの見たわ。」

「えっ……俺も、アイツらが浴衣で商店街歩いてんの見たぜ!」

 

誰かの声が、何かを勝手に定義していく。

 あたかも、 “それが真実だった”かのように。


 でも――俺は、知っている。


 各務は転校なんてしていない。

 俺の目の前で、彼女は――あの日、たしかに……。


 ……いや、思い出すな。まだ、それは早すぎる。

 そう言い聞かせても、記憶は時折、勝手に顔を覗かせる。


 風鈴の音。

 かき氷の舌に残る青い味。

 祭りの屋台と、繋いだ手の温度。

 そして、最後に聞いた“大好き”という言葉。


 誰も知らない“真実”が、俺の中だけで燃えている。

 燃えかすのように黒く、熱を帯びながら。





――――――――


 「ねぇ。藤平くん。私と――遊ばない?」


 あの日の声が、不意に耳元で囁いたような気がした。

 涼しい風が、教室の窓からそっと入り込んで、俺の頬を撫でていく。

 夏は、まだそこにあった。


 白いワンピースが風に揺れていた。

 その下から覗く細い腕、透けるような肌。

 彼女は夕焼けを背に、俺の前に立っていた。


 蝉の鳴き声が、耳の奥で反響している。

 空は茜色で、どこまでも遠くて、少しだけ怖かった。


 「夏休み、ヒマでしょ? だったら……私と一緒に過ごしてよ」


 笑っていた。

 その笑顔は、まるで誘うように無防備で――

 でも、どこか壊れた人形みたいな危うさを孕んでいた。


 「このままじゃ、夏が終わっちゃうんだよ? それって、悲しくない?」


 あのとき俺は、うなずくことしかできなかった。

 何かを感じていたのに、

 その“何か”に名前をつける勇気も、時間もなかった。


高校2年生の夏休みの半ば、八月九日に彼女と、偶然、駄菓子屋の前で会った。



 

***


店先の風鈴が、ちりん、と鳴った。

 陽の落ちかけた午後三時。セミの声が壁みたいに降り注ぐ中、俺は一本のチューペットを手にしていた。


 「……藤平くん?」


 その声に振り向くと、そこに彼女がいた。


 白い麦わら帽子に、紺のワンピース。

 夏の陽射しに反射するような、その肌の白さに、一瞬だけ目を奪われた。


 「奇遇だね。私も今、アイス買おうと思ってたんだ」


 彼女は笑っていた。

 その笑みは、どこか、寂しさを隠すために貼りつけたような笑顔に見えた。

 でも、そのときの俺には、まだ分からなかった。


 「じゃあさ、ついでにさ――」

 「ん?」

 「遊ぼ?」


 彼女がそう言って微笑んだとき、

 俺は、きっともう引き返せなくなっていたのだと思う。


 彼女は、チューペットを一本手に取ると、レジに二人分の小銭を置いて、

 「いこっ」と、俺の手を掴んだ。


 「え、ちょ、ちょっと……!」


 反射的に抵抗しかけたけれど、彼女の手は驚くほど冷たくて、

 俺は、そのまま引っ張られるままになってしまった。


 真夏の午後の陽射しの中を、

 俺たちは駄菓子屋を出て、商店街の裏道を抜けて、

 息を切らしながら、坂を駆け下りる。


 「ほら、こっちこっち!」


 麦わら帽子が、跳ねるように揺れていた。

 白いワンピースが、風にひらりと舞っていた。


 数分後、川沿いの草むらに辿り着いたとき、

 遠くでは蝉の声がひときわ高く響き、

 川のせせらぎが、それを優しくかき消していた。


 「ね、ここ――涼しいでしょ?」


 彼女は座り込み、冷えたチューペットを口にくわえた。

 氷が割れる音がして、俺は隣に腰を下ろした。


 「……何で俺の手、引いたんだよ」

 俺がそう言うと、彼女は振り返らずに、こう呟いた。


 「だって、藤平くん、何もしなかったら夏、終わっちゃいそうな顔してたから」


そう言うと、ニコッと向日葵のように笑顔を咲かせていた。


「……各務と俺って、今まで接点なかったじゃん。…なのに、俺でいいのか?

