第11話『オーディション前夜』
オーディションまで、あと一日。
放課後の空き教室に、天宮の声だけが響いていた。
「主人公のアンナは、表面的には強気だが内心では——」
遥は目を閉じ、その声を記憶の奥に刻み込んでいく。
台本の音声化は完了している。30ページ分のストーリー、登場人物の関係性、感情の起伏——すべてが頭の中で整理され、いつでも再生できる状態だった。
だが、今日の天宮はいつもより表情が硬い。
「……で、問題はここからだ」
天宮が台本を閉じ、遥の方を見つめる。
「舞台は、声だけじゃない。君の身体そのものが楽器になる」
その言葉に、遥の胸がきゅっと締め付けられた。
「体を使う演技……ですよね」
「そうだ。立ち方、歩き方、手の動き、視線——すべてが役の感情を表現する手段になる」
「もちろん、それはわかってます……」
「つまり体の動きまで演技という制御をしていく必要がある。君は今まで、声だけの世界にいただろうからそれをどうするかが課題だね」
遥は無意識に自分の脚を見下ろした。じつは、遥かにとって演技は初めてではなかった。
——回想
映画監督でいつも忙しい父親は撮影で何日も家を空けることが多かった。
まだ幼かった遥は、それが寂しくてもっと父親と一緒にいたいと思っていた。
だからこそ父親の背中を追いかけて、遥は子役の仕事を始めた。
「この子、面白いね」
セリフが数行しかない小さな役でも、遥は他の子役とは違っていた。
台詞を丸暗記するだけでなく、なぜかその"役"になりきることができた。
「遥、すごいじゃないか」
父親が初めて、遥を見つめて微笑んだ。
その瞬間が、遥にとって世界で一番幸せな時間だった。
「今度の作品では、もう少し長い役を頼んでみる」
父親の期待。遥の胸は高鳴った。
もっと一緒にいられる。もっと認めてもらえる。
でも——その日が来た時。
「はい、これが君のセリフ。全部で二ページあるけど、漢字にはぜんぶルビがふってあるから、しっかり覚えてね」
だが渡された台本の文字が、虫のように這い回る。
一行目から、もう意味が分からない。
「お父さん……この、字が……」
「どうした?」
父親が振り返る。その瞬間、遥の目から涙がぽろぽろと溢れ出した。
「読めない……読めないよ……」
しゃくりあげる遥。その声が、静かな撮影現場に響く。
父親の表情が、みるみる変わっていった。
「……泣くな」
低く、冷たい声だった。
「台本が読めないくらいで泣くのか?それで役者になれると思っているのか?」
遥は必死に涙を拭こうとしたが、止まらなかった。
「感情を制御できない子供は、現場の迷惑なんだ」
父親の声は、もはや遥を見ているのではなく、撮影現場全体に向けられていた。
「お前一人の感情の乱れで、何十人ものスタッフのやる気が削がれる。お前一人の弱さで、作品全体が破綻することもある」
そして最後に、断言するように言った。
「台本から泣いて逃げるようでは、役者に向いていない」
その日、遥は撮影現場から連れ出された。
そして二度と、父親の現場に足を踏み入れることはなかった。
父親が求めていたのは、才能ある"役者"であって、弱さを見せる"娘"ではなかった。
——回想終わり
そんな父との苦い思い出。
そう、遥かにとって役者は初めてじゃない。
でもそれは”子役”としてだ。
高校生になっても153cmしかない小さな体。
普通の子よりも細い脚。アライグマのような小さな手。
「……わたし、舞台向きの見た目じゃないですよね」
ぽつりと呟いた言葉は、ずっと胸の奥で燻っていた不安だった。
白銀流唯のような、華やかさとは程遠い外見。
放送部なら声だけで勝負できたが、いざ舞台となると——自信がもてなかった。
「そんなことない」
天宮の返事は即座だった。
「君の見た目はそんなに悪いとは思わない。むしろ——」
そこで言葉が止まった。
天宮の目が一瞬泳ぎ、何かを飲み込むように唇を噤む。
「……むしろ?」
遥が首を傾げても、天宮は視線を逸らしたまま答えなかった。
「いや……何でもない。とにかく、君には君なりの魅力がある。それを信じろ」
その曖昧な答えに、遥は首をかしげた。
天宮が言いよどむなんて、珍しい。
何か、隠していることがあるんだろうか——
そのとき、天宮のスマホが静かに振動した。
画面に映る名前を見た瞬間、彼の表情がわずかに変わる。
「すまない、ちょっと出る」
席を立つ天宮。遥は一人、夕日の差し込む教室に残された。
机の上に置かれた天宮のアドレス帳が、風でめくれる。
そこに書かれた文字が、遥の目に飛び込んできた。
——
(え?従姉?)
