静夏僕生
ダイナマイト・キッド
静夏僕生
静かな夏の朝。まだ僕は生きてる。
汗をかいて目を覚ます。明け方から今日も暑い。青く澄み渡った悪意が空一面を覆い尽くし、真っ赤に燃え上がる共犯者を待ってる。僕は道路を横切って、斜向かいの商店の軒先に佇む自販機の前に立つ。アプリにチャージしたはずの残高を確かめることすら何だか億劫で、まあいいやどうだって……と画面を見もせず〝タッチ!〟にかざした。
静かに僕を蝕む姿なき雪だるま。
土曜日の明け方。東京から帰ってきた夜行バスが静々と路面電車沿いの駅前大通を往く。乗降客も無いバス停に停まり、低く唸るような排気ガスのため息を吐いて再び走り出す。終点の停留所まであと少し。深緑と明るい黄緑のツートンカラーで彩られた車体が田んぼと野立て看板ばかりの県道に差し掛かり、やがて産業道路と古い入江の集落とを分かつ交差点をどちらにも進まずに左折してゆく。普段なら苛立ち、先を急ぐ自動車とトラックの群れが渋滞する往来も今日は静まり返っている。信号待ちの僕だけが大きく曲がって走り去るバスを見送っている。日が差し始めた。運転席は早くも熱を持ち始め、エアコンの風だけが冷たく他は蒸し暑い熱帯夜をそのまま閉じ込めたような匂いがしている。
静かに僕を蝕む姿なき雪だるま。
かつての海岸線と埋立地の工業団地を繋ぐ道路橋がカラフルなワイヤーのように幾つも交差し伸びている。間抜けな音を立てて底が抜けたように晴れ渡る青空と同じような色に塗り直されたばかりの橋を渡って南へ、南へ。片側5車線の湾岸道路は伽藍洞で、まっすぐ伸びた先で陽炎をまとった空気が溶けてアスファルトと空とを揺らめかせ、溶接しようとしている。その透明なアークに向かってアクセルを踏み込む。
黒いツルツルしたカウンターに白い小鉢が並び、柿の種とカラフルなフィルムで包装されたラムネ菓子が補充された。僕は黄色いフィルムに包まれたボタン電池みたいなそれをくるくると剥きとり、白いかたまりをひとつ口に放り込んだ。
さっきのハイボールが回ってきたけど、まだ元気だ。
隣の三人連れが歓声を上げた。30年ぐらい前のヒット曲をさっきから順繰りに歌っている。メガネ、ショートボブ、日焼けの取り合わせで、どうもショートボブとメガネの雰囲気がタダナラヌものを孕んでいそうだ。ショートボブがピチカート・ファイヴをブリブリした声で歌い終えてマイクを置いて、次は日焼けの番だ。「電光石火の銀の靴」が流れ始めた。
僕に小鉢のお菓子とグラスの氷を補充してくれた貴女が気遣うように潤んだ瞳を向ける。おかわり、お茶にしときます? という短いフレーズでさえ、少し酒焼けしつつも元の澄んだトーンが根底で響く美声が染みる。「じゃあ、烏龍茶で」と、僕。汗をかいたグラスをカランと振ってコースターの上に置く。空調が唸りを高めて冷たい風を掃出す。貴女は軽く首を傾げる。疑問じゃなく媚びじゃなく、その角度が可愛いというのを知っている。僕も貴女も、貴女の可愛いところを知っている。そして、もっと知りたいと僕は思っている。
日焼けの歌が終わった。正確には、途中で演奏がフェードアウトした。機械の中にそういうゲームが入っているらしく、カラオケスナックらしい遊び方だ。
そして次は、貴女の番だった。僕の知らない歌を入力して、僕の知らない歌が流れ始めて、僕の知らない顔をして、僕の知らない声になって、貴女が歌い始めた。
洋酒の瓶が並ぶ棚と、焼酎のボトルや流しに据え付けられた炭酸のサーバーがあるカウンターのあいだで、貴女は楽しそうにぴょん、ぴょんと体を左右に跳ねて揺らして微笑んで、僕の知らない振り付けで歌う。笑顔を絶やさないのではなく、歌っているだけで自然と笑顔になってしまう。きっと貴女はそういう人なんだと思う。周りも笑顔にするし、自分も気づけば笑っている。だから貴女は人気者だし、僕だけが日陰で苦虫を噛んでいる。日向に咲く花が風に揺れて歌う時、ダンゴムシの出る幕は無い。
静かに僕を蝕む姿なき雪だるま。
真夏。真昼。真っ直ぐなハイウェイ。遥か南を目指して伸びるアスファルトに揺らめく陽炎は昨日の悪夢。陸橋のアンダークロスが模ったいびつな四角形の空が青く深く笑う。僕はアクセルを踏み込む。君は助手席で微睡む。寝息が耳をくすぐる。鼓動が二つ重なる。その幻を噛みしめる。空っぽのシートに語りかける。
静かに僕を蝕む姿なき雪だるま。
大須観音の賑いが遠ざかりながら近づいてくる。近づけば近づくほど不鮮明になる雑踏のサウンドトラック。不意に合わさったチューニングが拾い上げる言葉の欠片。誰に向けて投げたかわからないような礫が全部、自分の頭めがけて飛んでくるような気がする昼下がり。フラスコの中で銀のあぶくが踊りながら弾けて、カルダモンとパンラズナとボムシェルの香りになって、立ち上る煙が天井で撹拌されて、僕は窓の外に浮かべた夢から目覚めて、ホースを口元に持ってきて深く吸い込んだ。大きな屋根とマンションの壁に描かれた文字が滲んでゆがむ。
静かな店の中でひとり。あぶくの消えるときがくることに怯えている。あの雑踏にまかれて日差しを浴びて、地下鉄に揺られて帰り道を辿る。ただそれだけのことが、こんなに寂しく辛い夏の日の午後。
誰も居なくなった家にひとり帰った。真昼の猛烈な熱気だけが僕を待っていた。それに抗う気力もなく玄関にへたり込んだ。声も顔も思い出も足音も消えた家の中は伽藍洞で、僕は帰り道すらも思い出せないまま震えていた。
身体にまとわりつく熱気と、シャツや下着に染み込んだ汗の冷たさが、ちぐはぐな心に明滅するわかりきっていた結末(こたえ)を浮き上がらせている。いつか来る日が来たんだ。わかっていたようで、いざ訪れると現実が重くのしかかり目を逸らすことも出来ないまま。
僕は明日も目を覚ますだろう。そして静かな朝を迎えて、まだ生きていることを悔やむだろう。喜ぶことや、安堵することや、生きようと思うことすら、今は考えたくもない。
それでも静かな夏の朝、まだ僕は生きようとする。
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