第23話 燃える男たち

「こんなところにいたんだ」


 イングリッドの声に、ヘルギはわずかに肩を揺らした。けれど、それだけ。


 彼は腰かけた石のベンチで、枝も葉もついていない木を、ただ見ていた。春でもない、秋でもない、ましてや戦でもない。季節も戦意も抜け落ちたような横顔だった。


「最近闘技場にいないから、どこ行ったのかと思ったのよ」


 イングリッドは隣に腰を下ろし、軽く足を組んだ。
彼の視線の先を一応確認したが、やっぱり木しかない。


「さっきね、厨房がちょっとだけ修羅場だったのよ。ブリュンヒルデが鍋の中に顔突っ込んで、“これが中華の香りだぁ〜!”とか叫ぶから、クララが泣きそうになって、ノラが無言で火を止めて……あれは見ものだったわよ」


 彼女は笑いながら話した。表情も口調も、いつもよりほんの少し柔らかい。
だけど、ヘルギは笑わない。うんともすんとも言わない。

 いつもなら彼女との距離がこれだけ近ければ、そわそわして目を逸らしたり、余計なことを喋り倒していたはずなのに。
今の彼は、まるで“好きだった人”のことを思い出す、物語の中の誰かみたいだ。

 イングリッドの笑みが、少しずつ、色を失っていく。


「……もう訓練、しないの?」


 心配ではなかった。でも問いには、哀しさがにじんでいた。


 いつかの“真っ直ぐだった男の子”が、ここまで縮こまるのを、きっと彼女は見たくなかったのだろう。

 しばらく、返事はなかった。

 ヘルギは何かを飲み込むように喉を鳴らして、ぽつりとつぶやいた。


「……なんか、どうしていいか自分でもわからなくて」

「……そう」


 イングリッドからは、それだけ。


 責めなかった。慰めもしなかった。ただ、少しの間だけ、風の音を聞いた。

 やがて、彼女がぽつりと、投げるように言った。


「じゃあ、チャンスも諦めちゃったの?」

 ヘルギが、ようやく彼女の方を見た。

「それは……」

「前に言ったでしょ。“もう一度、チャンスが欲しい”って。私、ちゃんと答える気だったけど」


 イングリッドの目が、真っ直ぐにヘルギを捉える。


 だが次の瞬間、その視線はふっと逸れた。小さく息を吐いて、目元にかかる髪を払う。


「朝、闘技場でおにぎり配ってたの。形はいびつだったけど」

「あ……」

「あなたの分も、作ったんだけどね」

 ヘルギはわずかに目を見開いた。次の言葉は、彼の心からこぼれ落ちたものだった。


「……イングリッドさんのおにぎり、食べたかったな」


 その言葉に、イングリッドは、少しだけ眉を持ち上げた。


 それから、不意に微笑んだ。優しいのか、残酷なのか、判別不能な笑みだった。


「だったら、作ってあげるわ。あなたが飽きるまで、毎日」

「え……? それって……」


 ヘルギが訊きかけたその瞬間には、もうイングリッドは立ち上がっていた。

 風が吹く。枝のない木が、ゆらりと軋んだ。


「じゃあね」


 イングリッドは立ち去ろうと背を向けたまま、ほんの少しだけ肩をすくめる。

 それは、からかいとも、照れ隠しとも、逃げともつかない。

 言い捨てたその一言に、ヘルギの目がようやく動いた。

 次の瞬間、ガタンという音が響いた。

 彼が傍らに置いていた剣を勢いよく掴み、そのまま立ち上がる。


「急に目が覚めました!」


 叫んで、全力で駆け出す。ベンチを蹴り、石畳を踏み、遠くの訓練場の方向へ。
 だが数歩進んだところで急停止し、くるりと振り返る。


「イングリッドさんに毎日作ってもらえる男になってきます!」


 声は裏返り、顔は真っ赤で、言い間違えまでしたのに、本人は気づいていないらしい。
それでも、気持ちだけは全力だった。

 再び走り出すその背中を、イングリッドはしばらく見送っていた。
口元には、ゆっくりと笑みが浮かぶ。

 ただ、それはどこか影を引いていた。


「……ほんと、真っ直ぐなんだから」


 その呟きは、風にさらわれて消えた。


 ◇◇◇


 夕陽が闘技場を斜めに切り裂いていた。

 剣の音も怒号もない、どこか場違いに静かな場所。

 その片隅で、ラースはベンチに腰を下ろしていた。

 剣を握るでも、腕を組むでもなく。

 ただ、目の前の空気と折り合いをつけるように、黙って座っている。


「ラースさん!」


 砂煙に混じって、声が響いた。
足音も、慌ただしく近づいてくる。

 ヘルギだ。
もう来ないと思っていた。
いや、どこかで“もう来るな”と願っていたのかもしれない。


「もう一度お願いします!」


 ラースは首だけで、ヘルギの方を見た。
ほんの数日前、ここで彼の心を折った。
 徹底的に、文字どおり何も言えなくなるまで。


 ――あの時は悪かった。

 心の中で呟いてみても、誰かが赦してくれるわけではない。
息子のときと同じだった。
鍛えれば強くなると思っていた。
愛情を厳しさに変え、そして押し付けた。
結果、守れなかった。
ならば今度こそと、同じやり方を繰り返した。
名を呼ぶことさえ避けながら――息子とは違うと、自分に言い聞かせながら。

 だが、それももう意味はない。


「……無駄だ。結末は決まってんだ」


 感情を押し込めると、言葉は平坦になる。
その方が、喉を通りやすかった。
もっとも、ヘルギには通じなかったらしい。


「終わるとわかってても、俺は……最後まで諦めたくないです。イングリッドさんが、“おにぎり”を作ってくれるって言ってくれて。だから俺、ちゃんと受け取れる人間になりたいんです!」


 ラースは鼻の奥で笑った。
声にはしない。そんなことをすれば、何かこぼれそうだった。

 太い眉がわずかに動く。

 ――そうか。

 ラースはゆっくりと立ち上がった。
体の重みが、確かな決意を伝えている。


「剣を持て、小僧」


 やはり名前は呼ばなかった。
だが、その短い一言に、彼の本気が宿っていた。

 ヘルギは静かに頷き、訓練用ではなく、実際の剣を手に取る。
金属の冷たさが指先に伝わる。
空気が一瞬、引き締まった。


 二人の間に沈黙が流れる。
夕陽が彼らの影を長く伸ばしていた。

 そして、剣が交わる。
鋭い金属音が闘技場に響く。
ラースは手加減しない。
だが、破壊を目的とはせず、ヘルギの成長を確かめるように。


 ヘルギは必死に応戦し、体力の限界まで踏みとどまった。
息は荒く、汗が額を伝う。
それでも剣を下ろさず、立ち続ける。

 やがて、ラースの剣が一瞬だけ下がる。
 静寂の中、その声が小さく響く。


「……ずいぶん、しぶとくなったな――ヘルギ」


 それは初めての評価だった。
ヘルギは肩で息をしながら、笑みを浮かべた。


「おにぎり、受け取る準備、できました……多分!」


 ラースは答えず、ほんのわずかに肩をすくめた。


 だが、その仕草が、何よりの承認だった。


 夕陽はゆっくり沈み、二人の剣戟は終わった。

 言葉にしなくても、交わされたのは確かな絆だった。

 


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