未開封

はな

第1話 未開封

明日、17時に待っています。


十年越しに開封した手紙には、そう書かれていた。

それは古い筆机の引き出しに保管されていた。

十年新鮮な白さを保つ封筒は、十年前に届いたモノとは思えない。


祖母の葬儀の後、家の片付けを手伝って欲しいと、父から連絡があったのは一昨日のことだった。


広いけれど古い、トタン屋根の家。

私はここで育った。


トタン屋根に落ちる雨の音が好きだった。

2階にある私の部屋は、夏になると、日中の太陽光を浴びて温度を蓄えた屋根が発する熱で、夜まで蒸し暑かったけれど、そんな日は決まって


「アイス食べる?」


と、父には内緒で祖母が誘ってくれた。


祖父と祖母と父、そして、私。

4人で穏やかに暮らしていた。


母はいなかったけれど、理由を聞いたことはない。

聞きずらかった、とか、大人に気を使った、とかではなく、私にとって、“母”という存在はいないことが当たり前だった。


ハイハイを始める前の写真にすら、その人は映っていなかったし、今日この時に至るまで、一度もその人を感じた瞬間がない。


そして、私はとても父に似ていた。

たまに遊びに来る伯母も叔父も、会えば必ず、


「本当にそっくりだ。」


と繰り返した。


祖父が亡くなったのは、小学四年生の春。

仕事が忙しい父に変わり、運動会の保護者参加型競技にも率先して出場するほど元気だった祖父は、

庭木の手入れ中に突然倒れ、そのまま逝ってしまった。


昨日まで元気だった祖父がもういない、という現実を受け止めるのに少し時間がかかった。

私にとって、生まれて初めての大きな喪失の記憶。


祖父が亡くなると、祖母はますます私を可愛がるようになった。

祖母は、母代わりであり、祖父が担当していた学校行事への参加まで担当してくれた。


145センチの小さな体で、若いお母さんたちに混ざって綱引きを本気で楽しむ祖母を、キャラ弁に何を作ればいいか分からず、ツナの甘辛煮でマグロを表現(実際には茶色いただの魚に見えた)する祖母を、私は愛していた。


祖母はなんでも話してくれる人だった。

子供だから聞かせない。

そんなことは無く、身内で話し合わなければいけないような事があると、


「芽衣も聞いておきなさい。」


と私を自分の隣に座らせ、私も大人たちの会議を黙って聞いていた。


そんな祖母の部屋に私が見たことのない物など、ない筈だった。

鏡台に並ぶ化粧品も、箪笥の中の洋服も、かけたままのワンピースだって、


「一目惚れで買ってしまったの。

似合う?」


私の前でクルクルと回って見せる祖母が目に浮かぶ。


だからこそ、その封筒は異様な存在に見えた。

開封されず、十年以上前の消印が押された手紙。


差出人は書かれておらず、宛名には、線の細い、けれど、強い意志を感じさせる文字で、祖母の名前が書かれていた。


他人宛の手紙を開封するのは、倫理に反するのではないか……。

迷いはあったが、隠し事をしない祖母の秘密、そして、自分がいなくなった時、必ず誰かが開けるであろう場所に保管されていた、という状況が、


『私に開封して欲しい。』


という祖母の意思であるように思えた。


結局、私は手紙を開封した。


便箋にも封筒と同じ、細く意志を持った文字が並んでいる。


『私はあなたを許します。

明日、17時に待っています。』


そう書かれていた。


私が知る祖母と誰かに許されなければならない人物との間に大きな隔たりを感じる。

祖母は誰に許されたのだろう。

そして何故、その許しを拒絶したのだろう。


未開封であったことに祖母の拒絶の意思を、いつも座っていた机の、いつでも取り出せる引き出しに保管されていた、という事実に少しの迷いと罪悪感が香る。


明るく活発な祖母は友人も多く、そのうち何人かには私も面識があった。

祖母を訪ねて来る人たちは皆、笑顔になり、


「芙美ちゃんと話すと元気になるわ。」


と帰って行った。


手紙には明確な日にちが書かれておらず、“明日”がいつなのか分からなかった。

消印は2004年7月6日。

祖父の七回忌の年だった。


手紙は市内で投函されており、消印の翌日を“明日”だとするなら、7月7日が“明日”なのだろうか。


いや、いくら優秀な日本の郵便システムでも、天候や道路状況で配達が遅れることはあり得る。

祖母が手紙を受け取るのが“明日”より後になる可能性もある。

そんな不確かな約束をするだろうか?


