封じられた勾玉
朝霧に包まれた神域
翌朝、悠真は早朝の冷気に目を覚ました。旅館の古い窓から差し込む光は、まだ薄い霧に包まれている。時計を見ると午前六時を少し回ったところだった。
昨夜は結局、あまり眠れなかった。姉の美咲が最後に残した言葉と、この黄泉神社の「黄泉の鍵」という符合があまりにも不可解で、頭から離れなかったのだ。偶然にしては出来すぎている。
悠真は身支度を整え、旅館の食堂で簡素な朝食を摂った。女将は昨夜よりも表情が暗く、何度も窓の外を気にしていた。
「また一人、行方がわからなくなった方がいるんです」
女将は小さな声で悠真に告げた。
「昨夜のことですか?」
「ええ。村の若い農家の田所さんという方が、夕べ神社にお参りに行ったきり帰ってこないんです。奥さんが朝方、心配して捜しに行ったら…」
女将は首を振った。
「神社の境内で田所さんの軍手だけが見つかったそうです。ただそれだけ。まるで地面に吸い込まれたみたいに」
悠真は背筋に寒いものを感じた。三人目の失踪者。そして、また神社が関わっている。
「警察は?」
「もちろん連絡しましたが、手がかりが何もないので…村の人たちは、やはり黄泉の鍵の祟りだと言っています」
悠真は急いで朝食を済ませ、黄泉神社へ向かった。霧に包まれた山道は幻想的でありながら、どこか不気味な雰囲気を醸し出している。
境内に着くと、既に沙夜が本殿前で待っていた。彼女の表情は昨日以上に深刻で、目の下には疲労の色が濃く浮かんでいた。
「お疲れのようですね」
悠真が声をかけると、沙夜は振り返った。
「昨夜はほとんど眠れませんでした。田所さんのことは聞きましたか?」
「旅館の女将から。また神社で失踪が…」
「三人目です」
沙夜の声は震えていた。
「最初は山田さん、次に観光客の女性、そして昨夜の田所さん。皆、この神社を最後に姿を消している」
沙夜は本殿の方を見上げた。朝の光に照らされた社殿は荘厳だが、その奥に何か暗いものが潜んでいるような錯覚を覚える。
「神崎さん、本当に勾玉を調べる必要がありますか?これ以上の犠牲者が出る前に…」
「だからこそ調べなければならないんです」
悠真は静かに答えた。
「科学的な調査をすることで、迷信や恐怖に支配されることを防げるかもしれません」
沙夜は悠真を見詰め、やがて小さく頷いた。
「分かりました。ただし、絶対に素手で触れることは避けてください。約束していただけますか?」
「約束します」
本殿の奥深く、特別な収蔵庫に「黄泉の鍵」は安置されていた。沙夜が重い扉を開けると、神聖な空気が流れ出してくる。内部は思いのほか広く、古い木箱がいくつも並んでいた。
「あれです」
沙夜が指差したのは、他の箱よりもひときわ古い桐の箱だった。表面には複雑な文様が彫り込まれ、いくつもの封印が施されている。
「この文様は…」
悠真は箱の表面を観察した。古代文字に似た記号が螺旋状に配置されている。民俗学者としての知識を総動員しても、完全には解読できない。
「代々の神職が施した封印です」
沙夜が説明した。
「この箱を開けることができるのは、特別な祝詞を唱えながらでないと…」
「お願いします」
沙夜は深く息を吸い、古い祝詞を唱え始めた。その声は静寂な収蔵庫に響き、どこか異世界的な響きを持っていた。封印が一つずつ解かれていく中で、悠真は奇妙な感覚に襲われる。まるで、何か大きな存在がこちらを見詰めているような…
最後の封印が解かれ、箱の蓋が開かれた。
中には、深い緑色の勾玉が静かに横たわっていた。翡翠でできたそれは、縄文時代から伝わる古典的な形状をしている。しかし、普通の勾玉とは明らかに違っていた。内部から微かに光を放っているように見えるのだ。
「美しい…」
悠真は思わずつぶやいた。勾玉の表面には、極めて精巧な文様が刻まれている。古代の職人技術の粋を集めた、まさに神器と呼ぶにふさわしい品だった。
「この勾玉の由来について、何か記録は残っていますか?」
「古い文書によれば、この地にイザナミの霊が降臨した際に出現したとされています」
