第4話 社会的主義
そんな香織との付き合いが、1年くらいになろうとしていた頃のことだった。付き合っていると、
「結婚したい」
と思うようになり、そう感じていると、
「結婚がゴールだ」
と思うようになっていた。
最初から、
「結婚などというのは考えていなかった」
そもそも、
「恋愛と結婚は別物だ」
と思っていて、逆に、
「恋愛対象の人は、結婚相手ではない」
と思っていて、香織は、
「あくまでも恋愛相手だ」
と思っていたのだ。
しかし、途中から、
「この人となら結婚したい」
と思うようになり、
「結婚するなら、この人しかいない」
と感じるようになった。
「どうして、そう思うようになったのか?」
と考えると、
「お父さんを早くに亡くした」
というところからではなかっただろうか。
最初こそ、
「かわいそうだ」
という感覚からの同情だったといえるかも知れない。
しかし、それが次第に、
「自分を父親のように慕ってくれている香織が、いとおしくなってきた」
というのも、
「恋愛感情というのは、お互いに引き合っている気持ちに勢いがあるものではないだろうか?」
と感じていて、逆に結婚になると、
「自分を慕ってくれる相手をいとおしく思えば、それが結婚だ」
と思うようになった。
だから、順序が違って。
「相手をいとおしく思うことで、相手が、慕ってくれるようになった場合が、恋愛相手」
ということになるのだろう。
だから、この立場が入れ替わった時、相手を結婚相手として認識することになるのだろう。
ただ、最初から、相手が慕ってくれている場合がある。つまりは、
「好きになられたから、こちらが好きになる」
ということである。
これは恋愛であれば、
「そんな考えであれば、長続きしない」
と言われたことがあったが、それは、
「彼女として長続きしない」
というだけで、
「相手が奥さんだと考えると、好きになってくれたことで、相手を好きになろうとする気持ちが謙虚で素直な気持ちになり、うまくいくためのきっかけになるのではないだろうか?」
「成田離婚」
などと言って、
「スピード離婚」
してしまうというような場合は、
「恋愛から、勢いだけで結婚しよう」
と考えてしまうことで、相手を恋愛対象というだけで見ていて、結婚相手としてみたのが、結婚してからだということになれば、
「成田離婚」
ということも、無理もないことのように感じるであろう。
しかし、香織も二宮も、その順序を間違っていなかった。
最初こそ、香織が、
「自信がない」
と言って、ごねた時期があったが、それは、
「これからの自分たちの長い道のりから考えると、些細なことでしかなかった」
それこそ、
「雨降って地固まる」
ということだったのだ。
その証拠にそれ以降、二人の間にいさかいなどなかった。恋愛期間を1年くらい取り、その途中でお互いに、
「そろそろ結婚を考えてもいいかな?」
と思った時期も同じだったようで、
「結婚を意識した恋愛がしたい」
という二宮の言葉に、香織も二つ返事でOKしたのだ。
香織としても、
「願ったりかなったり」
二宮は香織の表情を見て、
「これからの二人の運命がはっきりと見えた」
ということを信じて疑わなかった。
実際に、自分たちの両親に対して、
「結婚の許可」
をもらいに行った時も、ほとんど波風が立つようなことはなく、ほとんど二つ返事での了解だった。
それどころか、香織の両親とすれば、
「めでたい」
とまで言ってくれて、どうやら、香織の両親は、気さくで明るい性格の娘を、
「性格的には申し分ない」
と思っていたようだが、結婚相手となると別だということで、実際に、
「結婚適齢期」
と呼ばれる時期に、娘の方から、
「結婚したい」
と言って、相手を連れてきてくれるなど、想像もしていなかったのだ。
本当は、昔はよくあった。
「近所の面倒見の好きな奥さん」
ということで、近所の男女のキューピットのようなおばさんがいたであろうが、今の時代は、そうもいかない。
何しろ、
「コンプライアンス」
というものがあり、もし、相手が嫌がっているとすれば、いや、嫌がっていないとしても、余計な押し付けにつながるようなことは、
「パワハラ」
などと言われるのがオチであろう。
会社で上司が女性事務員に朝の挨拶の時によくしていた、
「今日もかわいいね」
という、
「ただの挨拶」
であったり、
「いつ頃結婚するの?」
などというのも、
「セクハラだ」
と言われ、訴えられても仕方がないくらいであった。
要するに、会社内において、
「相手が気持ちよく仕事ができない環境を、上司の一言で与えてしまえば、それは、完全に嫌がらせであり、ハラスメントになる」
ということであった。
「これじゃあ、会話にならないじゃないか」
ということであり、へたをすれば、
「上司が部下に、命令するというのも、何かの違反になりはしないか?」
と思ってしまう。
