【短編小説】赤い傘の女

あまみけ

赤い傘の女

 昨夜のことさ。

 久しぶりにゾクゾクとしたね。

 まぁちょっと聞いて欲しい。大して怖い話じゃないかもしれないけどさ。


 もう30年以上前のちょうど今頃の梅雨の日のこと。

 先ずはそう、俺が中学2年生の梅雨の日に体験した、あの話に遡って話そう。


 199x年の6月の末。

 その日は明け方からの雨が夕方まで降り続き、通っていた2駅先の学習塾に行くのに、自宅の最寄り駅までバスで行くことにした。

 普段は自転車で行くのだが、それでも15分ほどかかる。

 徒歩だと、中学生の元気な頃の俺でも30分弱も歩かなければならなかった。


 塾の授業開始は18時で、終わりは20時なのだが、先生に質問などをしていると、塾を出たのは20:30過ぎになった。

 まっすぐ家に帰ればいいのに、塾の友人たちと駅前のゲーセンで少し遊んで、電車に乗った時には22時前になっていた。

 電車を2駅乗って、駅の公衆電話で自宅に電話をすると、「またゲームしてきて!」との母のお叱りを今日もいただき、「今日は、お父さんが遅くなって、さっき帰ってきたばかりだから、バスで帰って来なさい!」とのこと。

 親父は経営企画畑の人で、普段は19時には帰宅している人だったが、今日は仕事で遅くなったらしい。社会人になった今になって思えば、時期的に株主総会対応だったんだろう。

 普段はなんだかんだと文句を言いながらも、雨の日は車で駅まで迎えに来てくれていたのだが、そう言われると仕方がない。帰りのバス賃も貰っているので、渋々とバス停まで向かうことにした。


 俺の地元は、大阪の郊外のベッドタウンとは言え、梅田駅まで電車で30分もかからない町なのだが、21時を過ぎると、バスの本数が極端に減る。

 駅に直結した、長いアーケードの商店街を抜けてバス停が見えるところまで出たところで、ちょうどバスが出ていったのが見えて、がっくりとした。次のバスまでは20分以上待つことになるからだ。


 さっきのバスは雨で遅れていたバスではないか?と、一応、バス停まで行って時刻表を見たが、やはりバスは特に遅れているわけではなく、次のバスまで25分は待たなければいけないようだった。

 一方で、雨は霧雨の様な粒子の細かいものがパラパラと降っているだけになっていて、周りの人たちの傘を差している比率は、半々くらいになっていた。


 俺は考えた。

 ここで25分もバスを待って帰るのと、徒歩で帰るのも掛かる時間は大して変わらない。

 それで仕方なく、俺は徒歩で帰宅することにしたんだ。いつもの自転車のルートで。

 俺は雨に濡れるの嫌で、傘を差して歩いて行った。


 駅前を抜けて、バスの車庫を横目に、緩やかな登坂になっている道を歩いていった。

 俺の前方には、親父と同じくらいの40代半ばくらいのサラリーマン、60代くらいのおばさん、大きなリュックを担いだ大学生らしき男性、見たことのある制服の女子高生が歩いていて、すぐに後方から、20代くらいの男性の乗る自転車が走っていった。

 この辺まではまだ駅に近いので、駅へと向かうだろう人もいて、まだ行き交う人は疎らにいた。


 駅前からほぼ直進で歩いていって、1つ目の四つ角のところで見事に、俺の前方を行く全員が、俺の行く先とは別方向に散り散りになって行った。

 元々怖がりの俺は、一気に心細くなったが、とは言え、いつもは自転車で走っていく道だ。「何怖がってんねん。前も歩いて帰ったことあるやんか。」と、心の中で喝を入れ、その角を左手に曲がった。

 角を曲がって、昔通った耳鼻科の前を通っていく。街灯は1基だけ灯っているだけだが、周囲の家の明かりもあって、真っ暗というほどでもなかった。


 俺は、角のところの自販機で買ったメローイエローを飲みながら霧雨の夜道を行った。雨はもう傘を差さなくとも良いくらいになってた。

 メローイエローをグイと飲んだ時、後方から原付バイクが俺を追い越していき、そのヘッドライトが前方の人影を映した。鮮やかな赤の大きな傘を差した女性だ。

 その女性は俺の前を歩いているのではなく、そこに立っているようだった。


 あの人、何してんのやろ?

