出遅れる


 けたたましく扉を叩かれる音で、イードははっと我に返った。夕食の下ごしらえがてら、無心で野菜を刻んでいる時のことだった。


 珍しく研究とは離れた物思いに耽っていたため、それまで表の物音はあってないようなものだった。

 時折り思い出したように視線が向かうのは、レシピを書き留めたノートでも図鑑でもない。空き家の分布と自警団の警ら図を写し書いた、この街の地図だ。

 激しいノック音に現実に引き戻されたイードは、扉の向こうに誰何する。


「坊ちゃん、わたしです」


 おとないを告げるのはギュンターであったが、その声は常ならず逼迫していた。招き入れてもなお落ち着く様子が見られない。


「ご無事ですか、坊ちゃん。フェリチェ殿は? ご在宅ですか」

「チェリは散歩に出ているけれど……何かあったんだね?」


 重々しくも、素早い仕草でギュンターは頷く。


「以前、フェリチェ殿の財布を盗んだ者どもを覚えておいでですか? 二つ隣向こうの町にある労役場に送られた」

「もちろん、覚えているよ」

「かの者どもが、逃亡したというのです」


 ただ逃げただけというのなら、噂話程度に念頭に置いて身の回りに気をつけようで済んだはずだ。

 だが、報せを受けたギュンターが真っ先にイード宅に駆け付けたからには、それで済まない理由がある。


「奴ら、周囲を煽動して逃亡を企てたようなのです。労役場から逃げ出したのは全部で七名。奇しくも当人らだけが逃げおおせてしまい、他の者どもは捕らえられて調べを受けました。そこで明かされた彼奴等の狙いというのが……」


〈ユーバイン……もしくはその周辺にフェネットの娘がいる。娘を捕獲できれば夢の一攫千金、左団扇で暮らしていける〉

〈だがただ捕えるだけでは、俺たちの腹の虫がおさまらない。こんなところに送り込まれたのも全部あの娘と、一緒にいた若造のせいだ。報復してやる――!〉

 そんなことを呪いのように口にしていたという。


「驚いた、その若造って俺のことかな?」

「十中八九そうでしょう。わたしが奴らを捕らえた時、詰め所で顔を合わせましたな」

「うん。あの時のチェリはだいぶ怒っていて、彼らに噛みつきかねなかった。それを抑えに付き添ったね」

「坊ちゃんの声を聞いた彼奴らは、おかしな薬を嗅がされたせいで、体に変調を来たし回復しきれていないだのとわめいておりましたな」

「正当防衛の範疇だよ。だいたい、後遺症が残るほど危険なものを持ち歩いていたら、俺だって安心できないけどなぁ」


 イードは口を動かしながらも、いつでも留守にできる準備を調える。


「それで、チェリと俺を狙って現れるかもしれないってわけだ」

「ええ……。近頃、不可解な事件もありましたので」


 このところユーバインでは、夜の間に盗みに入られる店がいくつかあった。金目のものを根こそぎ……というのではなく、欲しいものにだけ的を絞ったように盗っていくので、被害にあったほうは首を傾げているという。

 具体的にはコロンにカツラ、手巾、マント……変わったものでは、声を変えて遊べる玩具なんかも盗られたそうだ。


「状況からこじつけるなら、変装でもしていそうだね」

「やはりそう思いますか」

「でもそうと決めつけるのは危険だ。大事なのは、その盗みがいつ起きたかだよ」

「初めは五日前です。直近では昨日……肉屋から肉切り包丁が消えました」

「穏やかじゃないな。もし……それらすべてが彼らの犯行だった場合、少なくとも五日前にはこの街に戻ってきているということだね。それから今日まで、彼らは何をするだろう」

「フェリチェ殿を探しますか?」

「そうだろうね。そして見つけたら、どうする?」


 前回は棚ぼた的にフェネットと知って捕えようとして、失敗した。ならば今度はもっと慎重に、狡猾になるだろうとイードは言う。


「俺だったら……チェリの行動を観察して、どうしたら確実に捕らえられる状況を作れるか考えるな。彼らがそこまで手間暇をかけるつもりでいるかはわからないけれど、チェリの人の好さはわかりやすいからね。何か困りごとがあるふりでもすれば、あの子はきっと放ってはおかないだろう。そういう性格につけ込む隙は、いくらでもある」


 口にしてイードははっとした様子で、わずかに自嘲するような吐息を零した。


「……とにかく今はチェリを見つけて、保護するのが先だ」


 ついこないだまで暑さの盛りだったというのに、近頃は日の傾きに合わせて、秋らしい風が街を吹き抜けるようになった。

 イードはすぐさま外套を羽織った。防寒、日よけ、砂塵よけ――あらゆる役割を担うそれは、フェリチェの被毛を隠す役目も十分果たしてくれそうだ。


 勇んで扉を開けようとしたところで、出鼻を挫くノックが響いた。

 二回目までは、どこか躊躇いが感じられる叩き方だった。そこからは勢いづいたように、一定の間隔で叩かれる。何用かと尋ねても返答はない。


 二人は顔を見合わせ、手の仕草だけで言葉を交わす。三秒数えたら扉を開けると取り決めた。その間にギュンターは剣を抜き、イードは台所から鍋蓋を持ってくる。

 いち、にの、さん――! で、ギュンターがドアノブを回した。


 押し開けられた扉を避けて、痩せっぽちの男が滑り込んできた。

 あんまりひょろひょろとしていたので、本当に具合が悪いだけの憐れな人間で、ただ倒れ込んだように見えなくもなかった。だが男の手には、ぎらりと光る鋭利な刃が握られている。どう見積もっても、まっとうな客人とは程遠かった。


 突き出された肉切り包丁の先を、イードは鍋蓋でいなす。鉄のおもてが掻かれる高い音を鳴らしながら、滑った切先は床へと突き立った。

 すかさずギュンターが男の手を踏みつける。力任せにのし掛かれば折れてしまいそうな手首であるが、もがき暴れる体力は人並みだった。


「人に刃を向けるものは、当然自分に向けられる覚悟もできているのでしょうな」


 ギュンターは剣を背筋に這わせ、声を低める。

 男はそれで観念した。苦々しい舌打ちとともに、玩具の変声石が口の中から転がり出た。


 ※ ※ ※


 問い詰めても、フェリチェ誘拐計画について、男は決して口を割ろうとしなかった。

 しかし、自警団の詰め所に引き渡されてなお自信に満ちた男の態度は、既にフェリチェが彼らの手中に落ちていることを雄弁に語っていた。


「坊ちゃん。団員は奴を拷問にかけてでも口を割らせるつもりでおります」

「血の気が多いなぁ。そんなことをしなくても、探しているのがチェリなら、きっとすぐ見つけられるよ」


 イードはまず、彼女がユーバインで初めて作った女友達である花屋の看板娘のもとへ向かった。その道すがら、ギュンターに根拠を語る。


「あの子は目立つ。けれどそれはフェネットだからというだけじゃない。チェリの振る舞いや爛漫さに力を与えられている住民は多い――俺も含めてね」

「ええ、わたしもです」

「チェリはその人柄で、みんなに愛されている。それは大いに気に掛けられているということだ。きっとたくさんの目が、彼女を見ていたはずだよ。だから、大丈夫。必ず見つかるよ」


 イードは力強く言葉を紡いだ。それはギュンターを安心させるためのようで、己に対する暗示でもあるかのようだった。

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