「会社では、組織的に行動することで、成果を上げる」
というために、部署があり、それを取りまとめるのが、上司の役目のはずなのに。
「会話ができない」
あるいは
「命令ができない」
ということで、仕事が成り立つわけはない。
「いや、相手が嫌な気分にならないような会話であれば、それでいいんだ」
ということであり、
「命令に従わなければいけない」
ということは部下も分かっていることであるが、部下だって人間、上司に不信感を抱いてしまえば、
「誰が、そんな上司のいうことなど聞くものか」
ということになるわけである。
だから、
「今までのような、年功序列での上司」
ということであれば、世間話さえできれば、上司として君臨できるということであろう。
しかし、今の時代の、
「コンプライアンス」
の時代ともなると、
「部下が気持ちよく仕事ができるように、そして、セクハラ、パワハラなどというのは、論外だ」
ということで、
「上司にふさわしい人間でなければ、いくら年齢を重ねたとしても、会社は認めてくれない」
ということになる。
バブル崩壊後の、
「神話の崩壊」
というものが、今の時代を作っているというわけで。それは、
「仕事とは関係のない男女間」
においてもいえることであろう。
いや、
「男女間の方がもっとシビアではないだろうか」
会社であれば、最悪、
「会社を辞めて、転職すればいい」
といえる。
昭和までのように、
「終身雇用」
というわけではなく、
「実力があれば、どんどんいい会社に」
ということができるからだ。
しかし、実際には、
「実力社会」
とは言われるが、最初から、
「自分は上を目指す」
という覚悟を持っていて、それこそ、
「上を目指すためには、少々理不尽なことでもするという気概がないと、いくら実力社会といっても、かなうわけはない」
中途半端な気持ちで、
「どこかいいところがあれば、引き抜いてくれないかな?」
という他力本願であれば、よほど、大きな実績を残し、世間からも、人間的に、
「この人は信じられる」
と思われない限りは、そう簡単にいかないだろう。
むしろ、
「会社に多大な功績を残した」
という人間が、
「いいところがあれば、そちらに移りたい」
と思っていたとすれば、そんな人間が、他力本願などということは、考えられないことではないだだろうか?
少なくとも、
「積極的に相手に売り込む」
つまり、それくらい、自分のことをしっかりと理解していることが必要で、功績を遺すことができる人間であれば、ちゃんと自分のことを分かっているはずであろう。
そう考えると、
「実力社会」
というのは、本当に一部の人間にだけいえることで、いまだに日本は、
「終身雇用」
という体制なのだ。
リストラというのが横行していて、それを悪いことのようなイメージを持たせられない」
ということから便宜的に
「実力主義の社会だ」
ということでの、
「詭弁なのだ」
ということになるのだろう。
それが、今の時代であり、昭和時代から考えると、
「今の会社社会は、詭弁で形づけられた社会なのではないか?」
といえるような気がする。
実際には、
「セクハラ」
「パワハラ」
というものが悪いことであり、社会として、
「コンプライアンスを守らなければいけない」
ということで、あたかも、
「社員を守る」
ということのように言われているが、本当にそういう社会体制が自然にできているのであれば、そもそも、
「ハラスメント」
であったり、
「コンプライアンス」
などという言葉を使って、社会を戒める必要などないのだ。
それをしないといけないということは、
「口でやかましく言わないと分からない」
ということになるのか。
それでは、子供と同じではないか。
つまり、
「大人である、政府が、子供の社会を教育する」
という体制ができていて、
「大人である政府は、大人としての悪い部分だけを表に出し、何も分からない子供を洗脳している」
というのが、今の社会ではないかと思うのだ。
つまり、社会をスムーズに運用するには、
「いかに、政府の力で、社会を洗脳するか?」
ということになるのだ。
だから、
「ハラスメント」
であったり、
「コンプライアンス」
という言葉は、
「洗脳用語」
ということであり、洗脳するためには、自分たちが表向きだけは、どれだけ正しいということを見せつけるかが必要だ。
ということなのに、
「実際には、今に限ったことではないが、政府というのが、それだけひどいことをしていたのか?」
ということである。
それでも、一度洗脳されると、いくら政府が、能無しであっても、洗脳が解けるわけではない。
それだけ、政府のひどさに、感覚がマヒしてしまっているほど、ひどい状態であり、洗脳というものの力は、
「まるで催眠術のように、一度掛けてしまうと、そう簡単には解けないものだ」
ということになるのではないだろうか?
