君と僕の想いで

@chimovtuber

君と僕の想いで

ここは、夜の水族館。

夢と現の狭間、水の向こう。

揺れる光の奥には、名前のない影たちが静かにたたずんでいます。


そこには、一人の少女がいました。


少女はかつて笑い、涙をこぼして、怒ることもできました。

その表情のすべてが、大切な誰かに向けられていたのでした。


けれど、その誰かはもう…どこかへ行ってしまったようでした。


どうして、どこへ、なぜ?


ふと顔を上げると、

鏡に映った自分の顔が、真っ黒に塗りつぶされていました。

その先には深い穴のような、虚ろが広がっています。

ぽっかりと空いた喪失のあと。



声も、まなざしも、なにもかも

世界のすべては、そこを通り抜けていくのでした。



少女は、何もかも忘れてしまったかのように、

自分の声も、手足の存在すらも、わからなくなっていました。

ただ瞬きをしながら横たわり、夜の底を見つめていたのです。


ぱち、ぱち。

目を閉じて、また開きます。


ぱち、ぱち。

ぱち、ぱち。


――私は、誰?


瞬きの回数が一つ、また一つと増えるたびに、

静かだった心の奥に、波紋のような感情が広がっていきました。


悲しみは悔しさになり、

それはやがて、どうしようもない怒りに変わっていったのです。


壊れそうなほど胸が熱くなって、喉の奥で叫びたくなる衝動が渦を巻きました。

けれど声は出なくて、体も動かなくて

それでも、少女は思ったのです。


「このままじゃいやだ」


何も伝えられないまま終わりたくない。

消えてしまうくらいなら、せめて何かを残したい。


少女は、力の入らない指先に、最後の力を込めました。

まるで深い海の底から浮かび上がるように、

少しずつ、少しずつ、手が動きはじめます。


かすかに震えるその手を、少女は見つめていました。

小さくても、弱くても、まだ動ける。まだ書ける。


そうして心の奥に沈んでいた言葉を、ひとつずつ、すくい上げていったのです。

怒り、さびしさ、痛み、憧れ、悔しさ。

そのすべてを、床の上に震える文字で綴っていきました。


忘れてしまった声に載せたかった思いたちが、言葉となってぼろぼろと零れ落ち、

やがてその言葉たちは、小さな花弁のように空中に舞い上がりました。


ひとひら、またひとひら——

少女のまわりに集まり、ひとつの花のかたちをつくります。


ある夜。

ふと気づくとその身体には淡く不確かな花が咲いていました。

その花は静かで、やさしく、どこか切ない匂いがしました。



この花びらに宿るのは、忘れられない記憶たち。

その記憶が身体にふわりと触れて、背中をそっと押してくれました。



ここは、夜の水族館。

深い夢の底で、少女は今日もひとり踊っています。

誰かのためでもなく、

忘れてしまった声をなぞるように、静かにただ揺れています。


水槽の向こうには、名もなき影たちが佇んでいます。

少女の踊りに、“誰か”を重ねて

ある者は、手を伸ばせなかった誰かを想い、

ある者は、最期の言葉を言えなかったあの夜を想います。


「あの人が、生きていたら」

「もう一度だけ、笑ってくれたら」

——そんな願いと記憶が、花びらの舞いに、重なっていきます。



ある夜、

少年が一人、水族館を訪れました。

水槽の青に浮かぶ彼の瞳は、ずっと遠くをみていて、

言葉もなく、少女の前に立ち尽くしていました。


しばらくして、彼はふと目を伏せました。

何も言わずに、涙を一粒だけ落とします。


そのときでした。

少女の花が、ふわりと光ったのです。

——見間違い、だったのでしょうか。


夜が深まる水族館では、灯りがひとつ、またひとつと落ちていきます。


踊り終わったあと、少女はそっと鏡の前に立ちました。

そこには、顔に花を咲かせた自分が映っています。

その花は、前よりも少し色づいているように見えました。


夜の水族館には、静かな音が流れます。

それは、君の涙の旋律かもしれないし

それは、僕の眠れない夜の記憶かもしれません。


花の子は今日もふわりと踊ります。


「また、ここで会えたらいいね」


誰かの声が、どこかでささやきました。


少女は振り返りませんでしたが、

そっと、咲いた花を傾けました。


ここは、夜の水族館

この夜に魅せるのは

君の想いで

僕の思い出

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