黄泉の鍵
@azarashi_suki
第1章 謎のはじまり
招かれざる研究者
東京の小さなアパートの一室で、神崎悠真は古い文献に囲まれて夜を明かしていた。蛍光灯の白い光が、散乱した民俗学の専門書や手書きのノートを照らしている。コーヒーカップの底には冷めた残りが僅かに残り、煙草の煙が天井に向かって立ち昇っていた。
三十二歳になった悠真の顔には、かつて大学講師として教壇に立っていた頃の若々しさは失われていた。頬は僅かにこけ、眼鏡の奥の瞳には疲労が宿っている。それでも、古文書を読み解く時の集中力は衰えていない。むしろ、学術界を追われた今だからこそ、純粋に知識への渇望だけが彼を突き動かしていた。
机の上に広げられているのは、『古事記』の写本と、それに関連する地方伝承をまとめた資料だった。特に黄泉の国に関する記述を、悠真は執拗に調べ続けている。イザナミが死後に向かった死者の世界、イザナキが妻を追って降りた暗黒の領域。神話の中の物語でありながら、そこには古代日本人の死生観が色濃く反映されていた。
「姉さん…」
悠真は小さくつぶやき、手を止めた。五年前に自ら命を絶った姉・美咲の記憶が、不意に脳裏をよぎる。最後に交わした電話での彼女の声は、どこか遠くを見つめるような虚ろなものだった。
「悠真、黄泉の国って本当にあると思う?」
そんな不可解な問いかけが、彼女の最後の言葉の一つだった。
携帯電話の着信音が、重い沈黙を破った。時計を見ると、午前二時を回っている。こんな時間に電話をかけてくる相手は限られていた。
「神崎です」
「悠真君、夜分に済まない。田中だ」
電話の向こうの声は、悠真の大学時代の指導教授である田中博雄のものだった。六十代半ばの温厚な民俗学者で、悠真が学術界を追われた後も、個人的な関係を維持してくれている数少ない人物の一つである。
「田中先生、こんな時間にどうされたんですか?」
「実は君に頼みたい仕事があってね。少し特殊な案件なんだが…興味はあるかい?」
悠真は眉をひそめた。田中教授から直接仕事の依頼が来ることは珍しい。しかも、この時間帯ということは、相当に急を要する案件に違いない。
「どのような内容でしょうか?」
「島根県の奥出雲地方にある、黄泉神社という古社の調査だ。そこに伝わる古い勾玉について、学術的な見解が欲しいという依頼が来ている。ただし…」
田中教授の声が僅かに沈んだ。
「その勾玉は『黄泉の鍵』と呼ばれていてね、触れた者に異常な現象が起きるという話がある。地元では封印されているものとして扱われているんだ。非科学的な話だが、君の専門分野に近いし、何より君なら冷静に対処できると思って」
黄泉の鍵。悠真の心臓が一拍飛んだ。まさか、姉が最期に口にしていた言葉と関連があるのだろうか。
「報酬は悪くない。交通費と宿泊費は全額支給、さらに調査費として五十万円が支払われる。どうだろう?」
金銭的に困窮していた悠真にとって、この条件は魅力的だった。しかし、それ以上に「黄泉の鍵」という言葉が、彼の知的好奇心を強烈に刺激している。
「引き受けます」
「そうか、ありがとう。明日の午後には島根に向かってもらえるかな?詳細は明朝、資料と一緒にメールで送る」
電話を切った後、悠真は再び文献に向き合った。しかし、もはや文字は頭に入ってこない。黄泉の鍵、そして島根県。出雲は日本神話の聖地であり、スサノオがヤマタノオロチを退治した舞台でもある。イザナミが黄泉の国へ旅立った後、イザナキが禊を行った地も、出雲とされている。
偶然の一致だろうか。それとも、何か深い意味があるのだろうか。
翌日の午後、悠真は新幹線で岡山へ向かい、そこから特急やくもに乗り換えて島根県へと向かった。車窓から見える風景は、都市部の喧騒から徐々に山間部の静寂へと変わっていく。中国山地の深い緑が、どこか神話的な趣を醸し出している。
田中教授から送られてきた資料によれば、黄泉神社は島根県の山奥、人里離れた場所に鎮座している。地元では古くから「死者との境界を司る社」として畏れられ、特に黄泉の鍵と呼ばれる勾玉は、触れた者が黄泉の国の幻影を見るという言い伝えがある。
最寄り駅で下車した悠真は、レンタカーを借りて山道を登り始めた。道幅は徐々に狭くなり、周囲は深い森に囲まれていく。カーナビの指示に従って進むものの、本当にこの先に神社があるのか不安になるほど人気のない道が続いた。
やがて、鬱謱とした杉林の奥に朱色の鳥居が見えてきた。それは思いのほか大きく、威厳に満ちた佇まいを見せている。鳥居の額束には「黄泉神社」の文字が刻まれ、長い年月を経た風格を漂わせていた。
車を鳥居の手前に停め、悠真は境内へと足を向けた。参道は石畳で整備されているものの、苔むした石燈籠や古い狛犬が神社の歴史の深さを物語っている。空気は冷たく、どこか神聖な緊張感に満ちていた。
本殿は入母屋造りの重厚な建物で、屋根は銅板葺き、壁面は朱色に塗られている。しかし、その美しさの中にも、どこか近寄り難い雰囲気が漂っていた。まるで、この世とあの世の境界に建てられた社であることを、建物自体が主張しているかのようだった。
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