ロリババア、宇宙へ行く
龍月ユイ
ロリババア、宇宙へ行く
最初は人の世の営みも物珍しく、それなりに楽しんだものだった。 遷都で沸き立つ平安京では、きらびやかな十二単の袖を真似てみたり、藤原の連中が詠むクサい恋歌をこっそり覚えては、その甘ったるさに身をよじったりもした。
だがそんなことも百年、また百年とやっていればいずれ感動の薄れてくるものだ。 源平の合戦を壇ノ浦の崖の上から見物していた頃にはもう、海の底へと沈んでいく平家の者より、岩場を横切る平家蟹の方が気になってしまい、肝心なところはあまり覚えていない。 応仁の乱では飛び交う火の粉を避けて東寺の五重塔のてっぺんで昼寝したし、信長が焼いた比叡山を肴に七輪で炙るサンマの、あの背徳的な脂の味は今でも時々思い出しては腹が鳴るのだった。
人の世の営みなど、どれもこれも一時の花火のようなもの。 どんな激しい歴史のうねりも、長命な彼女にとっては、すぐに色褪せる絵巻物に過ぎなかった。 まあ、そんな古びた記憶の断片は、もはや埃をかぶったガラクタのようなものだ。 人間は、蔵に物を仕舞う時こそ感傷的だが、しばらくすれば何をどこへ仕舞ったのかさえ気にもとめなくなるものだ。 ただ今この瞬間に広がる、どうしようもない空虚だけが、唯一リアルな手触りを持っていた。
じりじりとアスファルトを焼く蝉時雨の中、ぴこ、と頭頂部の小さな狐の耳が、風に揺れる青草の様に力なく垂れた。
VRゴーグルは、彼女にとって現実から逃れるための新しい鏡だった。 長すぎる生は、耐え難い孤独と同義だ。 人間は脆く、儚く、あっという間に年老いて死んでいく。 しかし一方で、事実としてここに不滅のものが一人いるのだから、この無限に広がる情報の海――インターネットのどこかにも、自分と同じような、時の流れから取り残された同類がいるのではないか。
そんな淡い期待を抱いて、幾度となく「不老」「長寿」と検索をかけた。 だが、返ってくるのは決まって、構って欲しがりな若者の戯言か、痛々しい虚言癖の独白ばかり。 誰も信じてはくれないし、信じられる相手も見つからない。
結局、ゴーグルの内側、鏡の向こうで理想の自分を演じるしかないのだ。 豊満な肉体を持つ美しい狐の女としてのアバターが、静寂の月面に佇んでいた。 こんな未来もあったのかもしれない、現実の自分とは似ても似つかぬ、成熟しきったその姿。 足元には細かく、きらきらと光る砂。 頭上には、漆黒の宇宙に浮かぶ、息を呑むほど美しい青いビー玉――地球。
しかし、このロマンチックな光景に、VRを始めた当初こそ息を呑むほどの感動に包まれていたが、毎日見ていればただの背景画だ。 少女がヘッドセットの電源ボタンに触れると、全ての音と光が遥か彼方へ収束し、やがて純然たる闇だけがそこに残った。
ごとり、と重たいヘッドセットを外すと、古いエアコンが唸りを上げる、生ぬるい空気が肌にまとわりつく。 シンクに溜まった汚水のような現実がどっと眼に流れ込み、その不快さに思わず情けない声が漏れた。 四畳半、積み上げられた漫画雑誌の塔、コンビニ弁当の空容器、飲みかけで気の抜けたエナジードリンクの缶。 その俗っぽさ極まる混沌の真ん中で、狐の耳と尻尾をたくわえた幼い少女が、よれたキャラクターTシャツと男もののトランクスという色気のかけらもない装いから細い手足を伸ばし、さながらゴミか土くれのように転がっていた。 ちらとベランダに目をやると、今朝咲いたばかりの朝顔が、既に殺人的な暑さに萎れうなだれていた。 まるで生まれてくる時代を間違えてしまったと嘆いているように。
じっとりと粘つく汗にまみれた頭を壁に向けると、古い掛け軸が目に入る。 パソコン、ゲーム機、VRゴーグル、漫画雑誌にエナジードリンク。 部屋に散らばる現代的なガラクタの中で、ただひとつ、その掛け軸だけが異質な空気を放ち、明らかに浮いていた。
『清風明月』
黄ばんでシミの浮いた和紙に、かつては達筆であったろう墨の跡が掠れている。 あまりに長い時の中で薄れていくその文字が惜しくて、いつだったか、少女がおぼつかない手つきで上からなぞろうとした。 だが、その試みは無残に失敗し、いびつに滲んだ線が元の流麗さを覆い隠してしまった。 今となっては、最初に書かれた文字がどんな形をしていたのか、もう思い出せない。 その修復不可能な失敗の跡だけが、まるで癒えない傷痕のように少女の止まった時間の中にくっきりと残り、乾いた墨跡が窓からの陽光を虚しく照り返していた。
