第2話 共感の男

彼の名前は笹原。

三十代前半。


出版社に勤める編集者で、眼鏡をかけた落ち着いた雰囲気の男だった。

話し方には丁寧さとユーモアがあって、初対面でも安心感を与えるタイプ。


きっかけは、知人の紹介だった。

一度食事をしたら、話が合って、二度目があって。

気づけば月に何度か会うようになった。

数日後、また笹原と会った。


***


「このあいだの話、読んだよ」

何気ないタイミングで、彼がそう言った。


「“あれ”ってさ……最後、諦めたふりして逃げるじゃない?

 あそこ、よかった。ちゃんと諦められてないのが、痛いくらい伝わってきた」

「……そこ、さらっと書いたのに」


誰にも分かってもらえないと思っていた。

なのに、彼は、そこを見てくれていた。

めちゃくちゃ、うれしかった。

胸の奥が、じわりと温かくなる。

誰かに届いたんだ、という感覚が、静かに広がっていく。

それは、俺がいつか書きたかったものだった。

誰にも言わなかったのに、言い当てられたような気がして、思わず目を伏せた。


「ごめん、変なこと言ったかな」

「……ううん。なんか、すごいなって思って」


彼の言葉は、俺のなかの、深くしまいこんでいた部分にそっと触れてくる。


***


そのとき、ふと彼の視線が真っ直ぐにぶつかってきた。

まるで、なにかを求めるように。 まるで、「この先」を期待するように。

その熱に、喉の奥がひりついた。


(……違う)


ほんの一瞬だけ、胸の奥が拒絶反応を起こした。

身体が、その熱に反応して、すこしだけ身を引いた。


彼の優しさも、共感も、心は嬉しいのに── それだけじゃ、満たされない。

いや、満たされてるのに。

それでも、足りない。

どこか、歪んだ渇望が、ずっと疼いている。


***


「……寒くない?」


帰り道、人気のない公園のベンチ。

隣に座る彼は、いつもと変わらず穏やかで、よく笑っていた。

そう言って、俺の手を自分のコートのポケットに誘い入れる。

その手はあたたかくて、優しかった。


でも――どこか、違和感があった。

嫌じゃない。むしろ、嬉しいはずなのに。

心はふわりと温まるのに、身体の奥底が、冷えているような気がした。

彼の言葉は、いつだって俺の孤独を慰めてくれる。

傷を責めず、ただ寄り添ってくれる。

それなのに、どうしてだろう。


(このままキスされたら……)


想像した瞬間、喉の奥がつまった。

身体の奥の奥で、なにかが拒んでいた。

それが何かは、うまく言葉にできない。

理由なんて、ないのかもしれない。


ただ──無理だと思った。


そう思った自分に、心のどこかでゾッとした。

彼みたいな人となら、穏やかに生きていけるのかもしれない。

そう思う自分も、確かにいる。

だけど、それは


――前の結婚のときと、同じだった。


「優しさ」に甘え、「理解」に包まれながら、 気づけば息が詰まっていた。

笹原に非はない。

それはわかっている。

でもきっと、俺の中にまだ――

「支配」によってしか、愛されている実感を持てない、

歪んだ何かが、残っている。

そんな自分が、情けない。

でも、いまはまだ、捨てきれない。


***


「……今日、これから時間ある?」


ベンチから立ち上がろうとしたタイミングで、笹原がふいにそう言った。

誘い方は、あくまで自然で、押しつけがましくはなかった。

少しだけ、迷った。

ほんの少しだけ、心が揺れた。

でもその揺れを隠すように、俺は鞄の中からノートを取り出す。


「……ごめん。締め切りあってさ、今夜はちょっと原稿進めたいんだ」


笑顔でそう答えて、話を終わらせる。

笹原が何か言いかけたのを、軽く会釈して遮るように、歩き出した。

なにも感じないふりをして。


***


家に帰って、コートも脱がずに、机に向かう。

ノートを開き、ペンを走らせる。


書きながら、自分に言い聞かせるように。


(これはただの創作だ。ただの、言葉遊びだ)


だけど、書いた言葉が自分を裏切る。


「壊れた自分を嫌いながら、それにすがって生きている。

 優しさに応えられない、それが一番の残酷だと知りながら」


スマホには、未読のままのメッセージがひとつ。

見ないふりをして、そっと伏せた。


そのふりを、俺はもう何度も繰り返している。

書くことで救われた気になって。

書くことで、何も変わらない現実から目を逸らして。


***


この話、もしかしたら、壊れてない人にはただの面倒に映るかもしれません。

でも、どこかが欠けたまま生きている人には──何かが届くんじゃないかと思っています。


そう感じた方は、よかったら★で教えてください。

https://kakuyomu.jp/works/16818792437046267681

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