時限爆弾

夜明けの光が廃寺を薄く照らす頃、藤原怜司は蒔田の前に座っていた。二人の間には小さなテーブルがあり、そこに契約書らしき書類が置かれている。

「よく残ってくれた」

蒔田は満足そうに微笑んだ。

「家族愛というものは、時として理性を上回る。君は賢明な選択をした」

藤原は書類に目を通した。そこには「高槻沙夜の身柄引き渡しと引き換えに、藤原麻衣・由香の完全蘇生を約束する」という内容が記されている。

「本当に元に戻せるのか?」

「もちろんだ」

蒔田が断言した。

「我々の儀式が完成すれば、黄泉の国と現世の境界が曖昧になる。その時、彼女たちは完全に現世に戻ることができる」

藤原の手がペンに向かった。しかし、署名する直前で止まる。

「条件がある」

「条件?」

「まず、妻と娘の状態を改善してもらいたい。せめて会話ができる程度まで」

蒔田は眉をひそめた。

「それは契約成立後の話だ」

「いや、契約前だ」

藤原の声に力が込もった。

「彼女たちが本当に回復可能なのかを確認させてもらう」

長い沈黙の後、蒔田が頷いた。

「分かった。ただし、完全ではない。意識を表層まで浮上させる程度だ」

「それで十分です」

しかし、藤原の胸の奥では別の計画が動いていた。家族の状態を確認し、八岐会の真の目的を探り、そして最後に仲間を裏切ることなく全てを解決する方法を見つける。危険な綱渡りだったが、他に選択肢はなかった。



同じ頃、村では前夜を上回る怪奇現象が発生していた。

午前五時、山田家では台所の全ての食器が勝手に宙に浮き、まるで見えない手が料理をしているかのように動き回った。皿やコップが空中で踊り、包丁が野菜を切る音が響く。しかし、まな板の上には何も乗っておらず、切られるはずの食材も存在しない。

田中家では、二階の誰もいない部屋から子供の笑い声が一晩中聞こえ続けた。家族が確認に行くと、部屋には古い人形が一体置かれているだけ。しかし、人形の口元には微かな笑みが浮かんでいるように見えた。

最も深刻だったのは佐藤家での出来事だった。井戸から湧き出る水が血のように赤く変色し、その水面に死んだはずの老人の顔が映った。老人は口を動かして何かを訴えているようだったが、声は聞こえない。