それが、社会と政府の構造であり、これが、
「平和ボケからきている」
ともいえるだろう。
なんといっても、
「大日本帝国時代」
というのは、
「絶対君主」
といってもいい天皇がいて、国民全員が、
「天皇は神様で、天皇のいうことを聞いていれば、幸せになれる」
ということで、そのためには、
「どんな苦労も惜しまない」
ということであった。
そして、
「苦労があればこその達成感」
ということで、
「それが当たり前のことだ」
と信じて疑わなかったのだ。
しかし、結果として、
「戦争に敗れてしまった」
しかも、戦争の大義名分が、
「欧米列強に植民地化されているアジアを開放し、日本を中心に、東アジアに、新しい秩序を建設する」
というスローガンだった。
実に立派なものであり、それを、天皇を中心とした、国民一人一人が認識し、戦争を完遂し、勝利を目指すというものである。
ただ、実際には、
「国土のほとんどは焦土となり、無条件降伏をした」
ということで、日本人の精神は崩壊したといってもいいだろう。
そこで、占領軍からの、
「勝利の理論」
というもので、やつらのいう、
「民主主義を押し付けられた」
その時の日本は、それまでの、
「天皇を中心とした君主国」
というものが崩壊し、いきなり、
「自由、平等。博愛」
という民主主義を押し付けられたので、混乱は大きい。
それまでは、天皇のいうことを聞いていればよく、目指す道は見えていた。
しかし、今度は、
「自由」
「平等」
と言われても、聞こえはいいが、
「武器も持たずに、野に放たれた」
というだけのことになってしまうということである。
しかも、
「戦争放棄」
「平和国家」
というものをいきなり押し付けられるわけで、
「いい悪い」
というのは別にして、混乱は免れないということであった。
つまりは、
「平和な時代ではあるが、果たして、それが、いい時代」
と言い切れるのだろうか?
なんといっても、
「自由」
と
「平等」
と言われるが、
「その両方が、本当に並び立つというものであろうか?」
ということになるのである。
そもそも、
「自由」
と、
「平等」
はありえない。
「人間というのは、生まれながらにして平等だ」
という人もいるが、実際にそんなバカなことはない。
「いつ、どこで、誰のところに生まれてくる」
ということを選べないわけで、
「生まれてきたところが、金持ちか、貧乏人のところか?」
ということであったり、
「平和な国であるか。戦争をしている国であるか」
ということも選べない。
へたをすると、生まれてきて、すぐに死んでしまうことになるかも知れないといえるだろう。
じゃ、死ななかったからといって幸せなのだろうか?
絶えず、死の恐怖に怯えたり、食べるものもなく、
「このままだと餓死してしまう」
ということが分かり切っているのに、それでも、生き続けなければいけないというのは、どういうことだというのか?
それでも、
「死んではいけない」
というのは、それこそ、
「死を選ぶ」
という自由がないということになる。
そもそも、
「自由というくせに、死を選べない」
というのは、正しいのだろうか?
「人間が生まれながらにして平等ではない」
というのは、
「自由」
という発想から生まれたものではないのだろうか。
「自由経済」
「自由貿易」
という観点から、平等というものは、あくまでも二の次ということになり、
「自由」
という耳障りのいい言葉の裏には、
「平等」
というものを脅かすものへの言い訳として使っているとしか思えない。
物事には、どんないいことであっても、デメリットというものがあり、メリットと比較して、デメリットの方が大きければ、悪いことであり、メリットの方が大きければいいことだとして認識されるのであろう。
そう考えると、
「自由」
というもののデメリットとしては、明らかに、
「平等を脅かすもの」
ということで、
「差別を生み出す」
ということが、問題だといえるだろう。
だから、
「見主主義の弊害」
というものは、
「差別の誘発」
ということになる。
それが、
「人種差別」
ということであったり、
「貧富の差」
というものを生み出すのだ。
だが、
「努力して実力さえつければ、勝者になれる」
という理屈もある。
しかし、今の社会が、
「努力をすれば、皆勝者になれる」
というわけではない。
社会が大きければ大きいほど、その傾向は大きく、もっといえば、
「勝者がいれば敗者がいる」
ということで、
「敗者は、勝者のために存在している」
ということになると、差別的な考えさえもなくなり、どんなに、
「差別問題を解決しようとしたとしても、民主主義に洗脳された社会」
ということであれば、
「永遠に解決できるものではない」
ということになるであろう。
それを考えて、
「今の時代の、今の体制」
を冷静に見ると、
「政府が国民を洗脳し、一つの方向に導く」
というのが、
「大日本帝国の失敗だった」
という教育を受けてきて、
「国民は、自由であり、一人一人の自由が尊重され、それが、国家においての、権利が保障されている」
というきれいごとにつながるのだ。
ということは、
