ゼロの残響:The Singularity Zone

空栗鼠

第1章:沈黙する誤差 — The Silent Deviation —

 視界の端に浮かぶプロンプトが、じんわりと白んでいく。

 標高850メートル。兵庫と岡山の県境。

 六月の朝靄は、電子制御されたゲートの内側でも例外ではなく、駐車場のコンクリートの隙間から立ち上る水気が、実験棟のスチール壁に貼りついた。


橿原実験場。


 ここでは、極秘裏に人工ワームホールの実験が行われている。


 兵庫県佐用町と岡山県美作市の県境付近、標高約850mの山間部に位置する。周囲は深い谷と断層帯、自然保護区に偽装された立入禁止区域となっており、一般人が入ることはできない。地図上には存在しないトンネル道路を使いアクセスすることになっているが、緊急用の軍用ヘリポートも設備している。


 この場所が選ばれたのには理由がある。地下に“高次元干渉を受けやすい鉱物層(仮称:エーテル層)”が存在することが判明したからだ。過去に、磁場と重力場が不安定な局所的な“揺らぎ”が記録されたことでその存在が発見された。昭和の時代から国の一部研究機関が「地場異常観測所」として使っていた土地を転用し、現在の施設となった。



 如月ナオミは、ヘアピンの歪みを直しながら、打刻端末に自分の職員証をかざす。

 朝五時三十二分。予定より三十八分早い。けれど彼女は、自分が今日もっとも遅くここを出る人物であることを知っていた。


 地下演算室B2は、空気までが絶縁されているように静かだった。

 赤色の間接照明と無音の演算ランプが交互に並び、ナオミの足音だけが床に響く。主演算ユニット《Mizuchi-03》は前夜の試算を終え、液体窒素の音だけを残して眠っているようだった。


「……ログ。第五層のインデックスデータに、差異あり」


 ナオミは膝をつき、演算ノードの前にしゃがむ。

 前日の最終出力データ。空間反転率Φに関する変数――その第六桁が、前週のシミュレーションと“ほんのわずか”に異なっていた。


 誤差範囲内。……それは知っていた。だが彼女の背筋に走ったものは、理論的なものではなかった。


 彼女はポケットからミントガムを取り出し、手の甲に叩いてから口に放り込んだ。指先が震えている。けれどそれは、寒さのせいではなかった。





 午前七時五十四分。

 ナオミは理論主任である神代拓真の研究室にいた。スリッパを履いたまま、両手で端末を抱えて突っ立っている。拓真はその奥でコーヒーをいれていた。


「……誤差の範囲だと思うんです。でも、演算が“納得していない”ような感覚がするんです」


「納得?」


「ロジックの最後の収束式が、結果に抵抗しているような……数学が嘘をつかれていると気づいて、黙っているような……」


 拓真は笑いをこらえるように首を振った。


「ナオミさん。数学は感情を持たないよ。持ってるのは僕らの側だ」


「……ですよね。でも、何かが引っかかって」


 彼女の声はどこかに逃げるようにしぼんでいく。拓真は一口コーヒーを飲んで、彼女の目を見ずに言った。


「じゃあ、次の演算で確かめてみよう。それでいいだろ?」


 拓真はそう言うと、研究室から出ていった。


 拓真の歩き方は、いつも一定のリズムを刻んでいた。早すぎず、でも迷いもない。まるで、重力と会話でもしているみたいだった。


 ナオミは、自分でもよくわからないまま、その背中を目で追ってしまう瞬間がある。

 言葉は少ない。でも、話す内容はいつも核心を突いている。

 目が合うと、ナオミは一瞬で呼吸の仕方を忘れる。

 別に怒っているわけでもないのに、ただその“論理”が、容赦なくこちらを貫いてくるように思えて。


……たぶん、苦手なんだ。だけど――嫌いじゃない。というより、むしろ逆かもしれない。


 彼の理論には、怖いくらいの整合性がある。

 現実のほうが、むしろそれに合わせて形を変えてしまうんじゃないかと思うほど。

 そこにあるのは情熱ではなく、“認識そのものを組み替える力”だ。


 ナオミは、自分がその理論を支える演算を担っていることに、いつも不安と誇らしさが交互に湧いてくるのを感じていた。

 あの人の視界に、自分の存在が映っているかどうかはわからないけれど――





 正午過ぎ。

 ログの異常は再現されなかった。……少なくとも、主観的には。


 でもナオミは気づいてしまっていた。

 演算ユニットが“予想以上に早く”収束している。しかも、演算に不要な変数を自動生成している。


 たとえば、座標。たとえば、時間。

 彼女はそれらがどこから来たか分からなかった。ただ、それは本来存在しない変数のはずだった。


“ゼロがゼロを返していない”


