羽根と脂

望月おと

羽根と脂

「なんでもいいよ」

 

 それが私の十八番だった。たぶん本心だと思う、八割くらいは。残りの二割は、考えるのが面倒だったのかもしれない。いや、違う。本当に興味がなかったのかもしれない、いや、それも、違うような。ああ、そんなことすら自分で断定できないあたり、すでに破綻している。破綻しながらもこうして生きている私は、案外偉いのではないか、とさえ思える。


「何食べたい?」


そう聞かれて、咄嗟に返した。自分の欲を出すと、どこか厄介な空気が漂う、そんな気がする。それより、目の前の人に笑っていてほしいという欲のほうが、ずっと強かった。こう書くと、なんだか聞こえがいい。自己を顧みない、美しい献身のようにも見える。でも実際は、ただ、そっちのほうが人間関係のコスパがいい、という損得勘定にすぎない。美のかけらもなく、極めて打算的な、みっともない選択だった。


 おいしいものは、そりゃあ食べたい。でも、食べられたらなんでもよかったりもする。無性に甘いものを欲する日もあるけれど、周りが「しょっぱいのがいい」と言えば、私もそんな気分だったと思えてくる。気づけば、それで済んでしまう。気のせいって便利。だいたいの感情や記憶を、うやむやにしてくれる。そういう意味では、気のせいこそ万能薬なのかもしれない。あ、チーズだけはずっと嫌い。でも、鼻を摘んで、噛まずに飲み込んで、水か何かで流し込めばなんとかなるから平気。だから、別に、それでもいい。いや、よくはないのだが、「よくない」と言うほどの元気もないので、結果的に「それでもいい」になってしまう。


 料理するのは、まあまあ好き。人に振る舞う時だけは。自分のためとなると、まったく火が入らない。火どころか、電源すら入らない。私は自分のために電子レンジを開ける気力も惜しい。せいぜい、牛乳をかけたら完成のシリアルとか。あれは、パッケージの裏に「食物繊維」だの「鉄分」だの書いてあって、それだけで大丈夫だと思えてしまう。包装と文言に弱いのだ。けれど、それも洗い物が出るので、結局あまり好きではない。ラーメンはカップ麺に限る。袋麺は却下。鍋を使ったら負けだ。敗者のラーメン。そこまでして麺をすするくらいなら、私はもう、餓死する。誰にも看取られずに、うっかり、静かに死ぬ。自分が食べたという事実のせいで、台所に手間が生じるのが、どうにも腹立たしいのだ。生きるとは、後片付けである。


 要するに、他人の目があれば頑張れる。そうでなければ、まるで頑張れない。単純だ。救いようのないほど単純だ。自分のためとなると、労力が、五倍、いや、十倍、あるいはそれ以上に膨れ上がる。自分に手間をかけたところで、返ってくるものはただの疲労だけ。そもそも、それほどの価値が自分にあるとは思えない。思えないどころか、絶対にないと確信している。自信満々の自己否定。もはや立派な信条。誇り高き卑下精神。


 とはいえ、買い物は楽しい。労力は惜しんでも、お金は惜しまないのだからたちが悪い。使い方は無茶苦茶。未来への投資、現在への浪費、心への負債。見事な三拍子が、魔法のように私の財布を軽くする。キラキラのコスメに、新しい洋服、アクセサリー、雑貨、五百円のガチャガチャ。かつては二百円だったのに、今や五百円。令和のインフレは恐ろしい。中身は、ゆるいキャラクターのキーホルダー、某お菓子がモチーフのステッカー、うさぎさんのアップリケがついたちっぽけなポーチ。可愛い。ひたすらに、可愛い。最近では、スマホやテレビが、可愛いだけじゃだめですか、とやたら問いかけてくる。知るか。うるさい。可愛いだけじゃ、税金は払えない。可愛いだけじゃ、孤独も治らない。だがしかし、可愛いだけでほんの一瞬、救われた気になる哀れな生物が、ここに一匹。だから、返答に詰まる。まあ、画面に返事する必要なんて、そもそもないのだけれど。


