ただ、それだけのこと
@je3m8xK1
日向のぬくもり
大丈夫かな…。行けるか…いや、ちょっと厳しいか…。
さっきから、廊下を行き来してばかりだ。仕方がない。一旦踊り場へと逆戻りして、深呼吸するとしよう。そうだそうだ。こういうときこそ、冷静にならないと。すう……。はあ……。よし、今度こそ。踵を返して階段を上りかけたところで、風咲さんと目が合った。
「おはよう♪」
微笑む姿はかわいいけど、さっきまでの努力はすべて水の泡になってしまった。でも別に、それは大したことじゃない。
「お、はよう。」
心なしかぎこちない。
「どうしたの?こんなところで。」
そう尋ねるのも無理はない。
「あ、いや、何か忘れ物したかなーと思って…」
「取りに行かなくて大丈夫そ?」
透明感たっぷりのその声質は、さながら声優さんのよう。
「あ、まあ何とかなるかな。大丈夫。」
「そっか。ならよかった。」
今日も今日とて、女神さまを彷彿とさせるその出で立ちに、僕は戸惑いを隠せない。
やわらかな日差しが差し込んでいて、机を温かく照らしている。自分の席にたどり着き、荷物を置いて椅子に腰掛ける。ふう…。一息ついていたら、風咲さんが教室に戻ってきた。そしていつも通り、僕の隣に腰掛けた。僕の隣に。大事なことは強調するのが筋というもの。
どうしてこんなに素敵な人が僕の隣にいるんだろう、なんて思ったりする。だからこそ、授業中はいつも意識してしまう。二人で一緒に問題の答えを確認しているとき、教科書を音読しているとき、静かな教室に、シャーペンを走らせる音が響くとき、僕はそれが夢の中の出来事に思えてきて、そんな見当違いな想像を毎回楽しんでいる。
この町は自然豊かで、その周りを海と山に囲まれている。通学路には潮風が満ちていて、とびきりの爽やかさを感じながら、ベンチに座って海をぼーっと眺めるのが最近のマイブーム。
夕焼けに照らされて、空は次第に赤みを帯び始めている。それでも、青く澄んだ空は確かにそこにあって、その二つが穏やかに入り混じっているのが見て取れる。
相変わらず綺麗な空を眺めていると、カラスの鳴き声が辺りにこだました。声のする方に目をやると、空高く悠々と飛んでいる様子が目に入った。まだこの空を見ていたいけど、そろそろ帰らなきゃな…。仕方なく立ち上がって、大きなため息をつく。あー、今日も疲れた…。
新緑の季節。あれだけ咲き誇っていた桜は次第に散って、木々の梢に新しい葉が顔を出し始めた。青く晴れ渡った空を眺めながら、緩やかな坂を上っていく。
教室に入ると、いつも通り風咲さんが出迎えてくれた。
「おはよう、道下くん♪今日もめっちゃあったかいね。」
「うん。」
少しだけ、声がうわずってしまったかもしれない。確かに、日に日に暖かくなっているような気がする。
荷物を置いて課題を出すと、リュックに入れておいた小説を取り出した。少し前に書店で買ったきり、ほとんど手を付けていなかったものだ。
ページを繰るごとに、その物語の世界に引き込まれていく。時折聴こえてくる鳥のさえずりに耳を澄ませながら、慌てずにゆっくりと文字を追いかける。いいなあ、この感じ。一番好きなジャンルだ。もっと早く読めばよかった。
和やかな雰囲気に包まれて、しばらく物語に没頭していると、朝礼前のひとときはあっという間に過ぎてしまう。
鳴り響くチャイムに少し驚きつつ、僕は読んでいた小説を閉じて、改めて一日をスタートさせた。
数学の時間、僕は開始早々頭を抱えていた。公式をそのまま使うだけでは解けない問題に出くわしていたからだ。だめだ、分からない。もう一度問題文を読み返してみるけど、解決の糸口は掴めそうにない。僕が心の中で唸っていると、風咲さんが声をかけてくれた。
「どうしたの?道下くん。」
「あ、いや、三番目の問題でさっきからずっと止まってて…」
そう説明すると、風咲さんは丁寧に教えてくれた。正直、緊張して話があまり入ってこない。透き通った声があまりにも綺麗で、説明の間中ずっと、その声に聴き入っていた。
「ごめん。ちょっと分かりにくかったかな。」
「いや、全然そんなことないよ。ありがとう。」
「ならよかった。どういたしまして♪」
そう言うと、風咲さんはこちらに微笑んでくれた。かっ、かわいすぎる…。僕は昇天しそうになりながらも、その説明を頼りにして、なんとかその問題の解にたどり着くことができた。
風咲さんの助けがなかったら、きっと分かんなかっただろうな。授業が終わってからも、僕はその思いがけない幸運の余韻に浸っていた。