「何か、国家を中心にして、それこそ、挙国一致ということでないと乗り切れない国難にぶつかった時、一致団結ということができない」
ということになるのだ。
「本来であれば、国家が国難を乗り切るだけの政策を打ち出し、国民の権利を一部制限してでも、国家を救う」
ということにならなければいけないのに、
「今の日本は、その体制を作るすべを、まず、国家が分かっていない」
といえる。
それどころか、
「自分たちの利益と保身を最優先に考えるので、その政策は後手後手に回ってしまい。その結果、国民から信用されず、バカにされる政府」
ということになるのだ。
それでも、
「他にできる人がいない」
ということで、
「このソーリでは、先行きが立たない」
ということが分かっているのに、
「政府を変える」
ということができないのだった。
今までどれだけ、
「ソーリが変われば、少しはましな世の中になる」
と思い期待したことか。
何も、飛躍的に素晴らしい国にしてほしいなどという贅沢を言っているわけではない。本当であれば、素晴らしい国にしてほしいと望むのは当たり前のことだが、それを、
「贅沢だ」
とまで思い、そこまで譲歩しているにも関わらず、
「少しはマシな」
と、最低限の譲歩にすら足元にも及ばないといわれる政府なのだから、本当にどうしようもないといってもいいだろう。
当然、国民のほぼ全員はバカにしていることだろう。
「政府を支持している」
と言っている連中だって、
「今の政府で満足している」
という人がどれだけいるだろう。
「政権交代して、野党に政治をやらせれば、それこそ、亡国になってしまう」
という恐怖から、
「仕方がないので、今の政府を応援するしかない」
ということからの、与党指示でしかないということであろう。
それだけ、今の我が国は、ひどい状態であり、
「国家として、本当に信じていいのか?」
ということになるのだろう。
「自由」
というものを、取ったことで、
「平等」
というものが犠牲になったというのが、今の民主主義で、その欠点として、
「少数派の意見が黙殺される」
ということと、
「差別が横行してしまう」
ということがデメリットの民主主義であるが、このデメリットを聞いた時点で、
「これに勝るだけのメリットというのが本当にあるのだろうか?」
ということであり、その解決策として考えられた。
「共産主義」
というものは、当初は、
「理想の社会を作る」
ということで、世界でも、
「その勢力を二分した」
という時代があったが、実際には、
「そんな時代はありえない」
ということになり、今では数か国しか、共産圏の国はなくなってしまった。
それは、
「民主主義が勝った」
というわけではなく、
「共産主義」
というものの、
「デメリットが大きかった」
ということになるのであった。
「共産主義」
というのは、まず、
「差別をなくす」
ということで、
「自由競争」
というものを撤廃した。
つまりは、会社というのは、民間での自由競争ではなく、そのほとんどが国営によるもので、給料も皆同じ、もちろん、役職によって違うのは当たり前だが、そもそも会社間での競争がないのだから、同じ役職であれば、皆給料は同じということだ。
ただ、
「自由競争のメリット」
ということで、
「働けば働くほど儲かる」
ということで、やる気のあるものが実力を発揮するということで、自由競争からは、発展というものが望めるのだ。
しかし、共産主義においては、
「一生懸命にやっても、手を抜いても、同じ役職であれば、給料は同じ」
ということで、
「誰が一生懸命になってやるものか」
ということになる。
しかも、それでも、軍事面などで、対外的に対抗しないといけないのであれば、
「一生懸命にしないと負けてしまう」
ということになる。
となると、どうすればいいのかということになるわけだが、そこで出てくるのは、
「恐怖政治」
であった。
民主主義であれば、
「一生懸命にやれば、給料が上がる」
というものであったが、共産圏においては、
「一生懸命にやらなければ、命が危ない」
ということで、実際に、彼らの政府というのは、
「反対勢力に対しての、粛清」
というものから成り立っているのだ。
実際に、共産圏の国というと、社会主義。共産主義という国ができてから、ほとんど漏れのないくらいに、それらの国では、
「大規模な粛清政策」
というのが行われてきたのであった。
何においても、
「命に関わる」
というデメリットが、いつまでも許されるわけはない。
実際に、社会主義というものが、世界に出てきて、それを主導してきた国が崩壊するまでに、
「100年もなかった」
というのが、事実であった。
つまり、民主国家というのは。
「社会主義国に勝った」
というわけでも、
「民主主義が正しかった」
というわけでもなく、そもそも、
「民主主義のデメリットを解消する理想の社会的主義」
ということで、発展してきた共産主義というものは、
「国民を命に関わる」
ということでしばりつけてきたことへの反発から、
「滅ぶして滅んだ」
ということになるのであろう。
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