 俺は少し不審に思った。


 所詮、20mほど先のところに立っているんだ。

 俺が歩みを進めて距離が近くになるにつれ、女性の後ろ姿がよく分かるようになっていく。赤い大きな傘に、膝丈くらいのスカートから伸びる白い脚、靴はヒールの低いサンダルのようだった。

 ただし、今みたくスマホもケータイも無い時代である。LINEの返信や電話のために、人が道で立ち止まるようなことがほとんど無い。


 これは、時代によって変化した行動様式の1つとも言えるな。


 俺はやや訝しみながらも、ここで何してんだ?という興味もあり、少し歩速を上げて、女性を追い抜きざまに、その顔と姿をチラリと見た。

 女性は、肩までくらいの長い黒髪で、当時流行りのワンレン、ノースリーブのワンピースは白で、赤い傘とは対象的だった。

 思春期の中2の俺には毒な、その胸の大きな膨らみは、正に大人の女性の象徴で、クラスメイトの女子には無いものだった。


 少し俯き加減のその顔はよく分からなかったので、俺は女性を追い抜いた後に、そーっと振り向いて、その顔を伺い見ると、ハーフっぽい顔立ちのテレビで観る女優かモデルかのようなドキリとするほどの美人だった。

 その瞬間、女性はこちらが不躾に振り返って見ているのを察したのか、少し顔を上げた。


 俺は再びドキリとした。

 今度は、震え上がるようにだ。


 女性のその美しい顔が俺の方を見て、口角を大きく上げてニヤリと笑い、次いで、俺が目の前の角を曲がる方向に向いたからだ。


 本能的にコイツはヤバいと感じ取った。

 グイと、俺はすぐに前方に向き直り、先程より更に歩みを早めて歩き出した。いや、早足で逃げ出したんだ。


 手前の角を女性が向いた方に曲がり、しばらく行ったところで、ヤツが追ってきていないか、と心配で振り返った。

 すると、先ほどまで立ち止まっていたあの女性が角のところに見えた。

 心臓はバクバクと早鐘の打つかのように激しくなった。

 ほんの30mほど先のところにあの赤い傘が見えている。

 だが、女性は角をこちらに曲がって来ることはなく、そのまま通り過ぎていった。

 

 なんだ、からかわれたのかよぉ…


 俺は安堵して、その場で少し凹むくらいに強く握っり持っていたメローイエローの残りを流し込んだら、案の定、ゲホゲホと咽てしまった。


 なんだよもう、と独り言ながらも、安心して再び帰路を歩いて行った。

 直進して行くと、小規模の団地に囲まれるようになり、街灯が各棟にあって、夜道は急に明るくなった。

 目の前の団地の鉄製のゴミ箱にメローイエローの空き缶を捨てて、チラリと後方を確かめてから、俺はまた歩いていった。

 

 もちろん、背後はまだ気になっている。

 あの女性が、俺を追ってきてないか、と。


 団地の敷地内に入ってからは、車がすれ違えるほどの道幅になる。

 すると、左手の方から白い軽トラがやってきた。道の向こうがバス通りにつながっていて、軽トラが俺の目の前を過ぎると、すぐ近くの棟の駐車場で駐車するようだ。

 次いでまた左手から、今度は白いTシャツに短パンのじいさんが自転車でよろよろとしながらやってきた。

 どうやら銭湯帰りの様で、前かごにシャンプーやらを入れた桶が入れてあって、ゆっくりと俺の目の前の道を通過していった。

 俺はじいさんがのろのろと通過するのを見送った。ちょうどこのあたりで約半分の道のりだ。

 酒でも飲んでいるのか、よろついているじいさんの自転車を見やると、自転車のライトが照らしている先に、あの赤い傘の女性が見えた。


 街灯と自転車のライトで逆光気味になったシルエットだけだが、間違いない…あの女性だ。


 女性はゆっくりとこちらに歩いてきた。じいさんの自転車とすれ違って、女性を照らすのが街灯の明かりだけになって、不安は確信に変わった。


 やっぱりヤツだ。

 もう”ドキリ”で済ませるレベルじゃあない。

 俺は足が震えているのが分かった。心臓は早鐘のようにバクバクと鳴っていた。


 しかし、足は震えているばかりで歩き出せない。

 俺の視線はヤツに釘付けで、あちらさんもこちらが見ているのが分かっているのだろう、まだ少し離れているものの、その美しい顔がニヤリと歪むように笑みを浮かべたのが分かった。


