第3章「……止まらなかった」
夕暮れの研究棟。
講義を終えた少女が、扉を押して外に出た瞬間、風の中に“気配”を感じた。
見上げた先。
街灯もついていない薄暗い歩道の向こうに、ひとりの影が立っている。
長い黒髪と、夜の色のコート。
まだ夏は終わってはいなかったが、確かに秋が近づいた夜の空気だった。
それは、夢の続きのようで——少女は、思わず立ち止まった。
「……偶然ですね」
声をかけると、吸血鬼は小さく目を細める。
「……ええ、偶然」
その言葉に、どこか苦い熱がにじんでいた。
ほんの一瞬、少女の目を見たあと、すぐに視線を逸らす。
少女は小走りで近づくと、いつものように微笑んでみせる。
「お姉さんがこんなところにいるなんて、なんか変な感じ」
「そうかしら?」
「ふふっ、なんかこう……会えたことが、ちょっと嬉しいっていうか」
「……」
吸血鬼は何も言わず、ただ歩き出す。
促されるように、少女も隣に並ぶ。
カツ、カツ、と足音だけが静かに響いた。
その間、吸血鬼は何度も言葉を飲み込んだように見えた。
何かを言いたくて、けれどまだ言えない。
そんな不自然な“呼吸”の間が続く。
「送るわ」
ようやく漏れた声に、少女は目を丸くした。
「え? でも、そんな遠くないし……」
「……だめ。今夜は、危ない気がするの」
声の温度が変わった。
決して冗談ではなく、警告でもなく、もっと本能的ななにか。
「何か……あったんですか?」
「別に。でも……あなたが無事に家に着くの、確認したくなったの」
「……?」
少女は小さく首をかしげるが、それ以上は追及しない。
ただ少し早足になって、吸血鬼の横に並ぶ。
そのとき、吸血鬼の手がそっと、少女の肩に触れた。
「歩幅、もっと小さくていいわ。今は、急がないで」
「……?」
「お願いだから」
その声音に、少女は初めて“なにか”を感じた。
怯えにも似た、けれどそれを押し隠したような静かな焦り。
呼吸の中に潜んだ、抑えきれない渇き。
しばらく歩いて、人気のない住宅街の角に差しかかったときだった。
吸血鬼がふと、少女の前に立つ。
「……少しだけ、時間いい?」
「え、はい。どうかしました?」
「……さっきから、ずっと我慢してたの。だけど、もう無理そう」
吸血鬼の目が揺れている。
それは、欲望に濡れた瞳ではなかった。
苦しそうに、迷いながら、けれどどうしようもなく引き寄せられている瞳だった。
「……今日は、ここでもらっていい?」
——ようやく、囁かれたその言葉に、少女は一瞬、何も言えなくなった。
けれど、すぐにそっと笑って、頷く。
「……いいですよ。お姉さんが元気になるなら」
吸血鬼の瞳が、静かに細められる。
それは“理性”が崩れていく音だった。
その瞬間、吸血鬼は少女の背後にまわり、そっと腰に手を添える。
そのまま、ためらいなく抱きしめた。
少女の背中に、吸血鬼の体温がゆっくりと重なる。
呼吸ひとつすら支配されるような密着。まるで、獲物を捕らえた捕食者のように。
「……ん」
少女が小さく息を飲むと、吸血鬼の手が、そっと後頭部へと伸びる。
撫でるように、指先が髪をすくい上げる。
「ねぇ……今日だけは、ちゃんと“お願い”して」
耳元に落とされたその声は、甘く湿っていて、焦れた欲を隠そうともしない。
少女は戸惑ったように瞬きをして、でもすぐに小さく口を開いた。
「……吸って、ください」
それだけで、吸血鬼の唇が少女の耳に触れる。
甘く、ゆっくりと、息を吐きかけながら噛む。
「っ……ふ、ぁ……」
声にならない吐息が漏れるたび、吸血鬼はその反応を楽しむように、もっと深く、耳の裏を舌でなぞった。
指先が首筋へ滑り落ちていき、肌に触れたかと思えば、ぴたりと止まる。
「ここ……欲しかったの。ずっと、ずっと」
その言葉とともに、牙がゆっくりと、でも確かに突き立てられた。
「……逃げないのね?」
囁きと同時に、吸血鬼の腕が少女の腰をぴたりと抱き締める。
その温度に、少女の呼吸がふっと揺れる。
「……逃げられないだけ、です」
少女の声は震えていた。恐怖ではなく、昂ぶりのせいで。
「ふふ……いい子」
吸血鬼の唇が、そっと少女の耳に触れた。
吐息混じりの声が、耳の奥をくすぐるように響く。
「……今日は、耳から、いただくわね」
囁きの直後、吸血鬼は少女の耳たぶにそっと舌を這わせる。
それは、血を求める動作とは思えないほど甘く、ねっとりとしていた。
「ん……っ」
首をすくめるように身をよじる少女を、吸血鬼は逃さない。
後頭部を撫でながら、さらに深く抱き込む。
「ほら……震えてる」
くすくすと笑いながら、耳たぶに軽く歯を立てた。
甘噛み。けれどそのひと噛みで、少女の膝から力が抜ける。
「……っあ……」
そのまま首筋へと唇を滑らせる。
今までよりも、ずっと丁寧に。ずっと、執着深く。
「もう……止まれないの。ねえ……」
吸血鬼の手が、少女の喉元を優しくなぞる。
そして、牙がゆっくりと突き立てられる。
「ぁ……!」
押し殺した声が、少女の喉から漏れた。
肩が小刻みに震え、指先が吸血鬼の腕を掴む。
痛みと、痺れるような快楽と。
それらが混ざりあって、少女の中を満たしていく。
吸血鬼は、ただ静かに血を啜っていた。
まるで恋人のように、まるで支配者のように――
だが、少女の身体が、不意にふっと沈んだ。
「……!」
抱き留めた吸血鬼の腕の中で、少女は意識を手放していた。
まるで壊れそうなほど、儚く、柔らかく。
「……嘘。もう、限界だったの……?」
吸血鬼の手が、震える。
指先で頬に触れ、呼吸を確かめる――微かだが、確かにある。
「……はあ……なんてことを……」
少女の首筋から、まだ温かい血の香りが立ち上っていた。
それが――とてつもなく、甘い。
季節が変わりつつあることを告げるように、秋の虫の声が微かに聞こえてくる。
「これじゃ、まるで……」
吸血鬼は、唇を噛み締めた。
見下ろす少女の顔が、苦しくなるほど綺麗で。
無防備で、無垢で、その“存在”すら吸い尽くしてしまいそうで。
「ねえ……わたし、化け物だよね」
呟いた声は、冷たい雨にかき消されていく。
抱き締める腕に、力がこもる。
「わたしね……あなたを、ただの“餌”にするつもりなんて、なかったのに」
最初から、気になっていた。
最初から、惹かれていた。
でもそれが“血”なのか、“心”なのか、もう分からない。
「……止まらなかった」
否、
止まれなかったのか。
それとも――止まる気なんて、最初からなかったのか。
「もう……どうでもいいか」
吸血鬼は、少女をそっと抱き上げる。
まるで、何かの罰のように。
まるで、自分自身を罰するかのように。
「だって、もう遅い」
吸血鬼が少女を抱えて歩き出す。
足元は見えていなかったのか、グシャリとセミのぬけがらを踏み抜く音が響いた。
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