 ひとり外食もよくする。喫茶店とか、ファーストフード店とかで、誰とも話さずコーヒーをちびちび啜る。苦いほどいい。なんだってそう。甘ければ甘いほど、辛ければ辛いほど、おいしい。刺激不足か、馬鹿舌か。まあ、おそらく後者でしょう。1人で本を読んだり、作業をしたり、考え事をしたりして、一、二時間。それだけでなんだか、自分を大事にしている気になる。不思議だ。自分に優しくする方法は知らないけれど、そうしている間だけは、羽根を休めているような感覚になる。羽根があるなんて、私、もしかすると天使なのかもしれない。自意識と体が切り離れていて、生きてるのか死んでるのか分からない。都合よく無害で、誰の地雷も踏まない、少し周囲から浮いた存在。たぶん、重力のせいではない。普通じゃない。人間じゃない。だから、いいように天使と呼んでおく。


 天使のくせに、空から皆を見下ろすことはない。いつもちょっと見上げている。生き延びるために、というほどでもないが、それなりに穏やかに暮らすために知っておくべきことがある。人間は、自分より少し下の人間にやけに親切だということ。自分よりかなり上だと劣等感から敵意が生まれ、少し上でも妙に癪に触る。横に並ばれれば、蹴落としてやろうという悪意が透ける。かといって、あまりに下だと冷遇される。ほらね、ベストはほんの少し下。みんなが安心して優しくできる、ちょうどいいポジション。だから私は、わざわざ、そこに立つ。ちょっとくらい優位性を見せつけても怒られない。むしろ「すごいね!」って褒めてくれる。言うことにだって、絶対に逆らわない。そんな便利な人、みんな大好きに決まっている。むしろ、こんなに都合のいい人間は、もっと増えてほしいと思う。


癒して、笑って、笑わせて。めいっぱい気持ち良くなれるよう、私は道化を演じてあげている。演じてあげている、だなんて傲慢な言い方だ、と思うだろうか。プライドがなさそうな顔をしておきながら、実は高層ビルより高い。成層圏を突き抜けている。お恥ずかしい限り。無害そうな私のフィルムを剥がしたら、中身はこんなにも醜い。そんな自尊心を持て余して、こっそり土に埋める。腐らせて、肥料にして、他人に咲かせる花のために使っている。そういう自己犠牲の精神、美徳と言えば美徳だが、要は自分がない。


 私は性格が悪いのだと思う。笑顔でうなずきながら、内心では「それ、お前が悪いよ」とか思っている。でも、異論を口にすれば、空気が凍る。ぶぶー、不正解。正しいのは「それな!」という合いの手。それ以外は全部異端。相手が何を求めていて、どんな言葉を欲してるのか、わたしに何を期待してるのか、わたしにどんな顔を向けてほしいのか。細かく分析して、脳みそをこねくり回して、最適解をひねり出す。


不正解なら、嫌悪と孤独が波のように押し寄せる。私は落第生となり、通知表は破かれて、名前の欄は修正液で塗りつぶされる。居場所も権利も奪われ、誰からも見捨てられる。おぞましい罰だ。だから、彼女に向ける顔、彼に向ける顔、親に向ける顔、あの人に向ける顔、別々にファイリングしてある。けれど、もう管理が追いつかない。乱立するフォルダの海、整理など到底無理だ。全部ゴミ箱に放り込んでしまいたい。デスクトップは崩壊寸前。ああ、パスワード忘れた。  


 だから、「なんでもいいよ」。正解を言う自信がないときの、最終兵器。なのに、あの人はどこか、怒りとも悲しみともつかない、複雑な顔をしていた。あれ、おかしいな。これはいつも通りの正解だったはずなのに。


「君の好きなようにしていいんだよ」


そんなことを言われても、正直困る。だいたい、自分がなにを考えているのかすら、曖昧なのだから。“好き”って、何だろう。どうやって選択しているのだろう。どうして、こんなに難しいんだろう。間違うことが、何より怖い。その恐怖が、選ぶという行為をますます遠ざける。


 人が好いてくれるなら、私も好きでいられる。けれどよくよく見れば、私なんて好きでも何でもなくて、ただの快楽装置として使われているだけだったりする。だから、そんなに熱量を込めて「好き」と言えない。誰かがすっと目の前から消えても、不思議に思うくらいで、特に何も感じない。それもこれも、私がせっせとサービスを用意して、笑顔で手招きして、自分でそう仕向けただけのこと。お手本のような自業自得。教科書に載せてほしいくらいだ。しゃがんで待っているくせに、踏まれると文句が出る。対等になりたいと思いながら、隣に立つ勇気はない。だから地べたに座って、つま先を拝んでいる。心の中で、祈りとも嘆きともつかない声をあげながら。それなのに「なんでこんなふうに扱われるんだ」と傷ついている。


