第23話

私の動揺を他所に、江戸くんはさっきまで解いていた宿題を静かに見て......ノートに書いていた一問を指差す。

「ここ......間違ってる」

「え!?......あ、本当だ......」

指差した問題をもう一度確認すると、確かに間違っていた。

消してもう一度解こうと思っても、全く分からず手が止まる。

すると、江戸くんはため息をつきながら私の向かい側に座った。コトっと机に置いたのは、和綴じの本と矢立やたて、そしてそろばんだった。

江戸くんはちらっと私の問題を見て、紙に問題を写し、黙々とそろばんの珠を弾いていく。

「......やっぱり。ここの数字、二乗しないといけないよ」

「二乗......」

私はポカンと呟いた。書いたばかりの途中式を見返すと、確かに二乗されていなかった。

「あと、このXが間違ってる」

江戸くんに教えてもらいながらもう一度解き直す。今度は計算ミスしないように......!!

「......できた」

それを見て江戸くんはパチパチともの凄いスピードで珠を弾く。

「......うん。合ってる」

江戸くんは少し口角を上げた。それがめっちゃ嬉しくて......。初めはめちゃくちゃ嫌われていたのに......!!

「やった!これで終わり!」

「お疲れ様」

それだけ言って、江戸くんは静かに去っていった。


「江戸について知りたい......ですか?」

「はい!」

江戸くんのことを一番知ってそうな明治さんに尋ねると、不思議そうな表情をされた。

「色々知ってそうな明治さんに聞いたら何か分かるかもって......」

江戸時代の後が明治時代だし......。

しかし、明治さんの口から出てきたのは意外な言葉だった。

「あまり江戸については話したくないです」

「......え?」

あれ、もしかして明治さんと江戸くんって仲が悪い......?

「でもまぁ、授業の一環としてなら良いですよ。恐らく愚痴だけになると思いますが......」

明治さんは湯呑をくるくる回しながら、遠い目をした。

「正直、江戸のことを話すと、どうしても愚痴になるんですよ」

「えっと......何でですか?」

「幕末ですよ、幕末。あの人、外国と変な条約を結んで......明治の世はそれの改正や撤廃で大忙しでしたからね」

「変な条約?」

「不平等条約って聞いたことありますか?」

「あー、なんか授業でやりました!関税とか決められちゃうやつですよね」

「そう、それ。あの頃、開国だなんだって騒いで、結局外国に有利な条件で条約を結んじゃったんです。しかも治外法権付き。つまり、外国人が国内で悪さしても、日本の法律じゃ裁けないんですよ」

明治さんはため息をつき、眉間を押さえた。

「そのお陰で、何十年もそれを改正するに為に外交に頭を抱える羽目になったんですよ。おまけに国際信用は低いし、軍艦は足りないし、通貨制度はバラバラだし......」

「江戸くん、大変な置き土産を......」

「置き土産どころじゃないですよ。あれは“爆弾”です」

明治さんはぴしっと湯呑を置いた。

「でもまぁ......あの人もあの人なりに必死だったんでしょう。見たこともない黒船に開国を迫られ、国内は攘夷じょういだ開国だで内乱寸前。下手すれば外国の植民地にされてたかもしれない。......とはいえ、もうちょっと交渉力を持ってほしかったです」

その最後の言葉は、やけに含みがあった。

私の頭の中で、そろばんをカチカチ弾く江戸くんの姿と、外国使節の前で怯える姿が同時に浮かんでしまい、なんだか不思議な気持ちになった。

「明治の世は、不平等条約の改正交渉をずーっとやってたんですよ。その為には近代国家にならないといけませんので、幕府の解体、版籍奉還、国会を設立、憲法制定、鉄道、インフラ整備......あの時のことはごちゃごちゃしていて正直よく覚えていません」

明治さんは湯呑みのお茶を一口すする。

「なのに、です。やっと話が少し進みかけたところで――ノルマントン号事件ですよ」

「えっと、それって......?」

パラパラと頭の中の教科書が捲られる。

「一八八六年にイギリス船籍の船が和歌山沖で沈没した事件ですね。乗ってた日本人乗客は二十五名全員死亡。しかし、船長と外国人乗客は助かった。しかもその船長、イギリスの法律で裁かれて無罪放免」

「あ......それ、治外法権のせいで」

「そうです」

明治さんはため息をついた。

「外国側は涼しい顔。国民の怒りは爆発寸前、外交はさらにややこしくなる......。あの事件の後、僕の胃に穴が空きそうでした」

「......江戸時代のツケを払ってる途中で、さらに追加請求された感じ......で合ってますか?」

「ええ」

その時、庭にいた南北ツインズが明治さんを呼んだ。

「明治さん!古墳くん達が土器を台所で焼こうとしてるよー!」

「んで、大正のラジオに泥が飛んだ」

「大正くん、ラジオを分解し始めたよー!」

「えぇぇ!?」

「ちゃうねん!釜戸が潰れてん!あ、潰れるは壊れるの意味やからな」

「何で壊れるんですか!?」

「ハニワ焼こう思ったら釜戸が割れてん」

「粉々に割れたから......修復不可能」

縄文くんもシュンとしている。

「すみません、ちょっと見てきます」

明治さんは一礼して、庭に走っていった。

(......幕末......)

「ちょっと、どうしたんだよっ!」

ごろんと寝転がりながら幕末について考えていたら、そんな声が聞こえた。

畳をする音が私の目の前に止まり、はっとして顔を上げると、そこには見知った人がただならぬ表情で私を見下ろしている。

「......江戸くん?」

「なに真っ青な顔してんのさ!体調でも悪いのかよ?ねぇ!」

畳み掛けるような勢いだ。責められてるのか、心配されているのか、よく分からない。

「だ、大丈夫。ちょっと横になってただけだから」

「......そう」

江戸くんはため息をついた。がっかりしたのか安堵したのか、これまたよく分からない反応だ。

「それで、もう大丈夫なの?」

「......心配してくれているの?」

「はぁ!?だ、誰があんたのことなんか心配するかよっ!元気なら僕もう戻るからね」

くるりと戻ろうと歩き始めた江戸くんの手首を掴む。

「あの......江戸くんのこと、知りたい!」

「......は?」

一瞬、江戸くんの目が見開かられる。しかし、またいつもの気だるげそうな目付きに戻った。

「明治さんから、幕末のことを少し聞いて。でも、江戸くんはどうだったのか、直接知りたくて......あと江戸くんと仲良くなりたいし」

「あんた、嫌われてるかもしれない人と仲良くなりたいとか......どんだけお人好しな訳?」

呟くように吐き捨てると、江戸くんは窓の方を見やった。外からは、みんなの叫び声。

「知ったところで、楽しい話じゃないよ。幕末とか、ほぼ混乱期だし」

「知りたい!」

「......はぁ」

江戸くんはため息をつき、私の手を掴んだ途端、視界がぐにゃりと歪んだ。

―――私は、江戸時代に立っていた。

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