この数百年、豪華絢爛な宮殿にも、ネズミの彷徨くカビ臭い牢屋にも暮らしてきたが、結局この小さなボロアパートが一番心地よかった。
時計を見る。 午後2時。 ガタついたガラス戸の向こうには、茹だるような夏の陽光の下、入道雲の浮かぶ青空にぽつり、孤独な白い月が浮かんでいた。
手元のスマートフォンをひらく。 初めてこのガラスの板を手にした時は、その作法に慣れるまで随分と難儀したものだ。 だが、悠久の時を生きる彼女のような存在にとっては、新しい遊戯に慣れるための、あの少しばかり苦痛な時間さえ愛おしく感じられる。 あれほど苦労したスマートフォンも、今では脳を介さず指先が動くほどに馴染んでしまった。
親指が、まるでそれ自体が独立した生き物のように、タイムラインを光の速さでスクロールしていく。 可愛い猫の動画、誰かの炎上、インスタ映えするスイーツ、自己啓発的なポエム。 情報の洪水。 しかし、もうそこには何の感動もない。 他人どころか、なんなら自分の人生にすら興味もないのだ。 どれだけ自分を着飾ったところで人間はあっというまに年老いて死ぬのに、なんの意味があるのだろう。 ふと指を止めると、黒い画面が鏡のように、無感動な自分の顔を映し出した。
その時だった。 画面の隅で、ちかちかと品なく点滅するバナー広告が現れたのは。
【アナタも宇宙へ行ってみませんか? 頭金ゼロ! 夢の宇宙旅行がワンクリックで!】
……あまりにも胡散臭い。 デザインは素人仕事そのもので、縁をジャギジャギと荒く尖らせたロゴは極彩色に輝き、その傍らで火を吹くロケットのイラストなど、子供がマウスを使って描いたような適当具合。 まるで30年ほど前の、インターネットの黎明期からやってきたような、あまりにチープなデザインのウェブページ。 こんなものに引っかかるなんて、せいぜいちょっと足りない者ぐらいだろう。 だが、一周回って潔ささえ感じる安っぽさと、根拠のない自信に満ちた煽り文句が、なぜか妙に少女の心を惹きつけた。 退屈という名の病は、時に人の判断力を著しく低下させるものだった。
「ええい、ままよ」
ほとんどヤケクソだった。 彼女は、長い時の中で蓄えた有り余る富を元手に、こともなげに手に入れたブラックカードの番号を淀みなく打ち込むと、ぽち、とタップする。 画面に「ご応募ありがとうございます!」という、これまた安っぽいファンファーレと共に、虹色の文字が躍った。
それからの展開は、まるで出来の悪いB級映画のようだった。 翌日(いや一週間?だったかもしれない。 最近は本当に時間の感覚が分からない)、錆びたアパートのドアをノックする音がした。 ピンポーンという気の抜けた電子音。 怠惰に錆びきった身体を引き摺ってドアを開ければ、高そうな黒いスーツに目元の見えないサングラスを身にまとった男たちが二人、無表情で立っている。 「厳正なる抽選の結果、お客様がご当選されました」と、感情のこもらない棒読みで告げられた。 あれは抽選だったのか。 てっきり先着順かと少女は思った。 男たちのサングラスに映る、貧乏くさいTシャツ一枚に口をぽかんと開けている自分の表情たるや、数百年に一度の歴史的間抜け面だった。
あれよあれよという間に、彼女は人里離れた広大な砂漠の真ん中にある、プレハブ小屋のような施設に連れてこられた。 日本のまとわりつくような湿気は遠い記憶となり、今は肌を焼くような乾いた熱気が満ちている。 そこがロケットの発射基地なのだという。 見渡す限り赤茶けた大地と、陽炎の向こうに歪む地平線。 周りには、自分と同じように広告に釣られたのであろう、一癖も二癖もありそうな連中が十数人、所在なげに集まっていた。 一攫千金を夢見る売れないユーチューバー、宝くじが当たって人生の目標を見失った主婦、死ぬ前に一度くらい派手なことをしたかったという終活中の老人。 皆、一様に不安と期待がごちゃ混ぜになった、奇妙な顔をしていた。