 そう、あり得ないんだ。

 ヤツが向こうの方からやってくるなんて。


 ヤツが向こうの方からやってくるなんて、さっきの角をヤツが直進していくのを確認してから、今までの3分くらいの時間で向こうの方からやってくるなんて、到底無理な芸当なんだ。

 なんせ、さっきの角から逆戻りして耳鼻科のとこの角からぐるりと回って来なければ向こうの道からやってくることが出来ない。自転車でも5分じゃ難しい。

 あんな女性には、絶対に無理な芸当なんだ。


 俺はガクガクと震える太腿を力を入れて捻り、その痛みで我に返って、なんとかその場を駆け出すことが出来た。

 団地を抜けて、戸建ての家が並ぶ路地を息を上げて駆けていった。

 運動音痴の運動不足の自身を呪った。

 すぐに早足程度になり、乳酸が貯まって足が重くなってしまったが、もうすぐ大通りにつながるところまで来た。

 走りながら、何度か後ろを振り向いていたが、ヤツが俺を追ってくることは無かった。


 バス通りのところまで出て、あとは自宅までの坂道を登るだけだ。当時の俺は団地住まいで、バス通りの信号のあるところで、同じ団地住まいの人なのだろう、30代くらいの男性と同じ坂道を登っていくことになった。

 俺は男性の5mくらい後方を歩んでいく。自宅のある棟はもうすぐだ。


 俺が住んでいた団地は、高度経済成長期の頃に開発された大規模な団地で、30棟近くもあることからその広大な敷地内には細い裏道がいくつもあった。

 俺が行く坂道にも途中に草が生い茂った裏道があり、そこを抜けていくとバス停に遠い棟の住人もショートカットできるようになっていた。


 俺は安心して男性の後方をついて行った。

 目の前の男性が、その裏道で曲がることがなかったからだ。

 この坂道を登りきって右手に曲がれば、俺の自宅のある棟がある。

 そう安心して、俺もその裏道の横を通過した。


 瞬間、察知した。

 動物的な本能なんだろう。俺は、その右手の暗がりの裏道から、あの赤い傘を差して、こちらに向かってくるヤツを捉えたんだ。


 裏道には街灯はない。

 ただ、こちらの道には街灯が灯っており、その明かりが裏道の暗い闇に少し漏れて、ぼんやりと闇の中に赤い傘が浮かび、対象的な白いワンピースのヤツがこちらにやってくるのを捉えた。


 もう、雨は降っていない。

 俺も目の前の男性も傘は差していない。 


 梅雨の雨上がりの猛烈な厭な湿気と暑さの中、俺はゾクゾクと震え上がるような寒気を感じ、うわぁっと坂道を駆け上った。

 視覚で見たのか、それとも、視えてしまったのか、暗がりの裏道の闇の中で、あの女性がニヤリと笑ったのを見たんだよ。

 ヒィヒィと言いながらも、今度は走ったままで自宅のある棟の下まで、俺は走って逃げてきた。

 立ち止まって、キョロキョロと左右を見渡したが、ヤツは追っては来なかった。

 俺は、ポストの前に停めている自身の自転車にもたれて、ぜぇぜぇとなんとか息を整えた。

 こんなビビっているのを親に見られたくなかったからだ。なんせ中2だったしな。


 ふぅふぅふぅ…

 何度も深呼吸をして、リュックに入れてあったタオルで、顔も鳥肌のたった腕もごしごしと何度も拭った。


 5分くらい経っただろうか、同じ棟の住人が車を出そうと出てきたので、恥ずかしくなって、階段を登って自宅に帰った。

 自宅は3階だったが、やつが階段を降りてくるんじゃないかと不安はあったが、流石にそんなことはなく、俺は勢いよくドアを開け、バタンとすぐに閉めて、やっと帰宅することが出来た。


