【1話完結短編】「重たい系ヒロインとの日常が、なぜか崩壊していく件」〜好きになった人が、ちょっとだけおかしかった〜
雪華将軍_設定厨
恋しちゃうんだ。
「ねぇレンジくん、これ、また作ってきちゃった……♡」
放課後の教室。物常琴奈(ものつね ことな)は、机の引き出しから包みを取り出すと、少し恥ずかしそうに差し出してきた。
白いレースの包みに猫柄のピックが添えられた手作り弁当。開ける前から、甘い卵焼きの香りがふわりと立ち昇った。
「マジ? やっば、俺今日パンすら買い忘れてて、どうしようかと……!」
「ふふ、よかった。……ちゃんと“気配”感じたから」
「気配…」
「だって、レンジくん、今日も朝ごはん抜いてたでしょ。口の端に乾いた歯磨き粉ついてたもん」
「えっなにその観察力…」
思わず笑ってしまう。琴奈は口元を手で隠しながら、にっこりと微笑んだ。
「私ね、レンジくんのこと、すごく見てるから」
──冗談めかしたその一言が、ふと背中をぞくりとさせたのは、たぶん気のせいだ。
○○○○○○○○○○
物常琴奈は、ちょっと『有名』な子だった。
成績優秀で、容姿端麗。誰にでも丁寧で、優しくて。
でも、近づきすぎた人は──なぜか、みんな距離を取るようになる。
同じ中学だった男子…彼は彼女についてこんなことを言っていた。
「あいつ、ずっと誰かを見てるっていうか……なんか、目が怖ぇんだよな」
僕はそれを、少しだけ面白がっていた。
だって僕にとっては、琴奈はただの「
いや、正確には──僕のことをすごく気にかけてくれる、女の子かな?
⸻
「ねぇレンジくん」
昼休み、弁当を広げながらレンジにそっと近付き、琴奈が言う。
「最近、あんまり誰とも喋らないよね」
「そーかな?」
「……うん。なんか、みんな避けてるみたい」
「んー……少し早い期末テストにピリピリしてるとか?」
「ふふ、じゃあ大丈夫だね。私がいるから」
「そーいう問題?」
「うん、そーいう問題」
笑いながら返すと琴奈の表情が少しだけ、
曇った。
「……でも、女の子と話すのは、控えてほしいな」
「えっ、急にどうしたの」
「だって……この間の隣のクラスの子。レンジくんと話してたじゃない。名前、なんだっけ……『ふ・じ・い』……?」
「藤井さん? あはは、あれはノート借りてただけで──」
「へぇ……そうなんだ」
そのときの琴奈の声は、静かすぎてよく聞こえなかった。
だけど、目だけは、まっすぐ僕を見ていた。まるで、試すように。
「あはは…はは」
「ふふふ…」
○○○○○○○○○○
数日後、藤井さんは学校に来なくなった。
風邪をこじらせたとか、家庭の事情とか、理由はいろいろ噂されたけど──真相は、誰も知らない。
僕は何気なく琴奈に聞いてみた。
「ねぇ、藤井さん、最近見ないね」
「……そうだね。会わないね」
「何か知ってる?」
「さぁ。……でも誰も見てなかったら、居なくなったことにすら気づかれないね」
それは、興味なさげな独り言のようにして囁かれた。
○○○○○○○○○○
ある日の帰り道、僕の下駄箱に一枚のメモが入っていた。
『御島くん、ちょっと話したいことがあるの。放課後、屋上に来てください』
…差出人の名前はなかったけれど、筆跡でわかった。
たぶん、藤井さんじゃないかと思う。
だけど──彼女はもう、学校に来ていない。
じゃあ、誰が? 何のために?