健康診断も、訓練も、あってないようなものだった。 体温と血圧を測り、なぜかラジオ体操の第一と第二をやらされ、何に使うのかも分からないアンケートを書かされると、あとはひたすら待機。 渡された宇宙食とやらは、防災用の乾パンと、色とりどりの金平糖だった。 なんじゃこれは、と少女は呆れる。 本当に宇宙へ行く気があるのか。 だが、この絶望的なまでのグダグダ感、このどうしようもないナンセンスさが、不思議と心地よかった。 整合性よりも勢いを尊ぶ、現代の言う「ライブ感」とやらに近いのかもしれない。 あるいは、この支離滅裂な状況を無理やり自分に納得させて、平静を装っているだけかもしれないが。 まあどちらにせよ、ただ死んでいないだけの、倦んだ日常よりはよっぽどマシだった。
そして、打ち上げ当日。
ぺらぺらの銀色の宇宙服(のような作業着)を渡されたが、当然、狐の耳とふさふさの尻尾が収まるようにはできていない。 ヘルメットもどうやったって耳が邪魔で被れなかった。 おずおずと近くにいた係員の男にそのことを伝えると、「ああ、じゃあ着なくて大丈夫です」と真顔で即答された。 大丈夫なわけがあるか。 喉まで出かかったその言葉は、しかし百年近くまともな会話をしていない声帯に阻まれて、かひゅ、と情けない音に変わるだけだった。 「何か?」と男が怪訝そうに眉をひそめる。 それに少女は、顔の筋肉を引きつらせて曖昧に笑い、ぶんぶんと首を横に振ってその場を逃げ出すしかなかった。
結局、少女はTシャツと短パンというあまりに心許ない格好のまま、どう見ても近所の工場から集めてきたドラム缶を繋ぎ合わせただけのようなロケットに乗り込むことになった。 内部はさらにひどかった。 座席は体育館にあるようなパイプ椅子で、それが床に無作法にボルトで固定されている。 シートベルトは、ビリビリと音を立てるマジックテープ式だ。 たまらず不安になり、座席の下にあった救命具らしきものを手に取ると、そこには『Tanu』という絶妙に怪しいロゴが刻まれている。 安価で粗悪な商品で悪名高い、あの海外通販サイトが取り扱ってるパチモンじゃあないか。 分厚いアクリル窓に、Tシャツ姿で顔面蒼白な自分の顔がぼんやりと映っている。 本当に、本当に大丈夫なのだろうか。 不老不死といえど、さすがに宇宙空間で機体が爆発四散した時、自分がどうなるかまでは想像もつかなかった。 熱と爆発といえば、明暦の大火で江戸城が燃え落ちた時も大概死ぬかと思ったが、あれより酷い目に合うのだろうか。 そう考えた途端、じりじりと肌を焼いていたはずの夏の暑さが、すうっと遠ざかっていく気がした。
「5、4、3、2、1……」
やはり降りようか。 そう後悔が芽生えた矢先、機内に、場違いに冷静なカウントダウンが響き渡った。 有無を言わさぬその声に、少女の小さな体がパイプ椅子に縫い付けられる。 凄まじい轟音と振動。 ぎゃあ、と誰かの甲高い悲鳴が聞こえたが、それすらも鉄の絶叫にかき消されていく。 窓の外の景色が猛烈なスピードで引き伸ばされ、青い絵の具をぶちまけたような空が、やがて深い藍色に、そして漆黒に塗りつぶされていく。 全身の骨が軋むような圧迫感に、少女はただ目を固く閉じるしかなかった。
その激しいGの奔流の中で、少女の脳裏に、遠い昔の記憶が閃光のように蘇った。
薄暗い部屋。 病にやつれた男の、骨張った細い指。 障子の向こうには、夜空を支配する煌々と輝く満月と、それに寄り添うように咲いていた一輪の青い花。 確か、朝顔だったか。
『見よ、あの月を』
咳き込みながら、男がぽつりと呟いた。
『あんなに輝いておるのだ。さぞや金銀財宝に満ちた、楽園のような場所に違いない。……行ってみたいものだ』
「馬鹿なことを言うでない。人が月など行けるものか」
『おぬしは、わしらとは違う。きっと、行けるさ』
男は苦しそうに、だが楽しそうに笑った。
『なあ。おぬしが月へ行くときは……どうか、わしも一緒に連れて行ってはくれまいか。ここではない、どこか、遠くへ』
そう言って悪戯っぽく笑った男の顔は、もう思い出せない。 ただ、その優しい声と、どこか遠くの月を見つめる熱っぽい瞳だけが、少女の心に焼き付いて離れなかった。
『綺麗じゃのう』