 彼女はそのログを外部メディアに抜き、個人アカウントに転送した。名前をつける際、指が止まった。


《log.2048_06_kisaragi_X》


 ナオミは昼休みの演算室控えスペースで、同僚の演算技師・青島に話しかけた。


「第五層の出力に、通常と違う変数が出てたの。演算が、収束に抵抗してるような……そんな感覚があって」


 青島はプロテイン入りの缶コーヒーを開けながら、肩をすくめた。


「また出たよ、如月さんの“量子ヒステリー”ってやつ。あんまり夜更かしすんなよー、機械と会話してるのバレたらマジで病院送りだからな?」


 冗談めかした声に、周囲のスタッフが笑った。

 ナオミは愛想笑いを浮かべてから、すぐに視線を端末に落とした。





 ナオミが資料の確認を終えてサーバールームから出たとき、すれ違いざまに彼が立っていた。

 霧島玲児。施設の最高責任者。スーツの襟を片手で整えながら、こちらに気づくと、にっこりと笑った。


 MITと東大を飛び級で卒業した天才で、民間の量子AI企業を売却して財を成した後、政府主導の実験に自ら志願し、この研究所の責任者となった。数々の論文とスキャンダルを持つが、実績がすべてを黙らせてきた経歴を持つ。


「如月さん、だね。量子演算、頼りにしてるよ」


「……は、はいっ。あの、精度は、まだ調整中なんですが」


「いいんだ、いいんだ。すべて完璧である必要はない。想定外こそ、未来の扉だよ」


 彼の言葉は、優しさのようでいて、どこか浮いていた。

 ナオミは反射的に会釈をしながら、頭の奥に変なノイズが残るのを感じた。


 この人は――理論の人じゃない。数字の裏にある“物語”だけを信じているような眼をしている。

 人懐っこい笑顔の奥に、何かを“見切って”いるような冷たさもある。

 拓真さんとはまた違う。

 彼は数式の向こうに真理を見ようとする人だけど、霧島さんは“数式を踏み台にして未来を覗いてる”感じがする。


「では、よろしく頼むよ。実験の要は、君の演算にかかってるからね」


 その一言で、背中に氷の針が刺さるような感覚がした。


 ナオミは小さく「はい」とだけ答えて、足早に通路を抜けた。

 心臓の鼓動が、なぜか実験のカウントダウンのように聞こえた。


 廊下の向こうから、軍服姿の男が歩いてくるのが見えた。

 ナオミは思わず、肩を小さくすくめた。

 伊吹一等陸佐――警備部門の責任者であり、施設の軍側のトップ。


 足音は重くないのに、空気が一瞬で硬くなる。

 無言のうちに周囲が整列するような、そういう種類の存在感だった。


 ナオミは、挨拶のタイミングを測る前に彼とすれ違った。

 伊吹はまっすぐ前を向いたまま、軽く頷いた。それだけ。

 なのに、ナオミの背中には一瞬、冷たい風が吹き抜けたような感覚が残った。


 彼のことを、ナオミは少し怖いと思っていた。

 無表情ではないのに、感情が読めない。

 怒っているようでもなく、優しげでもなく――ただ、何かをずっと“判断している”ような目をしている。


 たぶん、あの人は何が起きても動じない。

 誰かが泣いても、誰かが叫んでも、きっと静かに命令を出す。

 それが軍人というものなんだろうけど、ナオミにはその沈黙が少しだけ重かった。



 日没直後、施設の灯りが全体に広がる。

 夜勤が入り、ナオミのフロアはふたたび静かになった。


 職員たちの笑い声はエレベーターの向こうに消えた。

 ナオミはカップの中で冷えた紅茶を見つめながら、まだ端末に張りついていた。彼女は何度も確認するように、同じ演算ログを開いては閉じた。


 ――予測可能性、ゼロ点における発振、情報重力波の上昇曲線。


 予兆。それは音のない警報だった。誰も聞き取れない警告音が、ナオミの中にだけ鳴り響いていた。


 背後から声がした。


「……ナオミさん。そろそろ休んだ方がいいんじゃないか?」


 拓真だった。白衣の下のシャツのボタンがずれている。


「……あと少しだけで、いいです」


 ナオミは、笑って見せたつもりだった。





 深夜零時三分。

 ナオミは最後のチェックとして、演算シミュレーションのフルデモンストレーションを開始した。

 それは明日の実験本番を想定した、フルスケールのテストだった。


 途中までは順調だった。

 だが、第五段階の空間圧縮演算に移った瞬間、ディスプレイが静かに変わった。


《Error: 観測不能領域に到達しました》

《Error: 非因果演算を検出しました》

《Error: Zero Reverberation》