事前に電話で約束をしていて、念押しのために手紙が送られたのだとしたら……。


それも考えにくい。


ウチの電話は茶の間にあり、会話のプライバシーなど無かった。

祖母は声が大きい。

なにより、あの祖母がコソコソと声を潜めて話す姿など、想像出来ない。


謎の手紙と、祖母の秘密の切れ端に触れてしまった私は、片付けらしい片付けも出来ないまま、昼食の時間を迎えた。


物置で作業している父に声をかけ、素麺を茹でる。


麺つゆに梅肉を混ぜて刻んだ紫蘇の葉を入れれば、

祖母直伝“福田家のそうめん”の完成だ。


「やっぱりこの味だよね。」


「夏はこれだな。」


ズルズルと豪快に素麺を啜る父に、手紙のことを話そうか、と過ったが、祖母の秘密は、他の誰にも知られてはいけない気がした。


代わりに質問を投げる。


「おばあちゃんが人との約束を破ることってあるかな。」


「なんだ、急に。」


付け合わせの浅漬けを齧る父が訝しげな表情を浮かべる。


「ただ、なんとなく。」


「無いだろ、あの人だぞ。」


「だよね。」


「あぁ。」


大丈夫。

やっぱり祖母は祖母だ。

父の返答が私の中の祖母の姿を肯定してくれたような気がして嬉しかった。


下着類はこっち、古い服はあっち……。

午後からも片付けは続いた。

私物を整理することで私の中の祖母との思い出の欠片が奪われていくようで、全てを処分する気にはなれず、ただ不要品を捨てていくだけの行為になっていることに気がついてはいたが、そのまま作業を続けていく。 


その間も手紙の差出人が気になっていた。

祖母に“許し”を与える人物、祖母が許されなければならない相手。


心当たりがない訳ではなかった。


差出人と祖母との間で交わされた約束について考えを巡らせていくうちに、これまで私の人生に登場しなかった人物が頭の中に浮かんでいた。


---母。


ただ、これまで自分の人生に一切関わりのなかった人物が、何故、祖母を“許す”のか、理解できなかった。

その理由に思い至れるほど、私は“母”を知らない。


自分が捨てられたのか、死に別れだったのか、そもそも、父とその人は夫婦だったのか。

驚くほどなにも知らなかった。


澤乃泉と鰹の刺身、一杯機嫌の父。

夕食のこのタイミングを待っていた。


人生で一度も口にしたことのない質問を、素面の父に投げられるほど鈍感ではない。

父がお猪口に口をつけたのを合図に、ずっとしまっていた言葉を口にする。


「私のお母さんってどんな人。」


その一言は、静かに、でも確かな波紋を私たち父子の間に広げていく。


「綺麗な人だったよ、とても。

綺麗で、聡明な人だった。」


父は少しの沈黙の後、短く答えた。

それだけで十分だと思った。


夕食後、洗い物をしていると、ふと考えが浮かんできた。


もし、“明日”が決まっていないとしたら。

いつか来るかもしれない祖母を待ち続けるという決意を綴った手紙だとしたら。


我ながら突拍子もない考えだと思ったが、入浴中も頭から離れなかった。


“明日、17時”


どこで?