めんどくさい生き物だな、人間って。いや、私って。


でも、あの人のことだけは、ちゃんと好き。いや、大好き。好かれているから好き、そんな単純な理由じゃない。ただ、会いたくてたまらなくなる。声を聞くだけで、ふっと息が軽くなって、心がほどけていく。だから、そばにいたい。できるだけ、長く。いなくならないで、どうか。見捨てないで、どうか。できることなら、ずっと隣にいてほしい。それが叶うなら、他のことは全部、どうでもいい思った。これは、私の欲望。誰のためでもなくて、ちゃんと私のもの。言い訳のいらない、紛れもない、私自身の欲望。それだけは、胸を張って言える。でも、それ以外は、やっぱり、分からないままだった。


「人生一度きり。自分のために生きましょう」


よく聞く言葉。でも、まったくピンと来ない。私は、自分が嫌いだ。嫌われた自分なんて、もっと嫌いだ。誰かに好かれているときだけ、かろうじて、まだマシ。だから、他人のために生きてる。いや、違う。ただの条件付き自己愛。他人経由のセルフケア。要するに、自分ひとりじゃ、自分を愛せない。だから、誰かに「あなた素敵ですね」って言ってもらって、ようやく、少しだけ安心する。そういう仕組みだ。それにしても、疲れている。自分のために、自分をすり減らすって、どういう構図なんだろう。もしかして、これはただのマゾヒズムですか。ああ、馬鹿らしい。どうしたら、抜け出せるんですか。出口のドアノブがどこにも見当たりません。


 みんな、自分のやりたいことを、ちゃんと選んで生きているらしい。うらやましい。私は、やっぱりうまくできない。「やれ」と言ってくれたらやるのに。命令してくれたら、従うのに。考えるのが億劫なのか、自分の意志が薄いのか、たぶんその両方。そのくせ自由を奪われるのは嫌なのだから、始末に負えない。  


「食べたいものくらい、あるでしょう」


 あの人がじっと私の目を見つめるので、しぶしぶ考えてみることにした。けれど、頭の中は真っ白。沈黙の奥からじわじわと、不正解の予感が忍び寄ってくる。ああ、まただ。どうやら私は、自分のために労力を使うのが壊滅的に下手らしい。今さらの再確認。そんな中、ふっと、「嫌」という言葉が頭の隅にぽつんと現れた。パスタは嫌。和食もちょっと違う。そうやって、「嫌」から順に消去していったら、なにかが見えてきそうな気がする。


「嫌」は、私にとっては刃物だ。心の中では日常的に振り回してるくせに、口に出した瞬間、全身に罪悪感が走る。拒絶は暴力である。凶器だ。そもそも、凶器を人に向けるなんて、どう考えても犯罪でしょう。だから私は、拒絶できない。されたくないから、できない。でも今回は、ただの食事の話。食べ物の前で刃物を出したなら、それはもうただの包丁じゃないか。調理器具。平和的用途。無罪判決。そう思って、「嫌」を、そっと口に出してみた。あの人は、うん、うん、と頷いてくれた。なぜか、少し嬉しそうだった。その顔を見て、ようやく、ふと浮かんだ。


「あ、餃子食べたい」


あの人は、「いいね」と言った。くしゃっとした、可愛い笑顔を浮かべて。そして、まるで何もかもが当然だと言わんばかりに、私の手を引いた。


そっか、こんなことでよかったのか。


必死に考えて、取り繕って、演じて、ようやく掴む――それが「正解」だと信じていた。けれど、この人は、あまりにもあっけなく、こんな私に報酬をくれた。点数も、判別も、条件もなく、当たり前のように受け入れてくれた。何もかも剥ぎ取った素のままの私を。少し拍子抜けした。だけど、嬉しかった。ほんとうに、嬉しかったのだ。


 自分のために生きる、なんてことは、やっぱりまだよくわからない。もしかすると、一生わからないままかもしれない。でも、もしかすると、少しくらいは、わかっていいのかもしれない。私たちは、近くの中華料理店に向かった。脂っこい匂いが今日はいつもより少し、やさしく感じられた。お腹が、ぐうと鳴った。


……ああ、これが「生きている」ということなのかもしれない。あるいは、ただの空腹。


まあ、どっちでも、いいか。

餃子はうまいし。

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