 ナオミは背筋を凍らせたまま、指を止めた。

 最後の行は、どの演算エラーコードにも存在しない。


 彼女はマウスを置き、深く息を吸った。

 そして、ログを保存する。


 ファイル名は、こうなった。


《ZeroReverb_kisaragi_final》


 午前一時すぎ。

 ナオミは演算室の床に膝を立てて座り込み、タブレット端末を膝に載せたまま、思考の糸を引き出していた。


 なぜ《Zero Reverberation》というログが自動命名されたのか。

 自分はそんな関数を組み込んだ覚えはない。フォルダ名にも、プリセットにも。

 試しにコードベースを遡って検索してみる――が、それはどこにも存在しない“語”だった。


 けれど、出力された。

 しかもそれは、他のどの演算エラーよりも正確にこの状況を表している気がするのだ。


 ナオミは両手で顔を覆い、指の隙間から天井を見上げた。

 演算ユニット《Mizuchi-03》の低い駆動音が、どこか遠くの水流のように聞こえる。


 彼女は立ち上がり、コードルームにある手書きの演算式ノートをめくった。

 拓真がかつて試作した「情報重力干渉モデル」。

 その中に、こう書かれた補足がある。


 ――観測者の存在が、演算の帰結に影響を与える可能性について

 ――因果律は“演算そのもの”ではなく、“演算されること”に従属する


 ナオミはその文を指でなぞった。

 拓真はこれを、理論上の話としてしか捉えていなかった。だが今、ナオミは――それが既に始まっているのではないかという感覚を抱いていた。





 演算室の照明がふっと一瞬だけ揺れた。

 その後、すぐに通常照明へと戻ったが、ナオミの身体は一瞬で硬直した。


 端末のログタイムスタンプが一秒戻っている。

 それはバグではなかった。ログには、現在時刻が「01:17:03」→「01:17:02」→「01:17:04」と記録されていた。


 “時間が一秒、巻き戻った”。


 ナオミは全身の血が静かに逆流していくのを感じた。

 この施設で、時間が一度でも非線形的に動いたなら、それはもう取り返しのつかない兆候だった。



 静かに、ドアが開く音がした。

 拓真が入ってきた。


「……まだいたのか。何か、あったのか?」


 ナオミはためらいながらも、端末を彼に差し出した。


「これ、見てください。ログに……“逆流”が……たぶん、ほんの一瞬だけ、ですけど」


 拓真は眉をひそめながら、それを受け取り、数秒沈黙した。


「……これは、演算誤差の範疇を超えてるな。同期クロックがズレた……?」


「ズレたんじゃなくて、“戻った”んです。確実に、です」


 彼はディスプレイを見つめたまま、静かに呼吸した。

 ナオミには、その瞳の奥にわずかに宿った“何か”が見えた気がした。


「ナオミさん、これを……誰か他に見せた?」


「……いえ、まだ。拓真さんだけです」


「……ありがとう」


 その言葉には、どこか不思議な温度があった。

 それが「信頼」だったのか「感謝」だったのか、ナオミには分からなかった。





 午前二時前。

 ナオミは一人、演算室を離れ、通路を歩いていた。


 神代拓真という人を、ナオミは尊敬している。

 科学者としての明晰な思考も、部下への接し方も、無理に距離を詰めてこないところも。けれど、それは同時に“近づけなさ”でもあった。


 彼の理論には、どこか空を見ているような感触があった。

 誰よりも深く時空を知ろうとするくせに、人間の感情には触れようとしない。まるでそれすらも“因果律の外側”に置いているような、静かな孤独が漂っていた。


 だからこそ、ナオミは言い出せなかったのかもしれない。

 自分が感じているこの微細な“揺らぎ”が、彼の理論を否定することにつながるのだとしたら――。


 でも。

 彼はきっと、自分よりずっと先に、それに気づいていたはずだ。

 それでも実験は明日、行われる。

 そしてその結論は、たぶん……もう、変えられない。


 廊下の奥に、広報用に使われる“人工ワームホール生成図”のホログラムが浮かんでいた。

 まるで人の目が意図的にその中心を避けようとしているかのように、どこにも焦点が合わない。


 ナオミは、振り返らなかった。

 背後で、何かが微かに“鳴った”気がしたけれど。


 翌朝、実験は予定通り決行された。

 そして、その日の午後、世界は一度終わった。

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