第19話 事務屋と図書館①
オリーブ油と岩塩を肌に塗り込み、丁寧にこすると、快い感覚に自然と口元が緩む。
隣ではチタルナル監督官が、白い肌をさらして、同じように寛いでいる。さらにその向こうでは、ロンギヌスが、張り出たお腹を揺らしながら、満足そうに鼻唄を鳴らしている。
チタルナル監督官が薦めるこの公衆浴場は、やはり素晴らしい。相変わらずガラス窓や彫刻はどれも美しいし、浴槽には温かな湯がたっぷりと張られている。
何より体洗いの者の腕が良い。
油と塩を綺麗に流すと、三人で浴槽に入る。新鮮で温かな湯に迎えられると、この上ない満足感に包まれる。
「先ほどの議会対応は、さすがだったな。ひとまずは竜討伐に一歩前進と言うところか」
チタルナル監督官の言葉に、曖昧に頷いた。
「やはり町に根が無い徴税官ごときでは、言葉に重みが足りないようです。監督官の保証の言葉もあって何とか……というところでした」
「いや、ジムクロウ将軍の保証があれば、私の言葉など飾り程度だ。急な呼び出しだったのに、よく準備できていたな」
「徴税官という権威も無い下級官吏であり、人的繋がりにも乏しいという点は、私の最大の弱みですからね。いざという時のために、持っておきました。それにしても、議会が招集されるのであれば、チタルナル監督官から事前に連絡を貰えるものと思っていましたよ。竜征官のオーギュストと言う方についても、事前の情報がありませんでしたしね」
軽く苦言を放り投げると、チタルナル監督官は申し訳なさそうに肩をすくめた。
「申し訳ない。議会の招集も竜征官の人選も、今朝知ったのだ。私だけではない、貴族議会の全員がそうだ」
この言葉に、ロンギヌスも深く頷く。
「そうですな。実は、昨日から貴族議会議員のうち、団体を代表するような者には根回しが始まっていたようではあるのですが、人選や議会日程などの詳細までは……。私も武具商組合を代表する身ですので、昨日はベルチ執政官に呼び出されておりましたよ。丁度、監督官とお会いした時ですな」
「では、その時にロンギヌスさんへは、詳しい話は無かったのですか?」
「ええ。近いうちに竜討伐の議案を上程するために議会を招集するので、賛成してほしいというような内容で。私は、もともとベルチ執政官の派閥ですし、竜退治は喫緊の課題ですからな。否はありませんでしたよ」
「その程度の根回しで票固めを出来るという事は、ベルチ執政官の影響力はかなりのものなのですね」
私の言葉に、今度はチタルナル監督官が頷いた。
「トナリ市は商人の町であり、商人のほとんどはベルチ執政官の派閥だ。貴族議会の半数近くはベルチ執政官の強い影響下にあると言える。そして、残りを私とクコロ財務官で分け合っている状態だ。私は軍人や剣闘士、農業者の意見の取りまとめをすることが多い。クコロ財務官は、官吏や神殿関係者を麾下に収めている」
「二人とも若いのに、大きな影響力を有しているのですね。さすが監督官に財務官です」
「彼女もチタルナル監督官も、トナリの名を冠する家でございますからな」
ロンギヌスの言葉に、なるほどと腑に落ちる。監督官の名前は、チタルナル・ナゴムブレス・トナリだったはずだ。
都市と同じトナリという言葉が名前に含まれているという事は、都市の創始者やそれに類する程度には歴史と伝統を持つ家系なのだろう。もしかすると、ロムレス王国が拡大する際に吸収された、かつてこの地にあった国の王族の末裔かもしれない。
「私の祖先は大昔にはこの辺りを治めていたらしいが、今の老人たちが生まれてもいないくらい昔のことだ。もはや関係ないだろう。クコロ財務官も、生まれを誇ることはあっても、鼻にかけることはしていない。冷静に目の前の政策を批評するだけだ」
「なるほど。確実に竜を退治できる提案さえできれば、クコロ財務官への対処は問題なさそうですが……オーギュスト竜征官とはどのような方ですか?」
私の問いに、チタルナル監督官が複雑な心境を表すかのように眉を曲げる。
「評価が分かれる人物と言えるな。昔は執政官などを輩出した家柄だったが、今は酒屋や娼館の経営をする程度の商家だ。オーギュストは、その現当主で、大酒飲みで大言壮語を好み、度々借金をするくらいには金遣いが荒い。先ほども竜を退治したことがあるだの、幻獣討伐に慣れているだのと虚言を並べていただろう。だが顔が広い上に、人気取りが上手い。はっきり言って、この竜征官の人選がどう転ぶかは分からない」
「何とも判断が難しそうな方ですね。議会では、分からないところは私に任せるという知恵を見せながらも、勝手に五日以内の討伐を約束していました。私の印象としては、全てを緩く考え、面倒ごとは配下に任せる経営者気質の人物というところですね」
私の評に、ロンギヌスが笑顔で手を打つ。
「まさに、そのとおりの人物ですな。決闘まがいの喧嘩をしたり、借金してまで若い女性の奴隷を買い漁ったりしたうえに、恥ずかしげもなくそれを公言するようなご老人でしてね。その他にも自分勝手な振る舞いが多いので困りものなのです。けれど懐が広いですし、情に厚い面もありましてな。祭りの時には振る舞い酒をしたり、貧しくて家族の葬式を出せぬものに金を融通してやったりすることもあるんですよ」