沙夜は箱から少し離れて答えた。
「黄泉の国と現世を繋ぐ鍵として、古代から封印されてきました」
悠真はカメラを取り出し、様々な角度から勾玉を撮影した。フラッシュの光を浴びると、勾玉の文様がより鮮明に浮かび上がる。
「この文様…どこかで見たような」
突然、悠真の記憶の奥で何かが蠢いた。姉の美咲が最後に描いていたスケッチ。あの中にも、似たような螺旋模様があったような気がする。
写真撮影を続けている間に、悠真の心の中で好奇心が膨れ上がっていた。学者としての探究心が、沙夜との約束を上回ろうとしている。
「少しだけでも触れることができれば、材質や加工技術についてもっと詳しく…」
「だめです!」
沙夜が鋭く制止した。
「約束を忘れたのですか?」
しかし、悠真の手は既に勾玉に向かって伸びていた。まるで何かに引き寄せられるように。
「神崎さん!」
沙夜の叫び声と同時に、悠真の指先が勾玉の表面に触れた。
その瞬間、世界が一変した。
背骨を氷柱で貫かれたような激痛が奔り、悠真は肺の空気を一気に吐き出した。
漆黒――いや、それは光を奪うほど密度の高い“影”だった。足下に確かに石床があるのに、踏みしめる感覚は泥のように重く沈む。耳鳴りと共に潮騒のような低音が全身を包み込み、遠い過去の記憶が走馬灯のように閃く。
ふと鼻腔を刺すのは、鉄が錆びる匂い。次いで湿った土のにおい。視界の周縁が波立ち、墨を垂らした水面のようににじみ始める。
――黄泉の国は、匂いからやって来る。
古文献で何度も読んだ一節が脳裏をよぎる。腐敗と再生が同居するこの芳香は、現世と死の境界がほつれた瞬間にだけ漂うと言われていた。
やがて靄が晴れると、空間は東京のアパートへと転じていた。だが蛍光灯の光は昏く、壁紙は剝がれ、時折“ブツッ”というノイズが空間そのものに走る。まるで古びたビデオテープの映像を覗き込んでいるかのような不安定さだった。机の前に、白いワンピースを着た美咲が座っている。長い黒髪は濡れたように艶を失い、背中にまで垂れ下がっていた。
「姉さん…?」
呼びかける声は水中で発したように歪み、すぐに吸い込まれてしまう。
美咲は振り返り、乾いた唇の端をかすかに上げた。目は透明な湖面のようで、そこに感情の波は見当たらない。
「悠真……まだ、ここに居たのね」
言葉は確かに届いた。しかし発音の一つひとつが、ガラス片が擦れるような硬質な反響を伴う。悠真は咽喉が粟立つのを覚えながらも、必死に声を絞り出した。
「姉さんは……どうしてあんなことを」
美咲は微笑を浮かべたまま立ち上がる。床板が軋む音はなく、足首から下が影に溶けている。
「黄泉の鍵が呼んだからよ。私たちの家系には、あの勾玉が千年以上まとわりついている。私は偶然、それに気づいてしまっただけ」
「家系……?」
遠くで雷鳴が轟き、部屋の窓ガラスに蜘蛛の巣状の亀裂が走る。その向こうには月のない夜空があり、雲間を埋めつくすように蠢く黒いシルエット――巨大な蛇の背鰭が、稲妻の閃光で一瞬だけ浮かび上がった。
美咲は黄泉の闇そのものになりかけた瞳で続ける。
「八岐会は“扉”をこじ開けようとしている。鍵を壊さぬ限り、境界は裂け続けてしまうわ」
「壊す手段?どういうことだ?教えてくれ!」
思わず腕を伸ばした瞬間、美咲の肩が闇に溶け、砂のように崩れた。途端に、八つの蛇首が天井を突き破って降臨する。鱗は苔むした翡翠のように暗緑色で、眼孔は血のように赤い。
――ゴウ……ゴウ……
咆哮とも喘鳴ともつかない重低音が鼓膜を震わせ、空間は瓦解し始める。悠真は膝を折り、耳を塞いだ。視界の端で、美咲が最期の力を振り絞るように唇を動かす。
「黒潮を……止めて……」
言葉は霧散し、部屋も姉も、黒い蛇とともに闇へ引き戻された。次の瞬間、悠真の背中に強烈な衝撃が走り、現実の冷たい石床に叩きつけられていた。
――五感は戻った。だが胸骨の奥で脈打つのは恐怖ではなく、炎のような決意だった。
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