第19夜 夜風に忍ぶ影
アメストリスによってもたらされた惨劇――紅月の粛清から、数刻前。
エステルはハタクとナヴァズを見送ると、薄絹の衣へと着替え、傍らでその手伝いをしていたフェリザとロザナに視線を向けた。
「……それでは行きましょう」
微かに震える声――。そんなエステルの手を、後ろからそっと包み込む温もりがあった。振り返ると、ミナとタラがそこにいた。
「いつものように待ってるからね!」
ミナの声が、頼もしく響く。
エステルにとって、彼女たちの存在は、皇帝に召される夜を耐え抜くための救いそのものだった。
苦難の夜になると、彼女たちはいつもエステルの寝室で待っていてくれた。気持ちをなだめるように、タラはリュートを弾いて、意外と歌も上手いミナがそれに合わせる。
初めて皇帝の寝所へと赴いたあの夜、涙の跡が残った顔を見た彼女たちが、顔をくしゃくしゃにして一緒に泣いてくれたのを思い出す。
それから、皇帝の呼び出しがあるたびに、どんなに遅くても彼女たちは待っていてくれるようになった。
その音色は傷つき、摩耗したエステルの心を癒し、暗い闇を払ってくれるようだった。やがて、エステルが元気を取り戻すと、一緒にささやかなお茶会をするのが習慣となりつつある。
今日も帰ったら――。
今回はミナの好物である蜂蜜とナッツの焼き菓子を、エステルが好きだからということにして、厨房の職人に多めにつくってもらったものがあるのだ。
きっと、ミナはそれを知りながら「エステル様のため」と言って、厨房の職人にお願いしにいったことだろう。
そんなことを思いながら、ほんの少しだけ自分を騙すように、楽しい未来の幻を思い描く――。
そんな矢先、フェリザが不意に足を止めた。妄想の彼方へ逃げ込んでいたエステルは少し驚いて、よろけてしまう。
慌ててエステルをロザナが支えるが、その顔はエステルではなく、唇を引き結び、鋭く前方を見据えていた。
エステルが目をやると、ペルシア軍総帥<スパーバラ>がそこにいた。ちょうど、これから入ろうとしていた王の寝所の扉から出てきたのだ。
ペルシア陸軍次帥ハマン――。
その権力は軍全体を統べるほどにまで拡大し、宮廷内でも群を抜く影響力を誇っていた。
前陸軍次帥マルドニオスは、先のギリシア遠征において、皇帝クセルクセスがサラミス沖の海戦で悪夢の敗北を喫した後も、ギリシア本土に留まり侵攻を続けた。しかし翌年、スパルタとアテナイの連合軍との戦いで戦死。これにより、空席となった陸軍次帥の座にハマンが繰り上げ就任することとなった。
だが、サラミスの海戦で敗北し、海軍の大半を失ったペルシア軍は、もはや海を支配する力を喪失していた。陸軍を束ねるハマンは、事実上、軍の全権を握るにいたり、ペルシア軍総帥<スパーバラ>と同等の権力を持っている
ギリシアでの大敗後、現実から逃げるようにクセルクセスは後宮に引き篭もり、それに呼応するように各地で反乱の兆しが顕著になり始める。
対ギリシアの防衛線維持と各地の反乱鎮圧という二つの危機に直面した軍謀府は、多くの軍師や将軍を失い、弱体化していた。
その中でハマンは、混乱の極みにあった軍謀府の状況を意にも介さず、就任するや否や直ちに指揮を執り、対ギリシア防衛線の再構築と反乱鎮圧に乗り出した。
こうして皇帝クセルクセス自身もマルドニオスがそうしたように、軍の指揮をハマンに委ねたため、もはや彼を軍総帥と呼んでも過言ではなかった。
そんなハマンは薄く笑い、ゆっくりと手を組んだ。
「おやおや、これは失礼を、皇妃殿下――。今宵は随分とお急ぎのようですな」
その男ハマンはにこやかな笑みを浮かべたまま、ゆったりとした仕草でエステルたちを見やる。
「いえ、失礼いたしました」
エステルが一言返し、先を行こうとすると、ハマンが何でもないかのように言葉をかけてきた。
「王妃殿下、お変わりなく麗しゅうございます。ですが、月夜に歩まれるお姿は、さぞ目を引かれることでしょうな」
何かを探ろうとしているのか、それとも本当になんでもない世間話なのか――。
いずれにしてもどう返せばいいのかわからず、エステルが困っていると、横にいたフェリザから助け舟が出された。
「ハマン様。この月夜にゆるりと語らえぬのは、誠に残念でございます。しかしながら、皇妃殿下は陛下のお召しを受けてますゆえ、これにて失礼させていただきます」
さらりと交わしていくその手並みに、彼女の後宮での経験値が伺えた。さすがは後宮で数多の波を乗り越えてきた女官長だと、エステルは内心で感嘆しながら目で礼を送る。
今度こそ足を進めようとしたその時、後ろからハマンの声が追いかけてきた。
「――そういえば、皇妃殿下。またもや後宮に波風が立ちそうでございますなあ。いやはや、穏やかに月を愛でる暇もないとは、まこと世知辛いことで……。」
歩みが僅かに揺らぐ――。
「皇妃殿下、夜風にお気をつけください」
ハマンの声が、背後から柔らかく響いた。それはまるで、何気ない気遣いのようにも聞こえたが、どこか探っているような違和感が拭えない。
エステルは意を決して立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
「……お気遣い、痛み入ります」
ハマンの表情は微笑を崩さない。けれど、瞳の奥に潜む冷ややかな光が、エステルの一挙手一投足を逃さず見据えている。
「夜風は静かに、音もなく忍び寄り、身体を冷やしますから」
わずかに間を置いて、エステルはそう言葉を継いだ。その返しに、ハマンの微笑が、ほんのわずかに深まった。
「なるほど。皇妃殿下は、風の動きを読むことに長けておられるようで」
ハマンの目が微かに細められる。ほんのわずか、しかし確かに、その目の奥にある「何か」が揺らぐのを、エステルは見逃さなかった。
エステルは一歩、ハマンのほうへと歩を進める。そして、意識的に柔らかく微笑みながら、さらに言葉を紡いだ。
「夜風に気づいた時には……。守るべきものが手遅れになっているかもしれません」
「……なるほど」
ハマンはふっと息をつき、そして、ゆっくりと手を組んだ。
「皇妃殿下の仰るとおり。静かに忍び寄る風は、時として最も厄介なものでございます」
「ですから、わたしは――。その風を読める方がいるのなら、とても心強いと思うのです」
エステルの言葉に、ハマンの口元がかすかに動く。しばしの沈黙――。しかし、それは拒絶ではなかった。
そして――。
「これは、光栄なお言葉を賜りました」
エステルは静かに微笑み、丁寧に頭を下げた。
「どうか、良い夜を――。ハマン様」
「皇妃殿下も、ご自愛を」
ハマンの声が、夜の静寂に溶けていく。
エステルは、わずかに高鳴る鼓動を感じながら、静かに王の寝所の扉を開けた――。
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