第8話『もう君を使わない』

 ブースの空気が、まるで潮が引くように静まり返っていた。


 はるかは、リリスを演じ終えたその場で、糸が切れたように崩れ落ちていた。


 感情を搾り取り、思考を忘れ、魂のすべてを吐き出した後の虚脱。

 それは彼女自身にすら予想できなかった“余白”だった。


 ——まるで腫れ物のような、異様な雰囲気。


 それを破ったのは、急ぎ足でブースへと駆け込む水樹の足音だった。


「遥ちゃん! 大丈夫か!?」


 彼はすぐに膝をつき、両肩を支える。


 遥は、呆けたように水樹を見つめ——そして、ふにゃっと力の抜けた笑顔を見せた。


「……う、ううん……へへ、なんとか、声……出ました……」


 その瞬間、堰が切れたように、涙がぼろぼろと溢れ出した。


「うわあああああんっ……よかったぁ……わたし、ちゃんと……“出せた”よぉ……!」


 しゃくりあげながら言葉を漏らすその姿は、あまりにも無防備で、あまりにも純粋だった。


 さっきまで“怪物”だった少女が、今はただの——泣き虫な少女だった。


 水樹に支えられ、ブースから出てきたにいた遥に、全員が言葉を失っていた。

 だがその中の誰かが、ぽつりと呟いた。


「……いや、すげえよ君。俺、ずっと鳥肌立ってた」

「マジで、別人に見えた。……あれってどうやってんの?」


 感嘆が伝播するように広がる。


「ねえ、ほんとにあの声、遥ちゃんだったの?まじ信じられないよ……」

「正直、ちょっと怖かったけど。気のせいだったかも」


 誰もが賞賛と畏怖を混ぜた視線を向けていた。

 遥は、しゃくりながらも少しだけ胸を張って言った。


「へへ……伝わって……たら……それだけで……うれし……ぃ……です……っ」


 部室全体が、拍手に包まれる。

 天宮すら、無言のまま目を細めていた。


 その拍手の余韻が残る中、天宮がふっと口を開いた。


「……音無。良かったよ」

「は、はい……ありがとうございます……」


 そして振り返り、後方で腕を組んで座っている男へと声を向けた。


「翠川先生、次の朗読劇……彼女をヒロインにしてはどうでしょうか?」


 場が凍る。

 一年生、しかも新入部員でいきなりヒロインに抜擢など、おそらく放送部の歴史上、ありえなかったことだ。


 そかし、その場にいる誰もが「ありえる」と思っていた“提案”だった。


 だからこそ——翠川涼の、わずかな沈黙が、誰よりも重かった。



 沈黙の中、翠川涼が椅子から立ち上がった。



 その動きは、なにかの儀式のように無駄がなく、整っていた。

 白のシャツはよれひとつなく、グレーのスラックスには折り目が通っている。だが何よりも印象的なのは——その「声」を発する“構え”だった。


 口を開く前から、空気が変わった。

 それは舞台の役者が立ったときの、それだった。


 翠川涼、一つの肉体に“複数の魂”を宿す異能声優——人は彼を「万声の魔術師」と呼ぶ。


 かつて番組の企画で、少年から老女までに13人の個性を瞬時に演じ分け、一人群像劇を成立させた伝説を知らぬ者はいない。



 だからこそ、放送部顧問、翠川の言葉には重みがある。


 翠川の表情には微笑も賞賛もなかった。ただ、一人の指導者としての冷静な視線だけがあった。



「ダメだね。部のために、君をもう朗読劇には出さない」



 その一言が、部室の空気を一変させた。

 床に落ちる雫のように静かに響き、全員の意識をそこへ引き寄せた。



「——えっ?」


 遥が涙を止めるより早く、呆然と呟く。


「は?先生、今の見てなかったんですか!?」

 水樹が抗議の声を上げる。


「彼女、すごかったですよ! ステラとリリスが、本当にそこに“生きてた”……!」


 だが翠川は、静かに首を横に振る。



「違うんだ、水樹くん。すごい“だけ”じゃ、ダメなんだよ」



 天宮が、ゆっくりと息を吐いた。


「……やはり、そうなりますか」


「え? せいも!? なんで遥ちゃんにだけ厳しいんだよ!? これで“落とす”理由なんて——」



「彼女には、致命的な欠陥がある」



 翠川の言葉は淡々としていた。

 それが逆に、場を黙らせた。


「演技とはね、“調和”なんだ。例えるなら、ひとつの音楽みたいなもの。誰かが突出すれば、旋律は崩れる。音無くんの演技は……確かにすばらしかった。鳥肌も立った。震えもした。でも、あれは——劇じゃない」


