塗り替える


「……ードっ」


 同じく、一日を振り返り終えたイードは、けたたましく扉を叩かれる音で、夢から引き摺り出された。


「起きろ、イード。大変だ」


 寝ぼけ眼を擦って扉を開くと、白い影が部屋の内に滑り込んだ。まだほのかに温かい卓上ランプに火を入れ直すイードから、大きなあくびが零れる。


「……お腹が空いたの? プリンなら保存庫に……」

「違う! やっぱりダメだ。昼間のことを思い出して、眠れない! かくなる上はイード……お前にキスしてもらって、忘れるより他ない」


 イードは己の頬をつねった。痛覚はしっかり目覚めていて、夢の続きでないことを教えてくれる。


「いやいや……いやいやいや」

「だってもうそれしかないだろう。フェリチェは明朝から、朝市の仕事が入っている。早く寝なくてはいけないのに、もやもやして眠れない。寝不足でこなせるほど、甘い仕事でないのはイードも知っているだろう。親方が厳しいひとなのも」

「そうだけど。何でそうなるかな……」

「他に誰に頼めると言うんだ」

「いや逆に、何で俺なら頼めるの。そもそもさ、俺はチェリに触れちゃいけないんじゃなかった?」


 発情期の折に「頼まれたって金輪際触れさせてやらない」と口走ったことが思い出され、フェリチェはちょっとばつが悪い。


「フェリチェの方から頼むのであれば……、いい……だろう」

「いいんだ。……まあ、そう言うなら。おいで」


 驚いても困った様子は見せずに、イードはフェリチェの手を引いて、寝台に腰掛けさせる。

 瞬き一つする間に、フェリチェの体は寝台に横たえられていた。


 急に視界がひっくり返ったフェリチェは、何が起きたか頭がついてこず、幾度も目をぱちくりさせた。

 やがて理解が追いつき、慌てて飛び起きようとしたフェリチェだったが、ふとイードの何か真剣に考え込む顔を目にした途端、身動きが取れなくなった。フェリチェの顔はどうしてだか、かっかと燃えて真っ赤だ。


「……あの、その……」

「じっとして」

「ひっ……」


 覆い被さるように影が差して、フェリチェはぎゅっと目を瞑った。


 肩から爪先まで、ふわりと柔らかな温もりに包まれる。石鹸とひなたの香りの中に、ほんのりとイードの持つナツメグのような匂いを感じ、フェリチェは緊張で身を硬くした。

 しかし……、身構えたままでしばらく待ったものの、それ以上なんのこともない。


 恐る恐る目を開けてみると、フェリチェは毛布にくるまれていて、イードはその隣に腰を下ろし、何やら本を選んでいるところだった。

 目が合うや、彼は数冊の本を掲げてフェリチェに問いかける。


「眠れるように読み聞かせてあげるよ。どれがいい?」


 不朽の名作絵本に、街の子供らの間で密かに人気のイードお手製紙芝居「ギュン太郎」。紙芝居に描かれたギュンターらしき主人公の持つ謎の吸引力に、フェリチェの指が宙に浮く。もう少しで紙芝居に触れるというところで、フェリチェははたと思い至って手を止めた。


「やはりお前は、フェリチェを赤子か何かだと思っていないか?」

「そんなこと思ってないよ。――寧ろ、思ってないから、子供扱いするしかないんだけどな」

「……言っている意味がわからん。フェリチェの知らない人族語か?」

「うん。そういうことにしておきなよ、今は」


 イードは静かに微笑んで、毛布の上からあやすようにフェリチェを撫でた。


 遠く、寄せては返す波の音に合わせて、撫でる手は規則的に上下する。そこに互いの呼吸が重なると、意図せずして親密で良い雰囲気が出来上がった。

 フェリチェは毛布の下から赤らめた頬を覗かせ、問う。


「――それで、その……しないのか?」

「念のため確認するけど、何を?」

「記憶を塗り替えるためのキスを、だ」


 たちまちイードの笑顔が、悟りの境地に至った神仏の慈悲深さに満ち満ちる。


「大丈夫? 今日はたくさん頭を打ったから、冷静な判断ができないんだね」

「フェリチェは冷静だし、大真面目だ!」


 とにかく早く寝なくてはいけないのに、目を瞑れば生暖かくてぶにょっとした感触が背筋を這う。寒気が止まらず、嫌悪感で覚醒するばかりだとフェリチェは切々と訴えた。


「だいたい、助言したのはイードだろう?」

「それはチェリの、としたらいいって話だよ」

「それなら、イードは最初からだぞ?」


 首を傾げるフェリチェの純朴さに、これまで穏やかに向き合ってきたイードの口から、初めてため息が零れた。


 呆れと、少しの怒りを孕んだ深緑色の瞳を伏せて、イードは腹を括る。


「……わかった。それなら、しようか」

「う、うむ……よろしく頼む」


 かちこちに身を硬くして、フェリチェは毛布を胸元まで下げた。案外と、騒ぎ立てたフェリチェだけが、心の準備ができていない様子だ。

 しかしイードはもはや、それにも構いはしない。

 駄々っ子をあやしていた手は、フェリチェの顔にかかった邪魔な髪を払うために添えられる。指先が肌に触れた瞬間、フェリチェはぎゅっと目を瞑った。


 固く閉じられた目蓋をじっと見つめても、イードにはその裏側に誰がいるのか、覗くことはできない。顕微鏡をもってしても、見えはしないのだろうと、自分で出したおかしな結論には思わず吹き出しそうになる。


「もしこれで、君の理想が叶えられ、記憶を更新できたなら……」


 悪い思い出の上塗り。幸福への置換。どちらに転ぶか分からない。

 それでも、フェリチェの記憶の片隅に、いくらかでも根を張れるなら……と、イードはわざわざ耳許で囁いた。


「――俺をフェリチェの図鑑に載せて」


 言葉が鼓膜を震わせると同時に、フェリチェの首筋は素直な強張りを見せた。今まさに触れようとしている唇も、固く引き結ばれてしまう。

 緊張をほぐすように、イードはフェリチェの頬を撫でた。指を押し返す肌の弾力のわりに、ほっそり小ぶりな輪郭をなぞる。寝台が軋む音が、やけに耳についた。


『……あなたを永遠に愛しく想う』


 先日、改めて触れてみたアンシア生まれの戯曲から、この場に最もふさわしい台詞をイードは選んだ。

 言葉の真意を確かめたがったフェリチェが、目蓋は閉ざしたまま小さく口を開く。イードはその時を待っていたかのように素早く、それでいて慎重に唇を重ねた。


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