星を泳ぐ小さな命

たんすい

第一話 【プロローグ】

 2097年。

 地球は、かつてない危機に瀕していた。


 産業革命以前から3.5℃上昇した平均気温は、南アジア・中東・サブサハラの一部を、日中50℃を超える灼熱の地獄へと変え、人類の定住を不可能にしていた。


 海面は約2メートル上昇。東京湾岸、バングラデシュ、ベネズエラのデルタ地帯、オランダ沿岸の都市群――かつて数億人が暮らした土地は、いまや高潮に怯える危険地帯と化している。


 低地の農地は塩水に呑まれ、肥沃だった大地は荒廃した。

 人々はわずかに残された高地や内陸都市を求めて殺到し、資源と居住地をめぐる争いが世界各地で激化した。国境の内でも外でも暴動や内戦が頻発し、人類は生き延びるために戦いながら、自らの未来を削り取っていった。


 さらに、地下水の塩水化と異常気象による豪雨が、湖沼や河川の水質を急速に悪化させた。

 水温の上昇、酸素濃度の低下――その結果、藻類の異常繁殖が進み、魚類の大量死はもはや珍しい現象ではなくなっていた。


 世界の淡水魚の約40%(およそ6000種)が絶滅、あるいは絶滅寸前。

 かつて多様な命を育み、音と色に満ちていた川は、沈黙と濁流の世界へと変わり果てていた。


 こうした絶望的な状況の中で、人類は存続を賭けた施策――

 「人口削減政策(グレートリセット)」の導入を余儀なくされた。


 密かに始動したこの計画は、十年の歳月をかけて人口の約六割を削減した。

 出生制限、居住区の統合、医療資源の選別的配分、そして宇宙移住者の選抜。

 いずれも深い倫理的葛藤を伴いながらも、地球の限界を超えないための苦渋の選択であった。


 かつて80億を超えていた人類は、2097年現在、地球上に約12億人。

 さらに宇宙居住者は50万人にも満たない。

 繁栄の記憶は遠ざかり、世界は静かに――持続可能性という名の孤独な時代へと移行していた。


 そのような暗黒の世紀にあって、なお夢を見続ける者がいた。


 ――彼の名は、神崎優希(かんざき・ゆうき)。


 絶滅の危機に瀕した魚たちを「宇宙で保全する」――

 前人未到の計画に、彼はそのすべてを捧げた。


 これは、喪失の時代を越え、宇宙に希望を繋いだ一人の科学者の物語である。

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