 全員が黙り込む中、遥が、消え入りそうな声で尋ねた。


「……それって、つまり、わたしのせいで……劇が壊れたってことですか……?」


 翠川は頷く。


「そうだ。そして一番の問題は——君がそれを“制御できていない”ことだ」


 遥の目が揺れる。


「さっきのは、ギリギリ成立してた。なぜなら、相手が白銀流唯しろがねるいという天才だったからだ。

 彼女は、君の波に耐え、応じ、ギリギリまで飲まれずに対応した。あれが当然だと思っちゃいけない……普通の高校生じゃ無理だ。役者を壊す。君の”演技それ”は強すぎるんだ」


 天宮が、苦い声で補足する。


「そう、他の部員を巻き込んで、良くも悪くも劇そのものを“崩壊”させる力がある。しかも君自身が、まだその危険性に自覚的じゃない。

 それが一番、危ない」


 遥の手が、わずかに震える。


「わかりました……わたしADに戻ります」


「いや、それもダメだよ」翠川は首を振る。


「じゃあ……わたし、放送部、クビですか……?」



 その言葉に、水樹が椅子を蹴るように立ち上がる。


「そんな、これだけの才能を生かさないなんてありえないですよ!

 天宮! お前もそう思うだろ!?」


 天宮は目を伏せ、拳を握った。


「……俺は、部長として翠川先生の決定に従う」


「はあああ!?なんなんだよ!おかしいよこんなの!」


 水樹が怒鳴ったその時、翠川が唐突に手を叩いた。


「はいはい、そこまで。君たち、まだ“前半”しか聞いてないじゃないか」


 

「……へ?」


 部員たちが一斉に目を向ける。


「天宮くん、ということで、僕の“次の決定”にも文句言わないでね」


「えっ?」


 天宮が顔をあげる。


「……なんの話ですか?」


「いやあ、やっぱり部長の許可を得ておいた方がいいからさ」


 そう言って、ぱん、と手を叩く。



「音無くん。そういうことで!君には別の仕事をやってもらうよ」


 遥が顔を上げる。


「え? AD……じゃなくて?」


 翠川は笑みを浮かべ、ゆっくりと告げた。



「君には——この放送部を代表して、プロの演劇の舞台に出てもらう。」



「え?………ええええええええええーっ!?!?!?」



「はああああっ!?!?」


 さすがの天宮も声を上げた。

 そして遥は、口をぱくぱくと魚のように動かして、思考が完全に止まっていた。


 翠川は笑って続ける。


「2ヶ月後、僕の友人が代表を務める劇団の舞台があってね。新人を対象にした外部共演枠があるんだよ。つまり、和葉学園放送部の代表としてそこに参加してもらう」



「——プロ、って……あの……わたしがですか?しかも舞台……!?」


「うおおおおぉぉ!!やったな遥ちゃん!!!」


 水樹が飛び上がるようにして遙の肩を叩いた。


 天宮は呆然としながらも、わずかに笑みを浮かべる。


「先生、それってつまり……音無をスパルタ教育するってことですよね……」


「まあね、この才能を無視できるほど、僕は人間出来てないからね」


 そう言った翠川は、一拍置いてから遙の方をまっすぐに見た。


「ただし、忘れないでほしい。君はまだ、自分の“檻”の鍵を握ってない。

 演技に呑まれ、飲み込み、潰してしまう可能性がある限り、部内ではその刃は使わせられない。

 だが、プロの場なら、それを受け止める力を持った共演者がいる。

 だからこそ“君の異質”を試す場に、今ここで送り出す」



 それは明確な、猶予と期待。



「……それって、試練みたいなものですか……?」


 遙がぽつりと問う。


 翠川は、笑った。


「うん。なんとか乗り越えて欲しいんだ」


 遙の目に、涙がたまり始めた。


「……私の声でも、戦っていいんですね……?」


 その言葉に、遙はふにゃりと笑い、ボロボロとまた泣き出した。



「ちなみに声だけじゃないよ。音無遥くん。見た目も大事だよ、舞台なんだから」


「え?見た目?」


 そう言われた後、遥はちんちくりんな自分の体を見下ろした。


「うん。だからまずは、オーディションに受かってね」


「えええええええ!?」


 ブースの外。

 録音機器が止まっている静かなスタジオに、遙の叫びが響いていた。


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