「なるほど、人によって好き嫌いが分かれそうな人物ですね」
私が他愛もない相槌を打っていると、新たに浴場に入ってきた人物が、こちらへ近づいてきた。
長い白髪を後ろへすき上げた老人だ。
「やあやあ、監督官殿に武具商組合長殿、こんなところで奇遇ではないか。それに我が右腕たるシム・ローク補佐官よ」
白々しい台詞と共に、全裸のオーギュストが満面の笑みで浴槽の脇に立った。
お腹のあたりにたるみが見えるものの、年の割には引き締まった筋肉質な体だ。戦争の経験か、いくつかの古傷もある。
「この浴場で会うのは初めてだな、オーギュスト。よく来るのか?」
チタルナル監督官が、胡乱気な目で尋ねる。
「いや、あまり来ないな。吾輩の行きつけは、中央広場近くの浴場だな。あそこは美味い葡萄酒が出る上に浴室内でサイコロ賭博もできる。ここへは、君たちの後を付けて来たまでのことよ」
オーギュストは、笑顔で屈託なく白状すると、ざぶりと浴槽に身を沈めた。対照的に、チタルナル監督官は無表情になり、ロンギヌスは商売用の無感情の笑顔を作っている。
「本音を言うとだな、吾輩は君と腹を割って話をしようと思い、ここに来たのだよ。何せ、余裕が無いのが今の我々の現状なのだ。それは分かっているか、我が右腕よ?」
ぐいぐいと近づいてくるオーギュストに、「はあ」などと気のない返事を返してしまうが、彼は気にした様子も無く肩が触れんばかりの近さで語り続ける。
「いいかね、我が腹心の側近たるシム君。我らがトナリ市貴族議会は、残念ながら一枚岩とは言い難い。竜を討伐しこの地に平穏をもたらそうという我らの高尚な行いすらも、政争の具にされようとしている。クコロ財務官をはじめ、生真面目が過ぎる者たちの蒙を啓いてやるためにも、今一つ材料が欲しいところだ」
「はあ」
「そこでだ。竜征官としてシム補佐官に命じる。予算の確保を迅速に行うためにも、議会を納得させる術を考えてくれたまえ。寄付が集まりそうではあるが、トナリ市予算からもなるべく多く融通してもらいたいものだからな。金があって困ることはあるまいて」
「はあ」
「ああ、報告は明日の早朝で良い。急がずともよいぞ」
「……そうですか、ありがとうございます」
既に昼を過ぎている。
夜を徹してでも今日中に整えよという命令であることに気付いているのだろうか。彼のことはよく知らないが、何の考えも無しに言っている気がする。だが、五日で竜を退治するとなれば、時間が無いのは事実である。
ここは急いでおくに越したことはない。
「大丈夫なのか?」
心なしかチタルナル監督官の声に、憐れみがにじんでいる気がする。いや、労いの情であると信じることにしよう。
「ええ、問題はありません。監督官は引き続き兵の人選と土木技術者の手配をお願いします。早ければ早いほどありがたいです」
「わかった、準備を急ぐ。明日には召集できるよう手配してみよう」
「お願いします」
チタルナル監督官としても、急な予定の変更のはずだ。お手並みを拝見させてもらうとしよう。
「では私は早速仕事に取り掛かります」
私が立ち上がると、オーギュストがじっとこちらを見つめてくる。
「シム君、なかなか美しい太ももとふくらはぎをしているな。君はまだ若いし、経験の乏しいところがあるだろう。吾輩が色々と指導して差し上げようと思うのだが……」
「いえ結構」
急いで浴槽から上がった。
竜征官の食指が動く範囲は、若い女性だけでは無いようだ。
「あ、シムさん。今日からタンヤの工房に資材などを運び込んでいます。後で確認をお願いしますよ」
背中でロンギヌス氏の声を聴きながら、急いで公衆浴場を出た。
そうして向かったのは、ジョセフィーヌの居宅だ。
街を東西に走る大きな通りを進むと、庭付きの大きな邸宅が見えてくる。建材の一つ一つが吟味されている、美しい二階建ての豪邸だ。
その前庭には、人が集まっていた。
若者や老人など十人以上が輪を作っており、その中心にはジョセフィーヌが座っている。
一歩離れて様子を伺ってみると、どうやらジョセフィーヌが市民たちの相談に乗っているようだ。
タチの悪い金貸しに追い回されて困っているという老人には、「乱暴されそうになったら
友人を亡くして悲しいという若者には、「目一杯悲しみなさいな。そんなに悲しんでもらえるなら、亡くなった友達も報われるんじゃないかしら。お友達とお酒でも飲んで美味しいものを食べに行きましょう。悲しむあなたに付き合ってくれる人なら、きっと良い友人になってくれるわ」などと助言している。
竜が現れたせいで仕事を失ったという男へは、「私が必ず討伐しますわ。安心していらして」と笑顔で約束している。
相談者を安心させるためか、常に笑顔で愛想が良い。意外な一面を見た気がする。
その場にいる全員と話しを終えると、私を見て「何か用かしら?」とつまらなそうに言った。
先ほどまでと違い、ぶっきら棒な物言いだ。
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