髪を乾かしてから祖母の部屋へ向かう。

祖母は毎日欠かさず日記をつけていた。

もしかしたら、差出人が“明日”“17時”にどこで待っているのか、その手がかりがみつかるかもしれない。


手紙と同じく、他人の日記を勝手に読むなんて……、と良心の痛みを感じるが、すでに手紙は読んでしまった。

いつか誰かが、この秘密に触れるなら、それは“今”で、“私”じゃなければいけない気がした。


祖母の本棚にはここ数年分の日記が並んでいる。

とりあえず、新しいものから7月を中心にページをめくっていく。


直近5年分、それらしい内容はみつけられなかった。


それならば……、と、押し入れを開け、大きな葛籠を引っ張り出す。

中には数十年分の祖母の記憶が保管されている。


2004年の日記を読む。


『7月7日、手紙が届く。

読んでいない。

私はまだ、許せていない。』


心臓が跳ねる。


まだ手がかりと言えるものには届いていない。

でも、確かに私の知らない祖母が、そこに居た。


そして、“許される側”だと思っていた祖母が、“許していない”と書いている。


筆圧の強い角張った筆跡は、祖母のもので間違いない。


祖母を知りたい。


祖父が亡くなった年、1998年の日記を探す。

全ての日記が入っていると思っていた葛籠の中に、その年の日記は見つからなかった。


97年も99年もあるのに。


再び押し入れを開け、捜索する。

白濁色の衣装ケースを引っ張り出すと、壁とケースの間に大きなクッキー缶が挟まっていた。


なつかしさが込み上げる。


幼い頃、私が大好きだった浮き輪型の小さなドライフルーツが乗ったクッキー。

私はそれを“穴のクッキー”と呼んでいた。


祖母は、単品売りをしていない土産用の大缶にだけ入っているそのクッキーを、


「友達と会った帰りに売ってたから。」

「用事があってデパートに行ったから。」


と理由をつけて買って来てくれた。


祖父にも父にも、“穴のクッキー”は“芽衣のもの”と伝え、手をつけさせなかった。


涙が溢れる。


祖母に会いたい。


祖母との別れから数週間、初めて悲しみを噛み締めた気がした。


缶はずっしりと重く、探し物がその中にあると確信する。

蓋を開けると、二冊の日記と一枚の写真が入っていた。


一冊には、1998年、もう一冊には1989年と書かれている。

私が生まれた年。


写真には初めて見る女性と生まれたばかりの赤ん坊が写っている。

我が子を見つめる女性は美しかった。

それ以上は何も感じられなかった。


私にとってその写真は、その女性の人生の一コマでしかなく、それ以上でも以下でもなかった。


自分と深く繋がっているかもしれないその人を見ても、私はこんなにも落ち着いている。


1998年の日記を開く。


---7月7日

『あの人が訪ねて来た。

線香をあげさせて欲しいと。

帰って欲しいと思ったけれど、主人に怒られる気がして上がってもらった。


お茶を出し、十年ぶりの会話をする。


今は東京の大学にいるらしい。

希望が叶って良かったですね、としか言えなかった。


あの人が主人のためだけに訪ねて来たのでは無いと分かっていた。

でも、私はそれを口にする暇を与えなかった。


芽衣が出かけていて本当に良かった。

あの子にはこんな顔を見せたく無い。』


母がこの家に来ていた。


写真を見ても動かなかった自分の心が揺らいでいるのを感じる。


ずっと遠く、交わることがないと思っていた母と私が、限りなく近づいた瞬間が、確かにあった。


そしてその日記には、強い愛情が滲んでいた。

私を育て、守ろうとした祖母の葛藤が、静かに書き残されていた。


1989年の日記を開く。

最初のページ。


---5月20日

『午前4時30分、病院から連絡が入った。

元気な女の子。


隆徳と二人で病院に向かった。


彼女の隣には可愛い赤ん坊が寝かされていた。

隆徳と三人、このまま幸せに暮らしていけないだろうか、と言いそうになり、飲み込んだ。


それが叶わないことは、何度も重ねた話し合いで決まっている。


この子の人生に母親はいない。


でも、この子は絶対に幸せになる。

一人分足りないのなら、私が三倍愛してみせる。

この子は、絶対に幸せにする。』


若かりし祖母の確固たる決意が綴られていた。

祖母は、私の人生が始まったその日から、揺るぎなく愛を注いでくれていた。


乾いた涙が再び溢れてくる。


ページをめくっていく。


---7月7日

『今日、日本を断つと連絡があった。

やはり、自分の未来を諦められないと。

言ってしまった。

この子の、芽衣の母親として、未来を掴むこともできるのではないか、と。

止められなかった。

我が子を枷にしたくないと返された。

上手くいかなかったとき、芽衣を恨みたくない、と。


まだ若い彼女に未来があることは理解しているつもりだ。

けれど、芽衣の人生から母親を奪う彼女を、どうしても許せない。


だから、私は彼女から奪った。

芽衣の母親として生きる権利を。


この先、あなたの人生がどのように進もうと、二度と芽衣の前に現れないで欲しい。

残酷な願いだと思う。


彼女は反発していたが、最終的に受け入れてくれた。


彼女が自分の人生を優先させる覚悟を決めたのなら、私は芽衣を最優先に生きてみせる。』


父は今年48歳になる。

同級生の父親の中で一番若かった。

今の私より若くして妊娠した母が、私の為に人生を諦めなくて本当に良かった、と心から思う。


祖母が私の祖母でいてくれて、こんなにも深い愛情を注ぎ続けてくれたことに、言葉にできない感謝の気持ちが溢れ出す。


共に生きない母の選択も、共に生き、愛と人生を私に捧げ続けてくれた祖母の選択も、どちらの選択も、私にとって“愛”そのものに感じられた。


日記を探していた時、“明日”“17時”に行くべき“場所”を見つけて、行ってみようという思いが私を動かしていた。


日記を見つけて、読んだ今、

二人の女性の選択を知った今、

私は、“明日”の“17時”にどこにも行かないと決めた。


これが、二十五年前にそれぞれの決意を固めた二人の女性への私が出した答えだった。


私は二人から確かに愛されていた。

そして、私は人生を捧げてくれた、確かな祖母の愛に報いたいと思った。


明日、父と二人で“穴のクッキー”を買いに行こう。

そして、仏壇の祖母と祖父と、父と私の家族四人で“穴のクッキー”を食べよう。


“明日”の“17時”、待ち人は現れない。

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未開封 はな @hana0703_hachimitsu

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