遥の心臓が一拍飛んだ。
天宮と天音。なんか苗字の作りは似てるけど。
まさか、血縁関係があるなんて——
廊下から戻ってきた天宮が、慌ててメモ帳を閉じる。
「……見たのか」
「あ……すみません、風で勝手に……」
遥は慌てて謝ったが、天宮は意外にも小さくため息をつくだけだった。
「まあ、いずれ知ることになるかもしれないしな。そうだよ、俺と天音みことは従兄妹だ」
「そ、そうだったんですか……!」
遥の頭が混乱する。
憧れの天音みことと、天宮星が親戚。
それなら、なぜ遥の模倣演技をあんなに——
「俺はあの人のことをよく知っている。だからこそ、君には『天音みこと』じゃなく『音無遥』でいてほしい」
天宮の声は、いつもより低く、重い。
「彼女も……君とは別の意味で、問題を抱えていた。完璧に見える人ほど、影の部分は深かったりするんだろうな」
「問題って……」
「詳しくは言えない。俺は、君だけの『声』なら認める。でもね、あの人の『声』を、君から聴きたくない。それだけだ」
その言葉に込められた複雑な感情を、遥は完全には理解できなかった。
だが、天宮の瞳に宿る真剣さだけは、確かに伝わってきた。
◆
自宅に帰った遥は、久しぶりに母親と夕食を共にしていた。
「明日がオーディションなのね」
「うん……緊張してる」
母は遥の表情を見つめ、少し悲しそうに微笑んだ。
「遥……役者だよ。嫌なら無理しなくてもいいのよ」
「別に、無理なんてしてない」
「もう、あの人を喜ばせる必要なんてないんだから——」
母の口から出た『あの人』という言葉に、遥の手が止まった。
父のことだ。
映画監督として活動していた父親。遥が中学に上がる頃に、離婚して家を出ていった人。
「お母さん……」
「遥が頑張ってるのは知ってる。でも、『誰』かの期待に応えようとして、自分を追い詰めないでね」
母の優しい言葉が、遥の胸に染み入る。
でも——
「違うよ、お母さん」
遥は顔を上げ、しっかりと母を見つめた。
「わたしは、わたし自身のために、舞台に立ちたいの」
その言葉は、遥自身にとっても新しい発見だった。
自身の行動が誰かに認めてもらうためじゃなく、自分自身への挑戦なのだとはっきり認識できていた。
「天宮部長が、わたしのために時間を作ってくれた。翠川先生も、チャンスをくれた。だからみんなの期待には応えたい。でもね——」
「私はもう『現実』から逃げて、後悔したくないから」
母は少し驚いたような顔をして、それから温かく微笑んだ。
「……そう。なら、お母さんも応援するわ」
その夜、遥は布団の中で天井を見つめていた。
明日のオーディション。大学生や専門学校生との競争。
失読症を隠しながらの挑戦。
不安はある。でも、それ以上に——
「やってやる」
小さくつぶやいた言葉に、確かな決意が込められていた。
天宮の献身的な支援。翠川先生の期待。みんなの応援。
そして何より、自分自身が納得できる演技をしたい。
遥は枕元に置いた携帯電話を手に取り、天宮にメッセージを送った。
『明日、頑張ります。今日まで本当にありがとうございました』
すぐに返信が来た。
『君なら大丈夫だ。自分を信じろ』
その短い言葉が、遥の心を温かく包んだ。
明日はついに、新しい世界への扉が開かれる。
遥は深く息を吸い、ゆっくりと目を閉じた。
オーディション前夜の静寂の中で、彼女の決意だけが、静かに燃え続けていた。
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