  もっとこうクラスのイケメ――」


「シーーーーッ」


 各務は俺の言葉をさえぎるように、人差し指を唇に当てていた。

 そのしぐさは、やけに無邪気で、けれどどこか強引だった。


 「そういうの、今はいいの」

 チューペットをもう一口吸って、彼女は空を見上げた。


 「…… “理由”とか“きっかけ”とか、そういうのって、後で思い出すためにあるんでしょ?

  でも今はさ――ただ、一緒にいるだけでいいの」


 川の音が静かに流れる。

 彼女の言葉がその流れに混ざって、どこか遠くへ運ばれていく気がした。


 「それに、私、ちゃんと覚えてるよ? 藤平くん、去年の夏、朝顔を忘れて帰ったの」


 「……え?」


 「昇降口のとこ。クラスの皆が育ててた鉢植え、

  ひとつだけ取りに来なかったのが藤平くんだった。

  だから私、こっそり……持って帰ってあげたの。咲いてたよ。きれいに、紫で」


 俺は、返す言葉を見つけられなかった。


 彼女の中で、俺はもうずっと前から“誰か”だった。

 俺が覚えていない夏を、彼女はずっと覚えていたんだ。


 そして今、彼女はこうして、俺の隣にいる――

 まるで、忘れ物を返すように。


「……うーん。おいしっ。」


俺は、アイスを食べる彼女の横顔をただ眺めていた。

 それは、過ぎてしまった春の嵐のように唐突で、自分勝手で、優しかった。


「ふーーっ。じゃあ、藤平。一つゲームでもしない?」


アイスを食べ終わった彼女は立ち上がって伸びをした。


「ゲ、ゲーム?」


俺が聞き返すと、彼女は小さく笑って、草むらに足を踏み出した。


 「そう。藤平が勝ったらね――願いをひとつ叶えてあげる」

 「……負けたら?」

 「んー……そのときは、私がお願い、聞く番」


 白いワンピースが、また風にひらりと舞う。

 彼女の笑顔には、真剣さと無邪気さが、絶妙に混ざっていた。


 「じゃあ、勝負内容は……」

 少しだけ考えるふりをして、いたずらっぽく、彼女は指を一本立てた。


 「……この夏で、最初に“夏の終わり”を見つけた方が勝ち」


 「夏の……終わり?」


 俺はその言葉を、反芻する。

 意味を、すぐには理解できなかった。

 でも、彼女の目は真剣で、どこか哀しみを含んでいた。


 「たとえば、セミの抜け殻でもいいし、

  落ちかけの向日葵でもいい。

  ちょっとだけ冷たくなった風とか、

  誰かの忘れ物でも……ううん、

  “あ、もう終わっちゃうな”って感じた瞬間を見つけた人の勝ち」


 言葉だけ聞けば、なんてことない子供っぽい遊び。

 だけど俺には、それがただのゲームには思えなかった。


 各務はまた、俺の横にしゃがんで、

 俺はこのゲームの真意について、黙って考えていた。


 “夏の終わり”を探すゲーム。

 ――それは、終わりを認める儀式でもあり、

 彼女が“何か”を置いていくための、静かな戦いのようでもあった。


 気づけば、辺りは橙に染まりはじめていて、

 西の空には、もう夜の気配が滲んでいた。


 ふと、右肩に重みを感じて顔を向けると、

 各務は俺の肩に頭を預け、静かに眠っていた。


 「すぅーーー。すぅーーー。」


 その寝息はまるで、

 終わりを拒む子どものようで――

 あるいは、夏の夢の中にまだいたい少女の、最後の願いのようだった。


 長い睫毛。

 すっと通った鼻筋。

 そしてほんのり赤くなった頬。

 それを見つめていると、胸の奥が、ぎゅっと音を立てて沈んだ気がした。


 (……各務、お前はきっと、知ってるんだろ)