 「え、歩いて帰ってきたん!バスは?」

 そう聞いてきた母親に、「バスが行ってしまったところだったから!」と答えて、普段はすぐに夕飯を食べるところを、俺は風呂に直行した。

 カラスの行水みたいやんか、と母親に普段は言われることが多かったが、その日は平静を装えるくらいには、気分を落ち着かせる必要があったので、えらく長風呂になってしまった。


 あれ以来、25の年まで地元の町で過ごしたが、あの夜以来、俺は2度とあの女性を見ることはなかった。

 所詮は中学生だ。

 暫くはあの道を通るのを避けて、バス通りを使って塾に通っていたが、3年生に上がり、塾に通う曜日も増えて、そして、同じ道で帰る塾の友人と一緒にあの道で再び帰るようになったら、あの日の出来事も気にならなくなって、忘れたわけではないけど、なんてことなくなっていた。

 ここまでが、俺が中学2年生の梅雨の日に体験した話さ。


 時が過ぎて、俺も酒を飲むようになって、地元で昔の同級生と飲んだ時に、酒のアテみたいな感じで、「怖い体験談」と、怪談チックに話してみたが、あの小規模の団地に住んでいたヤツでさえも、赤い傘の女性のことなんて、当時も今も噂や都市伝説レベルにも聞いたことがないって話だった。

 夜の暗がりだし、よく似た格好をした別人を、たまたまそれを3人見たんじゃないの~?なんて、笑ってる奴もいたな。

 ま、でも、怪談としてはリアルだよね~なんて、ウケてはいたけどな。

 そりゃあそうさ。だって、紛れもない実話なんだからさ。


 で、ここからがホントにゾクゾクとした話さ。

 そう、昨夜のことさ。


 もう、ぼんやりとした記憶にもなっていた、あの夜のことを思い出したのは、先週の土曜日のことだ。

 その日は、予約していた午前中の病院が終わって、午後にはオンラインの研修が入っていたんだ。

 俺は、信濃町の病院を出て、外苑前近くのシェアオフィスまでシェアサイクルで行くことにした。明治記念館の前を通って、緩やかな坂道を南下して行くと、朝はよく晴れていた空が、どんよりとしたものに変わり、今にも雨が降り出しそうになってきた。

 あと少しもってくれと願ったが、虚しくもポツポツと雨は降り出し、ものの2~3分で本降りの雨へと変わった。

 道行く人の傘を持っていた人はそれを差し始め、俺と同じく傘を持っていない人は、小走りに軒先のあるビルに逃げ込んでいった。目的地まではもう少しのところまで来ていたが、運悪く信号待ちで停車することになった。

 その日は朝から風が吹いていて、少し肌寒かったので、俺は撥水加工がしてあるパーカーを着ていたんだが、ひゅっーっと強い冷たい風も吹いてくると、ブルルっと身震いするほどに急に寒くなってきた。

 風はかなり強くなってきて、向かいの信号待ちをしている大学生くらいの男性は傘が飛ばされそうになり、俺のすぐ横に立っているOLの折り畳み傘は裏返しになっていた。

 そんな時、俺の右手の大通りを横断する信号、そう、今、青信号になっている信号の方を向いた時、大きな鮮やかな赤い傘を差した女性がゆっくりと渡ってくるのを見た。


 ノースリーブの白のワンピース、ワンレンの肩まである長い黒髪、そして大きな鮮やかな赤色の傘。


 瞬時に記憶がフラッシュバックした。

 ああ、あの女性…ヤツだ。


 30年以上前のあの頃とは違う。今ではビニール傘を使う人の方が多く、あんな鮮やかな大きくて目立つ赤い傘を差す人は、今では逆に珍しい。

 バタバタとビニール傘が風に吹かれながら、女性が小走りでヤツを追い抜いていったが、一方のヤツは、悠然と、そして優雅に、ゆっくりと横断歩道をこちら側に渡ってくるのだが、人一倍、風を受けているはずの大きな赤い傘はピクリとも揺れることなく、ヤツはそれを難なく、軽やかに差して歩いていた。


