「路地裏のコンチェルト」
暁月 紡
第1章 第1話 見えない音符
大阪の喧騒から少し離れた、淀川区の隅に、時が止まったような一角があった。再開発の波がすぐそこまで押し寄せているにも関わらず、古い木造の建物や錆び付いた看板が、昭和の面影を色濃く残すシャッター商店街。その裏路地は、昼間でも薄暗く、湿った空気が淀んでいた。
大学生の**和泉 律(いずみ りつ)**は、コンビニの深夜アルバイトを終え、始発電車が動き出すまでの時間を、いつもこの路地裏で過ごしていた。目的があるわけではない。ただ、一人でいられる場所が欲しかった。大学は中退同然。将来への明確な目標もなく、周囲の友人たちがSNSでキラキラした日常を発信しているのを見るたび、焦燥感だけが募っていく。まるで、世界から取り残されたような、そんな気分だった。
今夜も、律は煙草の煙をゆっくりと吐き出しながら、スマートフォンの画面をぼんやりと眺めていた。流れてくるのは、楽しそうなパーティーの写真、海外旅行の風景、そして成功者の言葉。それらは全て、律にとって遠い世界の出来事のように感じられた。自分の心は、まるで音の出ない壊れた楽器のように、静かに、けれど確実に錆び付いている気がした。
ふと、視線の先に、見慣れない小さな看板が目に留まった。「アトリエ・ノクターン」。古びた木製の看板は、夜の闇に紛れるようにひっそりと佇んでいる。蔦が絡まる建物の二階に、ぼんやりとした灯りが漏れていた。こんな場所に、一体何があるのだろうか。
好奇心に駆られ、律は導かれるようにその建物の前まで歩み寄った。階段の入り口には、「関係者以外立入禁止」という手書きの札が掛けられている。躊躇しながらも、律は意を決して軋む階段をゆっくりと上った。
二階の廊下は薄暗く、奥の方から微かに話し声と、アコースティックギターの爪弾きが聞こえてきた。律は息を潜め、音のする方へと足を進めた。廊下の突き当たりにある、僅かに開いたドアの隙間から、室内の様子が垣間見えた。
そこは、雑然としていながらも、どこか温かい空気に満ちた空間だった。壁には様々なジャンルの絵が飾られ、隅には使い込まれた楽器や、粘土のようなものが置かれている。数人の若い男女が、思い思いの時間を過ごしているようだった。
一番奥の窓際には、ヘッドホンをして一心不乱にタブレットに向かうショートカットの女性がいた。彼女の指先は忙しなく動き、画面には緻密なイラストが描かれていく。SNSで人気のイラストレーター、「アカリ_art」こと**星宮 灯(ほしみや あかり)**だろうか。彼女の周りには、近寄りがたいオーラが漂っている。
部屋の中央では、ギターを抱えた長髪の男が、目を閉じ、低い声で歌を歌っていた。それは、路上でよく耳にするような、少し寂しげで、けれどどこか熱い歌声だった。彼が、路上ライブで活動する**風見 拓人(かざみ たくと)**に違いない。彼の周りには、同じように音楽に耳を傾けるような雰囲気の若者が数人座っていた。
そして、部屋の隅には、大きなキャンバスに向かい、黙々と筆を走らせる、どこか影のある雰囲気の少女がいた。彼女の描く絵は、色彩豊かで、見る者の心を強く惹きつける力を持っていた。彼女が、才能を持て余しているという噂の**瀬戸 美緒(せと みお)**だろう。彼女は、時折、自分の描いた絵を睨みつけるような、険しい表情を見せていた。
ドアの前で立ち尽くす律に気づいたのは、部屋の隅で黙々と何かを読んでいる、眼鏡をかけた小柄な女性だった。「誰かと思ったら…どうかしました?」と、少し警戒したような声で問いかけてきた。彼女が、このアトリエを取り仕切っているのかもしれない。
律は、咄嗟に言葉が見つからなかった。「あの…ただ、音が聞こえたので…」と、曖昧に答えるのが精一杯だった。
その時、ギターを弾いていた拓人が、ふと顔を上げた。「ん?誰か来たのか?」
部屋に、一瞬の静寂が訪れる。それぞれの視線が、ドアの前に立つ律に集まった。見知らぬ闖入者に対する警戒心、あるいは興味。様々な感情が、それぞれの瞳の中に揺らめいているのが分かった。
律は、今にも逃げ出したくなる衝動に駆られた。ここは、自分のような「見えない音符」が紛れ込んではいけない場所なのかもしれない。けれど、同時に、この場所に漂う、どこか温かく、自由な空気に、抗いがたい魅力を感じ始めていた。
「まあ、別に、珍しいことじゃないよ」と、最初に声をかけた眼鏡の女性が、少しだけ微笑んだ。「気が向いたら、入っておいでよ。ここは、いろんな音を出してもいい場所だから」
彼女の言葉が、凍りついていた律の心に、小さな波紋を広げた。いろんな音を出してもいい場所――それは、まだ音を見つけられていない自分にとって、ほんの僅かな、けれど確かな希望の光のように思えた。律は、ゆっくりとドアを開け、その一歩を踏み出した。まだ、自分がどんな音を出すのかも分からないまま。
続く
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