第三章 壊れた世界とVirtual_World
第8話 一夜明けて
コン、と、合金の床に降り立った軍靴が心地のいい音を響かせる。
意識が明瞭になるにつれ、視界に飛び込んで来るのは前にだけ開かれたガラスの円筒と、合金製の四角い部屋。左右の壁にはずらりと本棚が立ち並び、それぞれ一つずつ、他の部屋へと続く扉がある。真正面には、青い水槽を背景にしてデスクと椅子が一つずつ。傍らに居る一人の男性将校は、背中をこちらに向けて立っていた。
そんな相変わらずの光景を真っ直ぐ突き進み、雪音はデスクの前で立ち止まる。
男性将校の背中に向けてびしっと敬礼をし、
「何かありましたでしょうか、
雪音の言葉に『
「つい先程、レイチェル・ステラフォード
手を下げろという司令のジェスチャーに敬礼を解き、雪音は努めて冷静な声音をつくって、
「それについては既に存じ上げています。……先程確認してきたところ、現在サーバー内で発生しているバグを含め、多数の違和感を認識できているようでした」
そこで少し言葉をつぐみ、
「少なくとも、認識の上書き処理や記憶の消去・
「……時間の問題とは思っていたが。ようやくか」
そこで、二人の会話は途切れる。
――意識覚醒。量子サーバーに保存された人格が、何らかの原因によって『NPC』にあたる状態から逸脱し、自己を獲得するようになることを指す言葉だ。
雪音自身や夏坂・藍原両先輩。
「……あの、司令」
長い沈黙を打ち破って、雪音はいつの間にか下がっていた視線を
「今回のループは、いつまでもつのでしょうか」
と、震えた声で訊ねていた。
しばしの沈黙。
「内部時間で二週間。それが技術部が出した結論だ」
「その間にあの子を納得させ、正式に入隊させろ。……そういうことですね?」
こくりと無言で頷く司令。それは、『肯定』を示しているのだと雪音は知っている。無意識に、口の中を噛んでいた。
頷き返し、雪音はかかとを鳴らせて左腕で敬礼の姿勢をとる。
「了解しました」
とだけ応え、敬礼を解いて、
「では、失礼します」
言い置いて。雪音はくるりと振り返る。視線の先にあるのは、先程のガラス円筒だ。
この部屋は特殊な座標を使用しているため、あそこ以外では場所の移動――
「私が言えた義理ではないが」
半分ほどを進んだところで、背中から
その場で立ち止まり、続く言葉に耳を傾け、
「君は、本当にそれでいいのか?」
「…………」
何か、核心を突かれたような感覚に、雪音は立ち止まったのを後悔した。
心の奥で渦巻く感情を無理やり抑え込み、脳内で『自分がなすべき役割』としての最適解を即座に作り出す。
「良いに、決まってるじゃないですか」
立ち止まったまま、背中越しに雪音は言う。
「現状の戦力では厳しいと仰ったのは、他でもない
†
翌日の朝は、目の冴えるような快晴だった。
視線を空から商店街へと戻し、レイははぁと大きなため息を一つ。
青い空、白い雲。人でごった返す、高崎中央銀座商店街。
緑色の雲もなければ、緑色に淡く光る水もない。あまりにも牧歌的すぎて、昨日のことが嘘のようにすら思えてくる、そんな普段通りの日曜日の光景。
……けれど。レイの消えた左腕と、そこから滲み出る緑色の燐光は、昨日の光景が現実であったことを冷然と示している。
「……いや。現実って訳でもないのか……?」
脳裏によみがえってくるのは、昨日聞いた雪音の言葉だ。
――ここは、量子サーバーが作り出した仮想世界。
――この街に存在するありとあらゆる存在は、サーバーに保存された情報、ただの記憶でしかない。現実には、何一つ存在しないわ。
……つまり。雪音はこの『高崎』に存在する全てのものを仮想だと、幻のものだと言い切った。サーバー一つ無くなれば全てが終わる世界。それは、果たして『現実』と呼べるのだろうか?
視線を自分の右手に向け、握ったり開いたりしてみる。動かす度に確かな感触があり、指がおかしな方向に曲がったりすることもない。
「そうは、思えないよねぇ……」
一人乾いた笑い声で呟き、レイは雑踏の中をゆっくりと歩き出す。行き交う人々も、商店街に店を構える人達も。みんな、レイの左腕で光る緑色のことなんかは全く意に介してすらいない。
聞こえてくる話し声の中にも、昨日の光景について話すような声は一つもない。まるで、その時の記憶が綺麗さっぱり抜け落ちてるみたいだ。もしかしたら自分がおかしくなってるのかなとすら思えてくる。
そんなことを頭の中でぐるぐる考えながらふらついていると、
「レイ」
突然、背後から聞き慣れた少女の声に呼び止められた。
振り返り、そこに見慣れた黒髪
昨日と同じ服装で、昨日と同じ、今までに見たこともないような表情をする雪音が、そこには居た。
「……雪音」
静かに呟くレイに、雪音はカッカッと軍靴を鳴らして無言で近づいてくる。もちろん、周囲の人達はその場違い極まりない
レイの前で立ち止まり、右手をすっと目の前に差し出して、
「私と一緒に来て」
少しの沈黙。レイは無言でその手をとり、しっかりと掴む。掴み返される感覚を手のひらに感じつつ、
「どこに連れてくの?」
「本当の“現実”よ」
そう言って雪音は目を瞑り、小さく一言。
「
瞬間。レイの視界と意識は数式の海に沈み込んだ。
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