 20m弱くらい先のところまで、ヤツが横断歩道を渡ってきていた。

 そして、俯き加減だった顔がゆっくりと向き上がった。そう、ハーフっぽい、テレビで観る女優かモデルかのような、色白のあの美しいの顔が、だ。


 高校3年の夏に初めて出来た彼女の顔も、大学時代の彼女の顔も、もう、写真でも見返さないと思い出せないのだが、目の前のヤツの顔は、瞬時にあの恐怖の夜の女性の顔と完全に合致した。


 あれから、あの夜からもう30年以上が経っているが、ヤツには全く変化がない。

 そう、まるで写真か映像かの様に…


 自転車のハンドルを握る力がギュッと強張った。肌が粟立つ感覚というのはこういう状況なんだろう、というように鳥肌が立った。

 心臓がバクバクと早鐘を打つように鼓動が激しくなった。


 30年以上も経ったのに!まだ昼間なのに!それに⋯ここは大阪の地元の、あの裏道でもないのに!


 早く、今すぐ、ヤツから逃げなきゃいけない!

 俺は、とっさに自転車を左手の路地の方に走らせた。

 今日はな、俺は自転車なんだよ。

 俺は振り向いて、チラリとヤツの顔を見た。ヤツと視線があった気がした。

 すると、その美しい顔がグニャリと歪むように、大きく口角を上げてニヤリとした笑みを浮かべた。

 俺は転がるように左手の道を自転車を走らせ、行先も考えずに、人通りの少ない路地の道を夢中に走り抜けた。

 気が付けば、俺は30分くらい走り続けていた。

 左手のスマートウォッチが振動して、研修の開始時刻の15分前になっていたので、急いで近くの別のシェアオフィスに入った。


 研修は18時過ぎに終了し、シェアオフィスを出たときには雨はもう止んでいた。

 休日の研修のご褒美に、外で少し飲んで帰りたかったが、あの夜のように遅くなるのが嫌になって、俺は東京駅の駅ナカで少し高い弁当を買って帰ったんだが、その日はもうヤツと遭遇することはなかったよ。


 俺が帰宅したのはちょうど20時頃だった。

 冷蔵庫にあった缶のレモンサワーで一杯やって、買って帰った弁当を食べて、ソファに横になってYoutubeを観ていると、長時間のオンライン研修疲れか、それともヤツに遭遇してからずっと気を張り詰めていたのがゆるんだからか、その晩はヤツを思い出すこともなく、ソファで寝落ちした。


 目が覚めると、スマホの待ち受けはAM6:30。もう朝になっていた。

 ソファで寝てしまったので、身体がだるい。

 俺はシャワーを浴びて、軽く朝メシを食べてから、もう少しだけと、ベッドに入って二度寝したんだ。


 また目が覚めると、今度はもう昼過ぎになっていた。

 前日のことで、精神的にも体力的にも結構疲れていたんだな。

 腹が減っていたので、原付きで近所の大型スーパーに入っているチェーンのあのうどん屋に行って、カレーうどんを食った。もちろん、鶏天もちくわ天もな。

 スーパーで買い物をしてから帰宅したのがまだ15時過ぎで、貯まっていた洗濯をして、ネットの野球中継を観て、配信の映画を観てと、その日はもう外出せずに過ごして、早めに風呂に入って寝たよ。


 週が明けて、昨日の昼のことだ。

 ランチは近くの行きつけのカレー店にしようと、12時より少し前に事務所を早めに出た。

 先週までの雨天続きの日々は何処に行ったのか、昨日はまだ6月だというのに気温が30℃を超えるほどの快晴だ。道を行く女性たちは、鮮やかな日傘を差していた。

 俺がカレー店の前に着くと、先客が5名ほどが並んでいた。

 俺がスマホでXを見ながら並んでいると、後ろに4名組の若い男性サラリーマンが並んだ。

 彼が話している内容から察するに、4人ともこの店は初めてみたいだ。

 そんな時、「〇〇さん!あそこの人、めっちゃ美人じゃないっすか?」と、この暑いのに、ジャケットを着ている一番若そうな奴が、はしゃいだ感じで言ったんだ。


 恐らく新入社員なのだろうな。俺も気になって、チラリと、そいつが指差す方を見た。

 俺を含めた5人が新入社員が指差す方向を向いた。

 すると、俺のすぐ後ろに居た186cmの俺よりデカい奴が、「おぉ、確かにイイねぇ、俺めっちゃ好き!」なんて言ってやがる。


 何いってんだよ?お前さ。

 俺は大嫌いだよ!