 俺にはまだ見えない“夏の終わり”を、

 もう、とうに見つけてしまっていたこと。


 でも、それを俺に言わずに――

 あの日の笑顔を、最後まで演じてくれているんだろう。


 目覚めた彼女は、まだ少し眠たげな目で俺を見つめた。


 「……ん、ふぁぁ……ごめん、寝ちゃった……」


 そう言って、軽く首を傾けた彼女の黒髪が、夕陽に照らされて――

 茶色く、あたたかく、ゆっくりと光を溶かしていった。


 それはまるで、夏が彼女を通して、俺の心に染みこんでくるようだった。


 「じゃあ、また明日ね、藤平くん。」


 そう言って、彼女は背を向けた。

 草むらの向こう、沈みゆく陽に溶けていく影。


 「……ああ。」


 俺は小さく応えたきり、しばらくその場を動けなかった。


 ――八月九日。

 それは、俺の“夏休み”の始まりだった。





 ***


 八月十日。


 昨日の出来事が嘘みたいに、今日は何も起きなかった。


 昨日、各務が「また明日ね」って言っていたただそれだけなのに、

 連絡先も交換してないし、不確実なのに、俺は身支度をしていた。――


 夕方、空が茜に染まり始めた頃、

 なぜか俺は、あの川沿いの草むらへと足を向けていた。


 だが、誰もいなかった。


 昨日、彼女が寝息を立てていた場所。

 アイスの包み紙が風に転がって、草むらの影で小さく揺れていた。


 そこに、確かに“夏”があった気がした。

 ほんの少しだけ前に、あの笑顔があったことが、信じられなくなりそうで。


 ――俺だけ、取り残されたのかな。


 そんなふうに思って、立ち尽くしていたとき。


 「……藤平くん?」


 声がした。

 振り返ると、そこに彼女がいた。

 昨日と同じ白いワンピース。だけど、今日は麦わら帽子も被っててどこか雰囲気が違った。


 「……あ、いや。本当に来てくれるとは思ってなくて」


 そう言いながら、各務は俺の横に立った。

 何かを隠すように、風を見ていた。


 「……昨日、ありがとう。楽しかった」


 「うん。俺も、楽しかったよ」


 「ね、あのさ――また、遊んでくれるよね?」


 「……うん」


 その“うん”は、昨日より少しだけ確かな音をしていた。

 そしてそれを聞いた彼女が、昨日よりも少しだけ、やわらかく微笑んだ。


「……あ。あと、LIME交換しない?」


各務が、少し照れくさそうにスマホを取り出す。

 その指先が小さく震えているのが、なんだか妙に嬉しかった。


 「あ、うん……もちろん」


 俺もスマホを出し、彼女の名前を登録する。

 画面には、「各務」という苗字だけが静かに灯った。


 下の名前は、まだ聞いていなかった。


 「ねぇ、じゃあさ。明日もまた、ここ集合でいい?」


 「……うん」


 同じ言葉を、今日は二度、使った。

 けれど、今度の“うん”は、確かな期待と、少しの勇気を孕んでいた。


 「じゃあ、バイバイ。藤平くん」


 そう言って各務は、茜色に染まる土手を、軽やかに駆けていった。

 風がその後ろ髪をふわりと持ち上げて、麦わら帽子がゆれていた。


 俺は、その背中をただ見送った。


 スマホの画面には、さっき交換したばかりのLIMEの名前。

 ぽつんと「ありがとう」だけが届いていた。


 それが、妙に嬉しくて――

 俺は、しばらく、その画面を眺めていた。




***


 その日の夜。

 俺は、ある葛藤を抱え込んでいた。


 LIMEの入力欄に、「明日は、何時から遊ぶ?」

 ただそれだけの言葉が浮かんでいたのに――

 俺は、送信ボタンを押せずにいた。


 何を迷っていたんだろう。

 たった一言すら、どうしてこんなにも重たくなるんだろう。


 彼女がまた、笑ってくれなかったら。

 昨日みたいに、待っていてくれなかったら。


 そんな“もしも”が、胸を締めつけて、時間だけが過ぎていった。


 ピロンッ。


 その着信音と共に、スマホに一件のメッセージが届いた。


  「明日は、11時ごろでいいかな?

  よかったら一緒にお店でお昼も食べたいし

  待ち合わせは、あの駄菓子屋ね」


 俺の指先は、その画面を何度もなぞっていた。

 胸の奥が、あたたかくも、痛くもなっていた。


 (……やっぱり、各務は、ちゃんと見てるんだな)


 “俺が言えなかったこと”を、彼女は言葉にしてくれる。

 そんな優しさに、少し情けなくなる。


 でも同時に、こんな自分でも、

 あの夏の中に居ていい気がして――それが、嬉しかった。


 「11時、了解。お昼、楽しみにしてる」


 ようやく、俺も返信を送った。

 今度こそ、迷わずに。正直な言葉で。


 窓の外では、虫の声がしていた。

 風鈴が、かすかに揺れた。


 (――明日も、会えるんだ)


 それだけで、今日という一日が、やっと終わってくれた気がした。


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