屋上に行くと、鍵がかかっていた。
○○○○○○○○○○
「まったく…レンジくん、私に内緒でどこ行ってたの?」
教室に戻ると、琴奈が窓際でこちらを見ていた。
笑っていた。でもその笑顔は、なぜか寒気がするくらい『笑顔』の形をしていた。
「ううん、なんでもない」
「そっか……良かった」
○○○○○○○○○○
「ねぇレンジくん、明日もお弁当持ってくるね」
「お、助かるー」
「うん。だから──」
言いかけて、琴奈は少しだけ口元を引き結んだ。
その後に続いた言葉は、風に消えた。
「……誰とも、話さないでね?」
○○○○○○○○○○
昼休み——。
僕が席を立って購買へ向かおうとすると、琴奈がすっと立ち上がった。
「レンジくん、どこ行くの?」
「あ、ちょっとパンの一つでも買ってこようかと」
「……え、でも、お弁当は?」
「あーごめん、今日は用事で朝もらえなかったじゃん?」
琴奈は一瞬、ぱちりと瞬きをしたあと、唇をきゅっと噛んだ。
細い指をきゅぅ…と手のひらに握り込んで、俯き気味にこちらを見つめる瞳は、僕を真っ直ぐ貫いていた。
「……そうなんだ。じゃあ、私が買ってくる」
「——え、大丈夫だよ。自分で」
「だめ。私が、行く」
語気が、少しだけ強くなった。
教室がざわつく…数人のクラスメイトが、ちらりとこちらを見た。
教室中に、琴奈の低い声がイヤに響いたからだ。
「え、ええと……」
僕が戸惑っていると、琴奈は僕の腕を取って、ぐいぐいと引き寄せるように言った。
「誰かに話しかけられたら…嫌だ。……だ…から、私が行くの…!」
その声音は笑っているようでいて…、目だけは笑っていなかった。
クラスの空気が、ぴたりと静まる。
廊下にいた女子が、ひそひそと何かを囁いているのを僕の耳がしっかりと拾い上げた。
「また物常さんじゃん……」「え、ちょっと怖くない?」
琴奈は、まるで聞こえていないように、僕の袖をぎゅっと握りしめている。
文字通り血相を変えたんだろうな、ジンワリと感じる冷や汗もあって手が、冷たい。
○○○○○○○○○○
僕はなるべく穏やかな口調で言った。
「琴奈大丈夫。僕はちゃんと自分で買えるよ。……ね?」
琴奈は、少しだけ眉をひそめた。
でも次の瞬間、何かをぐっと呑み込んだようにぎゅっ…と強く握ってから、そっと手を離した。
「……そっか…うん、ごめんね」
「気にしないで」
そう言って、僕は笑った。
でも──クラスの誰もが、視線を逸らした。
○○○○○○○○○○
廊下を歩きながら、ふと後ろを振り返った。
教室の窓際、琴奈がじっとこちらを見ていた。
遠くて表情は見えなかったけれど、たぶん……笑っていた。
ずっと、ずぅ…と笑っていた。
○○○○○○○○○○
その日の放課後。
僕の机の中にまたあのメモが入っていた。
『あの子がまだいるのはおかしいと思う。御島くん、気をつけて。』
また、差出人不明。
達筆で、どこか…そうどこか古風な文字だった。
まるで、大人の手紙みたいな──そんな違和感のある筆跡—。
○○○○○○○○○○
僕はそっと紙を折りたたみ、カバンの奥にしまった。そして、何も言わずに席を立つ。
それと同時にすぐ後ろで、琴奈の椅子が音を立てて引かれた。
「ねぇレンジくん。今日、寄り道……しない?」
その声音には、少しだけ、期待と不安が滲んでいた。
僕は、優しく微笑んだ。
「……ごめん。今日は、寄るとこあるんだ」
「そっか……」
琴奈は「こくり」とうなずき、納得してくれたようだった、だけど当たり前の様にしばらく僕の後ろを歩き続けた。
まるで、何かを確かめるように。
○○○○○○○○○○
場面は再び放課後——。
放課後の教室には、誰もいなかった。
僕は一人、席に座ったまま、静かにノートの隅を指でなぞっていた。
琴奈がいない時間は、ほんのわずかしかない。
