第一楽章
月光が水神の泉をハイライトのように照らす。あれからまだ数時間しか経ってないのに、水神の泉がひどく懐かしく感じる。
「ふぅ…」
何度この泉の前で息を吐いただろうか?腰下げポーチに入った縦笛が、物理的に重い。
「早いね」
木陰の葉の部分だけ揺れる。そして、見事私の前に着地した。軽やかな動きを、一体どうやって手にしたのだろう?
「まだ日付が変わってないけど…もう出発する?」
出発、という言葉がどれほど魅惑的だったか。これから私たちの逃走も始まるが、旅も始まる気がした。
「うん」
興奮のせいか、二文字しか言葉を発せられなかった。
「じゃぁ、決まり!早速行こう!」
「行こう、ってどこに?」
私たちに行く当てはあるのだろうか。
「んーっと…分からない。でも、まずはこの山を下りよう!」
そう言って、一度見せたことのある無邪気な笑いを見せた。今でも、完全に直視することは出来なかった。
「水月…改めて、よろしく」
「こちらこそ。薫風」
薫風という名で呼ばれた。ここに来るまで、ずっとその名を噛み締めていた。薫風…新緑の間を吹き抜ける初夏の風。若葉の香りを運ぶ風。本にはそう記してあった。
「水月はここに来るまでの道中、大丈夫だった?」
一応彼女も罪人的な存在だったはずだ。夜コッソリ抜け出すのは困難だったはず。
「私の家、小さい窓があるの。扉は開かなかったけど、その窓から出たわ」
窓?あの、室内でも外の景色が見れる窓?
「薫風は?」
「扉に鍵がかかってたから、5年かけて作った逃げ道を使って来た」
9になった時から作り始めた秘密通路。といっても、重い家具の後ろに子供一人やっと通れるほどの穴を開けたものだけど。
「逃げ道…。薫風の家って窓無いの?」
「普通の家にはある。でも、私はずっと特別な造りの家で暮らしてたから」
「特別な造り…?」
窓はなく、鍵も外側からしかかけられない。地面からは何本かの柱により、数メートル離れており、地に足を付けるには、はしごを用意してもらわないといけない。でも、9の時からその家に住んでいたんだ。もうはしごなんか使わずに、抜け出せる。
「それより、そろそろ行った方が良いよ」
そう言いながら、北東の山の頂上らへんを指す。炎が灯っていた。私が抜け出したことに、もう気が付かれたのだろう。
「薫風…あれ」
「多分抜け出したことに、もう気づかれた。追手が水神の泉付近に来る前に、早くこの山を下りよう」
「ええ、急いだほうがいいわ」
木陰が揺れる。水月が木の枝に一瞬で上った…いや、飛び乗った。
「木登りは得意?」
「ちょっとだけ」
特別な造りの家から出るとき、家の隣にある木を使って地面に降り立っていた。数メートル浮いている小屋から、はしごを使わずに逃げ出す得策だった。
ピュー…
遠くで聞き覚えのある笛の音がする。この音は…。
「ヤバい。風が来る!」
「え?」
風の民ではない水月が戸惑う。
「風に私たちの位置を特定させるつもりだ!」
ここまで言うと、水の民でも理解できたようだ。水の民も風の民も、どこか似ている文化や使命を持っているから、説明が楽で助かる。
「早く!」
急かす水月の乗っている枝に向かって、飛ぶ。四方に生えている枝に足をかけながら、水月の元へ向かう。計6秒…新記録!
ピュー…
さっきよりも音が強く、濃くなる。森の中を通り過ぎる風の音が、微かに聞こえる。
「ついてきて」
そう言い残して、水月は手前の木から毛細血管のように生えている枝へ飛び移る。枝から枝へ飛び移るのが怖い、という感情は感じる時間も無かった。少しでも躊躇していたら逃げられない、直感がそう言っている。
「薫風、こっち!」
ずっと森で暮らしていた風、水の民一族は夜目が効く、という話を今思い出した。子供のころ…今もだけど、信じてはいなかった。でも、目の前に広がる光景を目にしてしまったら、信じないことは出来ない。
「水月、夜目が効くという話は、本当だったんだね」
「あら、薫風の集落にもそんな話があったの?」
そんな会話をしたい。あと、水月のことも知りたい。好きな食べ物、場所、音…。無事に逃げられたらの話だけど。
「薫風」
「何?」
「…何でもない」
「…何よ?」
手前の枝から奥の枝へ。飛び移る枝が途切れた時は、頭上に位置する枝にぶら下がる。振り子のように勢いをつけ、奥の枝へ。
「無事に逃げられたら、言う」
後から話す、という手法が私は一番嫌いだ。好奇心が咲かせた期待の花を、踏みつぶされた気分になる。
「まぁ、別に良いけどさ」
枝から枝へ。好奇心の花を一旦心の隅へ追いやり、無我夢中で深夜の森を走り抜ける。
ピューピュー
笛の音が近づくにつれ、鼓動が早くなる。息切れのせいだと思っておきたい。
「はぁ…ふはぁ」
前を走る水月の荒い呼吸が聞こえる。
ピュ、ピュー
数十分、数時間息切れの声だけが聞こえる。笛の音など気にもならない程、無我夢中で枝につかまり、飛び越える。
「はぁ…薫、風…あと、もう少し」
息切れの声だけがこだまする森の中で、その声だけが微かに聞き取れた。水月の体力はもう限界に近い。でも、体は動き続ける。疲れた、という理由だけでは自分の人生を終わらせたくない。
「はぁ…はぁ…アハハ…」
微笑の声が聞こえた。水月が声をあげて笑っている。
「薫風、見て」
水月が真っ直ぐに指す先には…夜空のように、点々と灯りが広がっている。木々の間から差し込む灯りに目がくらむ。民家の集合地帯を、初めて近くで見た。
「綺麗…」
森の中からでも、少しは灯りが見える。でも…こんなにも綺麗だったとは。見とれながら前の枝に進んでいると、何かにぶつかった。ながら走りはしちゃダメだってことが良くわかる。
「薫風…」
「水月?」
水月の声が震えている。でも、これは感動の震えだと、すぐに分かった。
「私たち、無事山を下りれた…」
足元を見る。前に枝は無かった。木が無い…森特有の匂いも薄い。あの憎い笛の音も聞こえない。
「水月…私、生きてる」
「うん」
「私、日付が変わっても、生きてる」
「うん」
明後日も、来週も、1年後も生きてるかもしれない。余命が増えていく。生きる、という忘れていた喜びを思い出す。
「水月、ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」
感謝の言葉を交わした後、好奇心の花の芽が出だしたことに気づく。
「無事に逃げ出せたんだし、私に言おうとしてたこと、言いなよ」
好奇心の花が、種子まで実りそうなほどに成長する。
「完全に追手がなくなった時に言う」
「ケチ」
ホントに、ケチだと思う。好奇心の花が、土に潜ってしまった。
「だから、絶対に生き延びよう」
水月が自分に言い聞かせるように言う。決意に近かった。
「初めから、そのつもりだよ」
夜空には、目の前に広がる灯りを反射したかのように、星が光っていた。
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