第2話 完璧な手術
幸い、虫垂穿孔で手術した患者は問題なく経過し、退院された。
患者が退院した日の晩、瀧口はベッドに横たわり、物思いに耽る。
あの日、実力に見合わない手術を引き受けてしまったが為に、後に引けない状況となってしまった。綾瀬がいなければ、手術を完遂することはできなかった。
綾瀬くらいの年代の外科医であれば、大した術式の変更ではなかったのであろう。
しかし、自分にはまだ術式の選択肢も狭く、何か予想外の事象が発生した時の対応力のなさを、痛感せざるを得なかった。
綾瀬に言われた言葉が未だに脳内に響いている。
自然と拳に力が入る。
しかし、綾瀬の言葉に間違いはない。
怒りの矛先は自分の実力不足に向けるべきだ。
頭を横に振り、早く眠りにつこうと努力する。
悔しさで眠れない日々が続いていた。
翌日、瀧口は外来で患者の診察を行なっていた。
数日前に胆石発作を起こした80代後半の竹下という女性だ。
農業を営んでいるという、元気のいい息子が言う。
「俺は1年前にここで綾瀬先生に胃癌の手術してもらってさ。その時に胆嚢も一緒に取ってもらったけど、何もなく生活してるよ。胆嚢なんて先生達にかかればすぐ取れちゃうでしょ。」
胃癌術後は胆嚢の動きが悪くなり、胆嚢結石および胆嚢炎の発症率が高くなる、と言われている。
そのため、術前に胆嚢結石を認めるなどのリスクが高いと判断された患者には、必須ではないが、胆嚢摘出術を行うことがある。
しかしながら、この患者は心疾患の既往があり、抗血小板薬を内服していた。
術中術後の心疾患合併リスク、手術による出血リスクが高くなることは、瀧口も予想していた。
「ええ、さほど大きな手術ではないと思われます。術前検査を行って、その他に何か問題がないか、確認しましょう。心疾患の方が許せば、抗血小板薬を術前1週間は休薬したいところですね。」
「そんなに慎重に手術しなくても、胆嚢だけなんだから、さっさとやっちゃってよ」
息子が冗談めいた口調で言う。
瀧口は困ったように笑いながら、
「まあ、念の為ですよ、念の為。」
と流した。
1週間後に手術説明、その間に各種検査を受ける予定とした。
数日後、夜の医局にて。
オンコール当番(帰宅は可能だが、救急患者等の対応をする)に当たっていた瀧口は、腹腔鏡手術の練習をしていた。
練習台の上には、小さな折り鶴が数羽、置かれていた。
微細な手術手技の訓練の為に、腹腔鏡下に鉗子で折り紙の鶴を折る。
瀧口は1時間ほどかけて折っているが、完成したものはとても鶴とは言えない形状であり、自分の未熟さを痛感していた。
瀧口が練習をしていない間に、綺麗な折り鶴が増えていることがあり、強力なライバルの存在に自分を奮い立たせた。
ふと、院内PHSが鳴る。
救急外来からだ。
「もしもし、瀧口です」
「86歳 女性。発熱、心窩部痛でのご相談です。当院外科で手術を予定している患者様になります。」
瀧口の脳裏に、先日胆嚢摘出希望で受診していた親子が過ぎる。
「わかりました、来院いただいてください。」
患者到着の連絡があり、瀧口が向かうと、やはり先日の親子が来院していた。
母親はうずくまり、脂汗をかいている。
「先生、3日前から母ちゃんがお腹痛いって言ってて。この前みたいにすぐ良くなるからって、鎮痛剤もらって飲んでたんだよ。でも、段々悪くなってきて、今は40℃くらいまで熱も上がってる。痛がり方も尋常じゃないし、意識も朦朧としてるみたいで、話ができないんだ。」
「わかりました、とりあえず、血液検査と造影CTを取りましょう。」
造影CT撮影後。
