第1話『私を救った声になりたい』
放課後、録音ブースのガラス越しに、音無 遥の声が静かに流れていた。
機材のランプがぽつぽつと点滅し、モニタに映る波形が淡く揺れている。
放課後の放送室は静かで、空気すら録音されているかのような緊張感に包まれていた。
「ねえ、
ミキサー卓の前に座る
「……録音ファイル、あの後も何度か確認したよ」
隣に立つのは、和葉学園放送部部長・
鋭利な横顔にかかる前髪の向こう、目元のわずかな揺れは、この数年間で見たことがない種類のものだった。
「で? どう思った?」
短く問うと、天宮はモニタから目を離さないまま答えた。
「——天音みこと、似ていた。あまりにも」
水樹の手が止まった。
彼がここでそんな言葉を口にするとは思っていなかった。
「似ていた、じゃないよ。……俺、最初本人かと思ったよ。
息遣いも、間も、抑揚も。全部が完璧だった。
高校生で、あのレベルの声が出せるって、正直……信じられなかった」
天宮は黙っていた。
いや、黙らざるを得なかったのかもしれない。
「天性とか、才能とか、そんな言葉で片付けられるものじゃない。
あれは……みことさんの声を何百回、何千回も聴いて、真似して、自分に染み込ませた結果だと思うぜ」
「……そんなの、僕が一番よく分かる」
水樹の言葉に、天宮がぽつりとつぶやいた。
「彼女——天音みことが、あの声を作るまで、どれだけの努力をしてきたか。……ずっと、そばで見てきたからな」
沈黙が落ちた。
ブースの中では、遥の声が滑らかに言葉を紡ぎ続けている。
それは、まるで彼女がここにいないのに、この部屋の空気を支配しているかのようだった。
「……だから、許せなかったんだね。あの声が」
「……」
「じゃあ訊くけど、あの子を落としたのって、放送部のため? それとも……天宮個人の感情?」
その言葉に、天宮の指先がわずかに震えた。
「私情を挟んだわけじゃない。むしろ——好みで選ぶことこそ、部長として最低の判断だ——
僕は、この部のために正しい判断をした。それだけだよ」
水城は小さくため息をついた。
「それ、逆に私情じゃない?
声が“推しに似ていて起用できない”って、もう感情しか残ってないじゃん」
天宮は、何も言わなかった。
「……彼女、相当努力してると思うよ。あれ、ただの真似じゃない。
あんなの、一日二日でできるわけないじゃん。
ずっと天音美琴を聴いて、積み上げてきた“執念”だよ。
それって
彼女の夢を、今ここで壊していいのか?」
水城の声には、珍しく強い熱がこもっていた。
「僕は……部長だ。個人的な想いで、部の信頼を損なうような人間にはなりたくない」
ブースの中の朗読が終わる。
ピン、とモニタの波形が最後の息を記録し、静寂が落ちた。
——そしてその静寂の中に残されたのは、遥という“声”の余韻と、
その声に一番心を動かされながらも、なお背を向ける男の、苦い矛盾だった。
◆
当然、遥本人はまだ、そんなやりとりがあったことを知らない。
ただ、自分の声が録音され、編集され、どこかの誰かに届くかもしれない——
その事実に、小さな希望と、ほんの少しの不安を抱えていた。
声には、感情が宿る。嘘も、本音も。
それが、遥にとってはずっと“呪い”だった。
子どもの頃から、
駅前のざわめきの中でも、廊下で交わされた悪口も、後ろの席のため息も——
すべてが、混線なしに耳に届いてしまう。
聴きたくない本音や嘘。建前。ごまかし。
音は、心のノイズを隠してくれなかった。
多くの音に囲まれるほど、遥の心はひび割れていった。
友達は少なかった。というより、近づくほど、音が痛かった。
……だからこそ、あの“声”に出会ったときのことは、今でも鮮明に覚えている。
外の音を聞かないように、ただノイズとして付けていたラジオから、天音美琴の朗読劇が聴こえてきた。
その声だけは——すべての雑音を遮り、遥の内側にすっと染み込んできた。
温かくて、冷静で、柔らかくて、孤独に寄り添うような音。
初めてだった。声に“守られた”と感じたのは。
その日からだった。遥は、天音みことの声だけを繰り返し聴くようになった。
(わたしも、誰かにとっての“救い”になれる声を持ちたい)
それが、遥の最初の願いだった。
今、自分の声が、ブースを越えてどこかへ届くなら——
それは、あの日の“ありがとう”を、世界に返す一歩になるかもしれない。
「あきらめたくない……。わたしも、あの人と同じ場所に立ってみたい」
また明日も、音無遥は、放送室のドアを開けようとしていた。
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