「もう限界です…」

朝になって神社を訪れた村人たちは、皆一様に憔悴し切っていた。

「このままでは村全体がおかしくなってしまいます」

「高槻さん、何とかしてください」

沙夜は村人たちの前に立ったが、その姿は昨日よりもさらに神々しく変化していた。依代化が進行し、もはや普通の人間とは明らかに異なる雰囲気を醸し出している。

「皆さん、必ず解決いたします」

沙夜の声には不思議な力があった。聞いているだけで心が鎮まるような、深い安らぎを感じさせる。

「ただし、今夜は絶対に一人で過ごさないでください。家族や近所の方と一緒にいることが重要です」

村人たちは頷いたが、その表情には深い不安が刻まれていた。



村人たちが帰った後、悠真と沙夜は社務所で暗号解読に集中していた。昨夜発見した三色の星座線の意味を理解するため、様々な古文献と照合している。

「琴座、大熊座、南十字座…これらの星座にはそれぞれ神話があります」

悠真が古代ギリシャ神話の書物を開いた。

「琴座はオルフェウスの竪琴。愛する妻を黄泉の国から連れ戻そうとした音楽家の物語です」

「愛と音楽の星座ですね」

沙夜が呟いた。

「大熊座は狩人オリオンと関係があります。復讐と狩猟の象徴でもあります」

「そして南十字座は…」

「南半球でしか見えない星座で、死と再生の象徴とされています」

二人は顔を見合わせた。

「愛、復讐、死…まさに我々三人の課題そのものですね」

悠真は手帳に図を描いた。

「僕は姉への死者への執着を断ち切る必要がある。藤原さんは復讐心を乗り越えなければならない。そして沙夜さんは…」

「個人的な愛を、より大きな慈愛に昇華させることです」

沙夜の答えは静かだった。

「でも、それは感情を捨てることではありません。むしろ、その感情を出発点として、世界全体への愛に広げていくことなのかもしれません」

悠真は沙夜の言葉に深く打たれた。彼女の成長ぶりは目覚ましく、既に人間を超えた洞察力を身につけている。

「数珠玉の配置順序も見えてきました」

沙夜が天体図を指差した。

「星座が一直線に並ぶ時、琴座が最も高い位置にあります。つまり、金の珠が中央、その両脇に青と赤の珠を配置する」

「しかし、残りの四つの配置は…」

「きっと藤原さんが戻ってきた時に分かるでしょう」

沙夜の言葉には、藤原への深い信頼が込められていた。



その頃、旅館では女将が再び八岐会と連絡を行っていた。

「神崎と巫女の様子はいかがか?」

蒔田の声がスマホから聞こえる。

「二人とも暗号解読に夢中です」

女将が報告した。

「星座の配置について何か重要な発見をしたようですが、まだ完全ではありません」

「藤原の件は順調に進んでいる。もうすぐ契約が成立するだろう」

「それは良いニュースです」

女将は窓から神社の方向を見た。

「ただし、巫女の変化が予想以上に急速です。完全に依代化する前に確保した方がよいのではないでしょうか?」

「心配はいらない。我々の計画では、彼女の依代化が完成した瞬間を狙う」

蒔田の声は自信に満ちていた。

「その時こそ、黄泉の鍵の真の力が解放される」

「分かりました。引き続き監視を続けます」

通信を終えた女将は、また親切な笑顔を浮かべた。しかし、その目の奥には冷酷な計算が宿っていた。

十五年間この村で過ごし、多くの村人と親しくなった。しかし、それらはすべて任務のためだった。明後日、すべてが終わった時、この村を去ることになるだろう。

少しの寂しさを感じながらも、女将は使命を全うする決意を新たにした。



午後になって、神社の収蔵庫で異変が起きた。勾玉の光がこれまで以上に激しく明滅し始めたのだ。

「これは…」

沙夜が収蔵庫に駆け込むと、勾玉の周囲に新たな文様が浮かび上がっていた。生と死の境界を示すような、複雑な幾何学模様だった。

「第五封印が弱くなっています」

沙夜の声は震えていた。

「生死境界の封印です。このままでは、死者が現世に溢れ出してしまいます」

悠真も収蔵庫に入ってきた。勾玉の異常な輝きに、顔が青ざめる。

「時間がありません。封印の再構築を急がなければ」

「でも、藤原さんがいないと完成しません」

二人は藤原の帰りを待つしかなかった。しかし、彼の真意は依然として不明で、本当に戻ってくるのかも分からない。



夕方、村の中心部で村人たちの緊急集会が開かれた。午前中の怪奇現象に加え、午後にも新たな異常事態が発生していたのだ。

「もう我慢できません」

村会議員の山本が立ち上がった。

「この異常事態の原因は明らかに神社にあります。そして、あの研究者が来てから事態が悪化している」

集まった村人たちから同意の声が上がった。

「高槻さんも最近様子がおかしいです。まるで人間じゃないような…」

「あの研究者を村から追い出すべきです」

「神社を封鎖してはどうでしょうか」

村人たちの不安と怒りは頂点に達していた。もはや理性的な判断は期待できない状況だった。

「明日の朝、神社に直談判に行きましょう」

山本の提案に、多くの村人が賛成した。

「それまでに研究者には村を出て行ってもらいます」

この決定は、すぐに女将の耳に入った。彼女は密かに微笑んだ。村人たちの怒りを利用すれば、神社を孤立させることができる。八岐会の計画にとって、これ以上都合の良い状況はなかった。


夜になって、沙夜は一人で本殿に向かった。依代化が進むにつれて、イザナミの声がより鮮明に聞こえるようになっていた。

『時が来ました』

暗闇の中で、イザナミの姿が現れた。

『明日の夜、すべてが決まります。あなたは最後の選択をしなければならない』

「どのような選択ですか?」

『完全に私の器となり、村を救うか。それとも人間のまま留まり、すべてを失うか』

沙夜は迷った。村を救うためには依代になるべきなのかもしれない。しかし、悠真との約束もある。

『ただし、第三の道もあります』

イザナミが続けた。

『三つの魂が真に一つになった時、新たな可能性が開かれます。しかし、それは非常に困難な道です』

「三つの魂とは…」

『学者、戦士、巫女。それぞれが内面的な成長を遂げ、真の調和を実現すること。その時、あなたは人間のままで依代の力を使えるようになるでしょう』

沙夜の心に希望の光が射した。

「その道を選びます」

『では、明日の夜明けまでに、仲間たちと真の絆を築きなさい。時間はもうありません』

イザナミの姿が消えると、沙夜は深い決意を固めた。



午前二時、村全体で同時多発的に怪奇現象が起きた。

すべての家で電気が勝手に点滅し、ラジオやテレビから意味不明な音声が流れ出した。それは人間の言葉ではなく、古代語のような、聞いたことのない響きだった。

さらに恐ろしいことに、多くの家の庭や玄関先に、白い人影が立っているのが目撃された。人影は皆、家の中を見つめているが、顔は見えない。

村人たちは恐怖に震え上がった。もはや単発的な現象ではなく、村全体が超常的な力に支配されつつあった。

「黄泉の国と現世の境界が崩壊し始めています」

沙夜が悠真に報告した。

「第五封印の亀裂が拡大しています。このままでは、明日の夜まで持たないかもしれません」

悠真は焦りを感じた。藤原なしには封印の再構築はできない。しかし、彼の安否も分からない状況だった。



夜明けが近づく頃、東の空に明星が輝いた。

封印再構築の刻限まで、残り二十四時間を切った。

藤原の帰還はまだない。村人たちの怒りは沸点に達している。そして、八岐会は最終的な仕掛けを準備している。

すべての要素が最後の一点に向かって収束しつつあった。

明日の夜明け前、午前四時十三分。それが運命の時だった。

しかし、まだ希望は残っている。沙夜の新たな決意、悠真の成長、そして藤原の本当の計画。

三人の魂が真に一つになった時、奇跡が起こるかもしれない。

時間は刻々と過ぎていく。最後の戦いまで、あとわずかだった。

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