「白血球20,000超え…。胆嚢周囲に膿瘍も形成しているし、胆嚢壁も菲薄化していて、壊死している可能性がある…。」
瀧口の背中に緊張が走る。
緊急手術が必要だ。
綾瀬の院外携帯に応援の電話をかけようとした時、救急外来診察室のカーテンが開く。
綾瀬だった。
「オペ室と麻酔科医には俺から連絡しておく。術前説明をお前はやれ。」
「…はい。ありがとうございます。」
なぜこの時間に病院にいるのか、という疑問は飲み込み、息子の方へ向く。
息子は、
「綾瀬先生。大丈夫ですよね。俺の手術だって先生は完璧にやってくれたんだ。胆嚢取るくらい、なんともないですよね。」
と、綾瀬に呼びかけた。
綾瀬は息子に向かって微笑んだ。
「竹下さん。手術に完璧なんてあり得ませんよ。」
息子は驚く。
「でも、胃癌の手術だって、腹腔鏡でこんなに小さな傷でやってくれたんだ…。だから…。」
「手術は…手術は、人を治す可能性がある医療です。でも、時として手術を行うことで、人を殺してしまう可能性もあるんですよ。僕は、いつも手術をする時、人殺しになる可能性に怯えながら手術をしています。」
この言葉には思わず瀧口も怯む。
「胆嚢摘出術による死亡率は0.3%。」
綾瀬は続ける。
「この数字だけを聞くと低いと感じるかもしれませんね。でも、竹下さんのように胆嚢摘出術は簡単な手術だと感じている方が多いですよね。これは、胆嚢摘出術を受けている患者さんが多いからです。ある統計によれば日本国内で10万人が胆嚢摘出術を受けていると言います。つまり…。」
綾瀬の眼光が鋭くなる。
「竹下さんの言う『たかだか胆嚢摘出術』で年間300人の日本人が死んでいることになるんですよ。」
診察室に沈黙が流れる。
「瀧口。手術説明。あとはできるな。」
瀧口が頷くと、綾瀬は診察室を後にした。
瀧口は息子に説明を始める。
「息子さん。胆嚢摘出術を我々消化器外科医は決して甘く見ていません。胆嚢周囲には重要な臓器や脈管が存在するからです。」
やや勢いのなくなった息子が頷く。
「胆嚢は、肝臓という臓器の下に付着する臓器です。炎症がない状態でも、この2つの臓器の境界は非常に狭く、その境界を見極めながら胆嚢を肝臓から剥がしていきます。」
瀧口はイラストを用いながら説明を続ける。
「しかし、複数回炎症を起こしていたり、今回のように膿瘍、膿溜まりを作ってしまうと、その境界がわかりにくくなります。つまり、手術により、胆嚢、あるいは肝臓などの他の臓器を損傷してしまうリスクが高くなるんです」
息子が尋ねる。
「損傷した場合はどうなるんですか。」
「胆嚢を損傷すれば胆汁、消化液がお腹の中に漏れます。肝臓という臓器は実際には胆管と血管という液体を運ぶ管の集合体です。肝臓を傷付ければ胆汁と同じように出血が起き得ます。肝臓はエネルギー代謝を担っていて、血流も豊富な臓器なので、出血量も嵩む可能性があります。」
息子は少しずつ事の深刻さを理解し始めてきた様子であった。
「腹腔鏡手術でトライしますが、難しければ開腹にします。お母様はご高齢であること、心疾患の既往があることに加え、現在重度の炎症を抱えている状態です。手術リスク自体は非常に高いとは思います。でも…。」
「やらなきゃ助からない…。ですよね。」
息子が言う。
「先生、高齢ではあるけど、家で元気に家事をやってたんだ。庭には大切に向日葵を育てて、夏休みに帰ってくる孫達に見せることも楽しみにしてる。どうか、お願いします。」
息子が深々と頭を下げると、瀧口は力強く頷いた。
白夜 佐藤刀 @surge-jack
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