昼休み。静まり返った図書室で、ゆったりと本棚の整理をする。毎日というわけではないけど、たまにこうして図書委員としての仕事を請け負っている。作業量はそんなに多くないから、割と短時間で終わる。
大方片づけてから時計を見ると、まだ時間がある。本棚から小説を一冊持ってきて、近くの椅子に腰を下ろす。表紙には草原と大きな木が描かれていて、僕はそれを確認してからページをめくる。ここは本当に静かだから、読書にはもってこいの空間だ。ってまあ、そりゃそうか。
時間も忘れて読みふけっていると、いつの間にかチャイムが鳴り響いていた。僕はゆっくりと本を閉じ、元の棚に戻してから、ゆっくりと図書室を後にした。
教室に向かいながら、ふと窓の外を見てみる。裏庭の木々は新緑まぶしく、午後の日差しを受けて輝いている。空に目をやると、やわらかな雲がちらほらと浮かんでいて、初夏ののんびりとした空気が感じられる。
ぶつからないように視線を前に戻すと、少し教室を通り過ぎていた。危ない危ない。重い机と格闘している風咲さんを発見し、すかさず駆け寄る。
「ごめん、運ぶよ。」
「あっ、ありがとう。」
よかった、間に合って。とりあえず安堵する。
「図書委員の仕事?」
「うん、そうそう。」
「そっかそっか。お疲れ様。」
「ありがとう。」
「ふふっ、どういたしまして♪」
かわいすぎる…。もう最高。ありがとうございます(?)。
「雑巾とほうき、どっちがいい?」
いつものように尋ねてくる。
「雑巾するよ。」
「じゃあ、先にはわくね。」
僕はうなずいてから雑巾を手に持ち、用具入れからバケツを取り出すと、水道の方へと向かった。蛇口をひねって思わず窓の外を見ると、爽やかな青空が顔を出しているのが分かる。廊下に満ちているのは、水がバケツを打つ音だけ。
水を止めてバケツに雑巾を入れると、ゆっくりと色が濃くなって沈んでいった。特に意味はないけど、なんとなくそうしたくなった。というか、乾燥しきった雑巾が徐々に水を吸って、柔らかくなっていくのを見たかっただけ。ただ、それだけ。
教室に戻ると、風咲さんが軽快に床をはわいていた。心地よいその音に耳を澄ませながら、水を含んで重たくなった雑巾を絞る。開け放たれた窓からはやわらかな風が入ってきて、カーテンは春の名残をまといながらゆったりと翻った。風咲さんがほこりを集め始めたのを見て、僕はちりとりを取りに行くことにした。
「あ、ありがとー。」
「うん。」
何気ない言葉なのに、やっぱり嬉しくなってしまう。風咲さんが近くにいると、鼓動が速くなる。まさに今がそうだ。ちりとりを持つ手が緊張で震えているのを必死にこらえながら、僕は平然を装い、彼女がほこりを回収する様子を見届ける。ちりとりを持って立ち上がると、再びお礼を言われた。
「ありがとう♪」
「どういたしまして。」
この人の言葉は、いつだって僕の気持ちを穏やかにしてくれる。軽やかな春風を思わせる、そんな素敵な声の響きを、いつまでも聴いていたい気がした。
午後の授業は睡魔との戦い。戦いというと大げさに聞こえるかもしれないけど、今この瞬間も、全国の中高生が直面している事態かもしれない。僕は今まで睡魔に負けたことがない。あ、授業中の話ね。というか、意地でも眠らないように気を付けていると言った方が正しい。
「道下くん、大丈夫?」
風咲さんが声をかけてきたってことは、どうやらうとうとしていたらしい。
「うん、大丈夫。」
「私もさっき眠くなっちゃって、何とか意識を戻したら、道下くんもおんなじ感じに見えたから、つい…」
かわいい。思わず声に出しそうになったけど、すんでのところで飲み込んだ。
「いや、気にしなくていいよ。むしろ起こしてくれて助かったし。」
「そう?ならよかった♪」
なんだか嬉しそうな風咲さん。どうしたんだろう。
ちなみに今は古典の時間。教科書の現代語訳を読んでいる最中。そして、二人の席が窓際の明るい場所に位置しているということも多少影響していると思う。でも、今扱っている題材はまだそんなに難しくなくて、原文もサクサク読み解くことができる。
それに、季節に関することなんかは今と共通していることも多いから、そこまで理解に困らない。そうは言っても、眠いものは眠い。たっぷりの日差しに包まれる昼下がり。まだ少しぼんやりしている頭で続きを読み進めていく。
もうひと踏ん張りしなきゃ。睡魔との因縁はまだ残ったまま。いつか完全勝利せねばなるまい。
あくる日の午後は、心地よい眠気と共にゆっくりと過ぎ去っていった。
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