でも、なぜかこの日は、帰りが遅れていた。
「……静かだな」
その呟きが、自分でも意外なくらい、空虚に聞こえた。
たった数時間前まで、あんなに賑やかだったのに。
みんな、まるで何かを避けるように僕を残して帰っていった。
いや…いや──違うな。琴奈を、か。
僕はノートの縁を「ツーーーッ…」と指で鳴らした。
○○○○○○○○○○
机の端に置いてある、筆箱。
そのチャックのつまむ部分に、小さなストラップがついていた。
それは前に琴奈がくれたものだ、どこで買ったのか分からない、白い猫と狐のキーホルダー。
「……そういえばこれ、まだ付けてるんだった」
思わず笑った。
外す理由がなかったし──なにより、『もらったものは絶対に大切にする主義』なんだ、僕はね。
○○○○○○○○○○
ガラッ、と扉が開いた音。
「……あっ、いた。よかった」
琴奈が顔を覗かせた。小走りに近づいてくるその足音は、軽やかで、どこか小動物みたいだ。
「ごめんね、遅くなっちゃった」
「ううん、大丈夫。ちょっとぼーっとしてただけだし」
琴奈は息を切らしながら、僕の前に立ち止まり、くすっと笑った。
「……ねえ、なんで今日、私を避けたの?」
「あはは、避けてないよ?」
「うそ、もう…」
少し膨れた顔。でも、怒ってはいない。
琴奈はそれ以上は追及せず、空いた隣の席にちょこんと座った。
すぐそばに、僕たちの身体の距離はまるでなかった。
——
僕はノートの隅に描いていた、ネコの落書きを隠す様に…そっと閉じた。
ふと、琴奈の指先が僕の手の甲に触れる。
「レンジくんってさ、すごく優しいよね」
「そうかな?」
「……でも、その優しさ、全部私だけに向けてくれてたら、もっと嬉しいのに」
その言葉に少しだけ、胸がチクりとした。
でも僕は笑って答える。
「じゃあ、これから気をつけるよ」
——
琴奈は驚いたように目を見開いて、それから今までの陰気な雰囲気とは変わり、たんぽぽの花が咲く様にふわっと笑った。
「……ほんとに? うれしい」
そう言って、少しだけ僕にもたれかかってくる。
彼女の体が、ぴたりと僕の腕に沿う…体温を感じるほどに密着した僕は、自然と緩く彼女の体を抱く。
「私ずっと思ってたんだ。レンジくんが他の女の子と話してるの見るの…ほんと、すごく嫌だったって」
「……そっか」
「でも、ね…レンジくんって優しいから、誰にでも笑っちゃうし。ほらわたし以外の誰かに、笑ってほしくないって思ってた」
「……それは、琴奈のわがまま?」
「んん…それくらい、好きってこと」
———
教室の外では、風が吹いていた。窓がカタカタと揺れる。
日が落ちるのが早くなったこの季節…電灯を落とした教室はすっかり薄暗くなっている。
琴奈の目はこの薄暗がりの中でも、じっと僕を見ていた。
吸い込まれるような、真っ直ぐすぎる視線。
「……レンジくん。誰かが、また“あのこと”に触れてきたら、私、どうしたらいいかな?」
「あのこと?」
「……前の、あの子のこと。今は、もう誰も何も言わないけど──」
「大丈夫だよ、琴奈は何も悪くない」
僕は、すぐにそう言った。
自分でも驚くほど、間髪なく。
琴奈は安心したように笑ったけど、ほんの一瞬、目を伏せた。
⸻
その時、誰かが廊下を通りすぎる音がした。
琴奈がぴくっと反応して、僕の腕をきゅっと掴む。
「……レンジくん。帰ろ?」
「うん、そうだね」
僕は立ち上がり、カバンを肩にかけた。
そして琴奈の手をそっと取って、教室を出る。
歩くたびに、彼女の手のひらが微かに震えているのが分かる。
怖がっているようで、でもどこか──嬉しそうでもあった。
⸻
校門を出ると、いつものように、夕暮れの町が広がっていた。
でも、どこか、何かが欠けているような──そんな、変な空白。
家路を歩くその途中、琴奈がぽつりと言った。