轟音の中、聞き覚えのある声が呟いたのが聞こえた気がした。
ふと我に返ると、あれほどの轟音も振動も嘘のように消え、そこには完全な、耳の奥が澄み渡るような静寂があった。 窓の外には、吸い込まれそうな漆黒の闇が広がっている。 ゆっくりと体が浮き上がる。 無重力だ。 背中で、ふさふさの尻尾が意思を持った生き物のように、ゆらりと優雅に揺れる。
そして、それは、あった。
あまりにも巨大で、あまりにも白く、そしてあまりにも静かな、ただの岩の塊。 月だ。 神話や物語で語られてきた神秘性はどこにもない。 無数のクレーターが刻まれた、冷たい死の世界。 その圧倒的な存在感が、目の前にあった。
「……そうか? 別に綺麗でもなんでもない」
ぽつりと、少女は呟いた。 そうだ。 ただ、そこにあるだけだ。 あんなものに、自分は何百年も心を囚われていたのか。 馬鹿馬鹿しい。
その視線を、月から、その向こうに広がるものへと、ゆっくりと移す。
青かった。
あの日の朝顔のように、儚く、それでいて深く、澄んだ青。 息を呑む、というよりは、ただ静かに、その青さに心を満たされる感覚。 生命の輝きそのもののような、瑞々しく、そしてどこか儚げな、水の惑星。 自分が生まれ、飽きるほど生きてきた星。 渦巻く雲、広大な海、緑の大地。 その全てが奇跡のように調和している。 この大いなる青の前では、人の世で繰り広げられる喜劇も悲劇も、出会いも別れも、生も死も、何もかもが矮小でとるに足らないものに思えた。
ふと、少女は窓ガラスに映る自分の姿に気づいた。 スマートフォンの黒い画面、ロケットの小さな丸窓、そして今、この宇宙船の窓。 幾度となく見てきた、鏡に映る孤独な自分の姿。 漆黒の宇宙と青い地球を背景に、ぽつんと浮かぶ小さな狐の耳と尻尾を持つ少女。 その姿が、遠い記憶の中の男の言葉と重なった。
「ああ」
そうか、と少女は思う。 あの男の言葉の意味が、今、すとんと胸に落ちてきた。 あの人は、月を見ていたのではない。 月から見るこの青い星のことでもない。 きっと、あの人は、ただ、月という巨大な鏡に映った、隣にいるちっぽけな狐の娘の姿を見て、そう言ったのだ。 『ここではない、どこか遠くへ』。 あの言葉の本当の意味に、何百年も経って、こんな場所で気づくなんて。
自分にとって数百年など、所詮またたく間の出来事かもしれないが、定命の人間たる彼奴にとっては違ったろう。 あの時、ほんの少し身を寄せてやれば拾い上げられた言葉の為に、こんなところまで来てしまった。 こんなに時間をかけてしまった。
バリバリとマジックテープのベルトを剥がすと、ふわり、と体が無重力空間を回転する。 窓のむこうに広がるのは、四畳半の染みだらけの天井とは違う、果てしない闇だ。 はさ、と撫でつけられる様に尻尾を波打たせると、黄金色の繊維が宙を舞った。 星星の様に輝く毛の中を漂う自分はさながら宇宙の一部そのものになったかのようだった。
ふと、誰かの細い指が自分の尻尾を撫でた気がした。 記憶の中の、あの骨張った指。 その幻の指先が、自分にずっとまとわりついていた何かを引き剥がし、そっと宇宙へと流していく。 地球の大気に吸い込まれたそれは、やがてまばゆく赤熱し、一筋の光となって消えていった。 あまりに、あっけなく。 地上には、あの一筋の流れ星に祈る愚か者もいるのだろうか。
少女はもう、どこか遠くへ行きたいとは思わなかった。 ふさふさの尻尾が、帰るべき場所を指すように、ゆっくりと青い惑星の方を向く。
「随分と遠回りしてしまったが」
ぽつりと、誰に言うでもなく呟く。
「なあ。 わしらは二人、ちゃんと月に着いたぞ。 さあ、帰るとしよう」
その幼い瞳には、もう月は映っていなかった。 この胸に染みわたる、夏風の様な青い爽やかさなど、どうせすぐに忘れてまた退屈な日常へ回帰していくのだろう。 だが、それでもよかった。 せめて今、この一瞬だけは、年甲斐もなくこの小さな宝物を抱きしめることを、誰が咎められようか。
長いまつげが、静かに頭を垂れる。
細めた瞳に、死にゆく夏の蒼い輝きが、少しずつ滲んでいった。
了
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