 もう二度と見たくなかったさ!ヤツのあの顔をよぉ!


 新入社員のガキが指差すソイツは、この界隈で冷麺が有名な韓国料理店の行列の横を通って、こちらに向かって歩いて来ていた。


 このクソ暑い快晴の空の下、大きな鮮やかな赤い傘を差して向かってくるヤツが!

 既に俺を見つけたんだろうさ!

 その美しい顔を、口角を大きく上げて歪むませて、ニヤリとした笑みを浮かべてやがった。

 

 「ほらぁ、あそこの、あの白の日傘の人ですよ~?」

 一番年長ぽい奴に、新入社員が教えている。

 

 は!?

 思わず、声に出そうになった。

 コイツらが見ているのは別の女か!?

 いや、今はそんなことはどうでもいいんだ。

 今は早く逃げなきゃいけないんだ!


 俺はもう気が気でなかった。

 今度は雨でもないのに、こんな快晴で、こんなに周りに人がいるのに、そんなのお構いなしに出てきやがった。

 俺の順番がやってきたようで、前の人が店内の階段に入っていくが、俺は列を抜けて、オフィス街の路地をヤツから逃げるために駆けていった。

 いい年したオッサンが必死の形相で走っていくもんだから、周りの人に変な奴と見られていたが、そんなの構っていられなかった。


 暫く走っていったところで、周りを見たらヤツはもう居なかった。

 事務所のすぐ近くの立ち食いそばをかっ込むようにして、12:30には事務所に戻った。

 昨日の午後は会議が続いて、俺は夜遅くになるのが嫌で、定時で仕事を終えて事務所を出た。

 普段は新橋まで歩いていくのだが、ヤツとまた遭遇する可能性もあったので、事務所のすぐそばから銀座線に乗って上野まで出た。

 上野からJRに乗り換える必要があったんだけど、昼にざるそばしか食べていなかったもんで、急に腹が減ってきて、夕飯を上野駅の近くのお好み焼き屋で食べて帰ることにしたんだ。

 

 上野駅前の大繁華街。

 こんなところにヤツが出てくるはずがない、と思ったんだ…というより、空腹である自分が、ヤツを恐れている自分に対しての言い訳みたいなもんだけどさ。

 週の始めというのに、暑かったせいか満席に近くて、俺は隅っこの席に通された。ま、一人客だから仕方ないよな。

 

 いやいや結構食った。会計もな。

 大きなお好み焼きと、とん平焼きに焼きそばも食った。

 酒はほどほどに、と思っていたが、レモンサワー3杯は俺にしては少し飲み過ぎた。

 

 テーブルで会計をして、そろそろ店を出ようとした時だ。

 自動ドアが開いて、店長らしき男性店員に「またのお越しを!」と声を掛けられて、俺は一歩、ドアを跨いだ。


 その時、背後から若い女性店員に呼び止められた。

 「こちら、お客さまのお忘れものではないですか?」と。


 俯くように顔を伏せたまま、その女性店員は、見覚えのある、あの鮮やかな大きな赤い傘を俺に向けて差し出して、これは俺の忘れものではないかと言っていた。

 そして、ゆっくりと顔を上げる。

 ソイツの顔は、まるでテレビで観る女優かモデルかのように美しく、大きく口角を上げて、歪んだような笑みを浮かべていた。


 「こちら、お客さまのお忘れものではないですか?」

 ノイズのような掠れた声で、ソイツはもう一度繰り返すと、その大きな赤い傘を、俺にズイと押し付けるように差し出したんだ。


                                    終


 

 

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【短編小説】赤い傘の女 あまみけ @amamike

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