「ねえ、レンジくん。わたし、ほんとにレンジくんと一緒で、よかった」
「うん。俺もそう思ってるよ」
それは、嘘じゃなかった。
たぶん本心だった。
……たぶん。
次の休み時間、琴奈はまたしても僕の席の横にぴたりと立っていた。
今度は笑っていない。むしろ、顔色が悪い。視線は定まらず、どこか落ち着きなく辺りを見回していた。
「レンジくん、あの女の子……誰?」
その一言に、クラスの空気がぴしりと硬くなった。
僕の後ろで話していたクラスメイトたちも、急にお喋りをやめる。
「……女の子? 誰のこと?」
「さっき、廊下で一緒にいた……前の席の……」
「ああ、春野さん? ちょっと忘れ物届けてもらってただけだよ」
「ふーん……」
琴奈は口を引きつらせるように笑った。
その表情が、なぜか見てはいけないもののように思えた。
「……だって、その子、ずっとレンジくんのこと見てたよ」
「そ、そうかな?」
「うん。……私、ああいう子、好きじゃないの」
その場にいたクラスメイトの何人かが、さりげなく距離を取る。
教室の隅で、誰かがヒソヒソと何かを言った。「また琴奈ちゃん、始まった……」というような雰囲気が広がる。
僕はわざと明るく笑った。
「大丈夫だよ、琴奈。気にしすぎだって。俺は、そんなことで揺れたりしないからさ」
「……ほんと?」
「もちろん」
琴奈は、それでも不安げな顔をしたまま、僕の袖を掴んでいた。
⸻
その日の放課後、下駄箱の前で、春野さんが何かを探していた。
僕が声をかける前に、琴奈が先に彼女の前に立っていた。
「……それ、探し物?」
「えっ……あっ、琴奈さん……うん、靴の中に入れてたメモ帳がなくなってて……」
「そっかぁ。でも、私もよくあるんだよね。忘れ物って」
「……え、うん、そうなんだ」
春野さんは戸惑ったように微笑み、琴奈と目を合わせずに立ち去った。
その背中を、琴奈は無表情で見送っていた。
僕は見ていた。
琴奈の手の中に、小さなピンク色のメモ帳が握られているのを。
⸻
翌日、春野さんは学校を欠席した。
誰かが「風邪らしいよ」と言ったが、誰も確かめようとしなかった。
琴奈は、僕の席の横で、昨日と同じように立っていた。
「……春野さん、来てないね」
「……うん、風邪だって」
「そっか。よかった」
「よかった……?」
「ううん、なんでもない」
琴奈はそっと笑った。その笑顔は、まるで安堵と快楽が混じったような、不思議な笑みだった。
⸻
その日の昼休み、琴奈はお弁当を持って僕の机に来た。
彼女の手作り弁当はいつも完璧で、彩りも味も申し分ない。
「はい、あーん」
「え、ここで……?」
「いいじゃない、誰も見てないし」
いやいや、むしろ誰もが見ていた。
周囲の視線を浴びながら、僕は琴奈の差し出す卵焼きを口に運んだ。
「……うん、美味しいよ」
「よかった……。レンジくんのために、昨日の夜ずっと練習してたんだ」
「へ、へぇ……」
「失敗した卵、三つくらい無駄にしちゃって……でもね、切ってるときに気づいたの。ああ、私、誰かのために包丁使うのって、初めてかもって」
クラスの誰かが、スプーンを落とした音が響いた。
静寂の中で、琴奈の言葉だけが浮いていた。
⸻
掃除の時間、僕と琴奈は図書室の窓を拭いていた。
窓の外には、校舎裏の荒れ地が広がっていた。
「ふふふ…ねぇ、レンジくん。あの裏庭って、夜になると誰も通らないんだって」
「へぇ、なんで?」
「知らない。でも、先週くらいから“変な音”がするとか、“土のにおいが変”だって……」
「……怖い話だねぇ」
「ね、でも大丈夫…レンジくんがいれば、私は、怖くないから」
琴奈は、にこりと笑って僕を見つめた。
窓ガラスに反射するその笑顔は、まるで鏡の裏にいる誰かみたいだった。
———
帰り道。琴奈がぽつりと言った。
「私ね、好きな人のことなら、全部知っていたいの」
「うん、わかるよ」
「どこで誰と話して、何を考えてて……何を、隠してるのか」
僕は笑った。
それが冗談かどうか、分からないふりをして。
———
週明けの月曜日、春野さんは教室に戻ってきた。
ただ…彼女の表情は以前と違い、どこか怯えていた。誰とも話さず、終始ノートを睨むように伏し目がちだ。
琴奈は、そんな彼女を一切見なかった。
まるで、存在しないかのように。
「春野さん……元気そうでよかったね」
僕がそう声をかけると、琴奈はぴくりと眉を動かした。
その反応を見て、僕は少し肩を竦めた。
──たぶん、こういう時は、触れない方がよかったんだろう。
でも、僕は言ってしまった。わざとじゃない。ただ、自然に、そうなっただけ。
琴奈は笑った。唇の端を少しだけ上げて。
その笑顔に、何故だか春野さんは目を逸らした。
⸻
その日の放課後、琴奈が言った。
「ねぇ、レンジくん。帰り道、ちょっと寄り道しない?」
「寄り道? どこへ?」
「裏庭……」
あの、誰も通らないと噂の、校舎の裏庭。
最近は雑草が伸び放題で、日が暮れると街灯も届かない。そんな場所へ、どうして琴奈は僕を誘うのだろう。
「……何かあるの?」
「ううん。ただ、ちょっと見せたいものがあって」
僕は少し笑って、頷いた。
「わかった。じゃあ行こうか」
琴奈は嬉しそうに微笑んだ。その手を、そっと僕の腕に絡ませる。
⸻
裏庭は、想像以上に静かだった。夕焼けが建物の陰になって、足元すら怪しくなる。
「ここ、ほんとに誰も来ないんだね」
「うん。だから安心して話せるかなって思って」
琴奈はそう言いながら、ぽつりと続けた。
「……レンジくんのこと、好きになったのは、ずっと前」
「うん、聞いたよ」
「でもね、誰かに取られるくらいなら、最初から……好きにならなきゃよかったのかもって、思ったこともあった」
「……誰も取らないよ、琴奈のこと」
「……ちがう。取られるのは、私のほうじゃなくて……レンジくん、だよ」
その声はどこか、怯えと苛立ちの混じった、曇りガラスのような響きだった。
僕は少しだけ肩を震わせて、それから静かに言った。
「僕は逃げないよ」
琴奈がこちらを見る。驚いたような、それでいて深く安心したような顔だった。
「……ほんとに?」
「ほんとさ」
僕はにっこりと笑ってみせた。
その瞬間、琴奈の瞳がすっと揺れた。まるで、安心と不安がせめぎ合っているように。
⸻
次の日、教室に春野さんの姿はなかった。
理由は伝えられず、担任も何も言わなかった。生徒たちは気づかないふりをしていた。
琴奈は、朝から妙に機嫌がよかった。
「おはよう」の声も弾んでいて、笑顔の数も多い。まるで何か、大きな不安から解放されたように。
「ねぇ、レンジくん。今日、部活のあと、ちょっと……話したいことがあるの」
「うん、いいよ。いつもの場所?」
「うん、……屋上で待ってるね」
⸻
放課後、僕が屋上に行くと、琴奈はフェンスにもたれて空を見上げていた。
「お疲れ様」
「ううん、レンジくんのほうこそ」
しばらく沈黙が続く。風が強くて、琴奈の髪が揺れている。
僕はふと、琴奈の手元にある何かに目が留まった。細長く折られた、白い紙。
「それ、なに?」
「……メモだよ。春野さんの、落し物」
「ふぅん……見つかったんだ」
琴奈は、それに答えず、紙をくしゃりと握った。
それから、ぽつりとつぶやいた。
「レンジくんって、優しいね。誰にでも、そうなの?」
「どうかなぁ。琴奈には、特別かも」
僕がそう言うと、琴奈は肩を震わせた。
──風のせいかと思った。
でも違った。
震える肩に、唇を押し当てるようにして、琴奈は静かに言った。
「……嘘だったら、殺すからね」
笑っているのか泣いているのか、僕にはわからなかった。
ただ、僕は何も言わずに、空を見上げて笑った。
———
次の日。春野さんは、転校した。
理由は知らされず、先生も何も説明しなかった。
机はそのまま。ノートもプリントも残されていた。けれど、彼女だけが、ぽっかりといなくなっていた。
琴奈は言った。
「ねぇ、レンジくん。私、もう怖くないよ」
「どうして?」
「だって、私のことだけ見ててくれるって、信じられるから」
僕は、また笑った。
背筋をまっすぐにして、何もかも肯定するように。
———
放課後の教室。
カーテンが風に揺れて、夕焼けが斜めに差し込んでいる。
琴奈は、静かな教室を見渡していた。
「……いないね、やっぱり」
「うん今日も欠席だって」
レンジが、いつも通りの調子で答えた。
笑顔だった。
机の上の埃を指でなぞると、ゆっくり息を吐いた。
「もう、四日目……だよ?」
琴奈の声が小さく震えていた。
レンジはそんな彼女に歩み寄り、そっと頭を撫でた。
「大丈夫。みんなもすぐ立ち直れるよ」
「え……?」
「ほら、前もそうだったじゃない。三週間くらい経てば、普通になる」
琴奈の表情がこわばった。
「ねえ、レンジ……」
「ん?」
「……ほんとに、何もしてないよね?」
レンジは、少しだけ首を傾げた。
そのまま、琴奈の肩に手を置いて、目を細める。
「琴奈は、ね」
それだけを言って、ふっと微笑んだ。
しばらく沈黙があった。
扉の外を、先生たちの足音が遠ざかっていく。
———
──その日の下校時。
昇降口。
レンジは、ロッカーの扉を静かに開け、靴を履き替える。
中には、きちんと整頓された上履きが収められていた。
靴底を一度、手で払って、確認し、ほこりを、落とす。
「ねえ、帰りどこか寄る?」
琴奈が後ろから声をかける。
「うん。いつものところ、行こうか」
「ふふ、あそこの道、近道だけど暗くて怖いんだよね」
「大丈夫。琴奈が怖がらないように僕が隣にいるんだよ?」
そのまま、並んで歩き出す二人。
夕暮れの影が長く伸び、レンジは一度だけ足元を見る。
さっき靴底を払ったとき、かすかに指先についた粉塵。
制服の袖で、なにげなく拭った。
誰も見ていない。
そして、誰にも気づかれない。
———
──次の朝。
いつもより早く登校したレンジは、入った教室の空気を吸い込んだ、清々しいかの様に揚々と、自分の席に荷物を置き窓を開ける。
少し離れた窓のカーテンの裾が、まるで誰かの指先のように揺れた。
その揺れが止むまで、じっと見つめていた。
「おはよ、レンジ!」
琴奈の声で振り返る。
いつも通りの、下手で可愛い笑顔だった。
「……おはよ、琴奈」
鞄からノートを取り出しながら、レンジはゆっくりと目を細める。
「今日も、来ないかな?」
「うん。たぶん」
「そっか……ねえ、また、わたしが変なことしたって思われてるのかな?」
「ううん」
レンジは、ノートの端を丁寧に千切って丸める。
その手つきは驚くほど几帳面で、まるで指先に感情が宿っていないようだった。
「君は、ただ僕に真っ直ぐな恋をしているだけだよ」
紙くずはそのままポケットに仕舞われる。
ゴミ箱には投げない。
一度も、決して。
そして授業のチャイムが鳴った。
──レンジは、笑った。
誰よりもまっすぐな目で。
誰よりも静かに、整った姿勢で。
まるで、
“何もかも元通り”であることが、当然であるかのように。
そして、そのまま何も起きなかったかのように──
日常が続いていく。
だけど、
“いなくなった”あの子の机だけは、
今も、誰一人として近づこうとはしなかった。
──くしゃくしゃの紙屑を持った————レンジを除いて。
「あはは…好きだよ」
「?…ふふふ…レンジ、私も…」
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