流離う耽譚ショート
樅木 霊
耳を診る
先生、お助けください。どうもこの耳の形状が気色悪くて仕方ありません。
国民学校に通うよりも前のこと、屋敷の踊り場にあった曇天を映す金縁の鏡を一瞥したとき、何の前触れもなくその不愉快に気が付いたのです。あれは確か、お祖父様の居る一階へ降りているところでした。もちろん慣れた場所ですから、そこに鏡があることは存じておりました。普段なら殊更に見遣りもせず通り過ぎるだけですが、その日は悍ましい怪物の横顔が一瞬だけ鏡に映ったと見えたのです。具体的な図としては憶えておりませんが、後にも先にもあんなに恐ろしいものはありませんでした。凍り付いたように足が固まって、決して見たくないと思いながらも、ゆっくり鏡の方を向かざるを得ないのです。
じっと目を合わせておりましても、頼りない幼い子があるだけで、何ともありません。けれども、恐ろしかった怪物をもう一度確かめようと少しずつ横を向くと、どうでしょう。そこで初めて耳の形が狂って見えたのです。ジャメヴュと云うやつでしょうか。今まで何度も眼に映ってきた人間の耳が、突然見るに耐えない有り様に感じられたのです。弾丸を体内で散々暴れ回らせて、無作為に掻き混ぜた少女の臓物のように、奇怪な曲線の連続は吐き気を与えてきました。お国のために旅立った逞しいお父様と似ていると言われる顔立ちでありますが、お父様の耳はこんな形でしたでしょうか。お父様だけでなく、お母様、兄上に、お祖父様。想像を巡らせど、頭の中では誰しもが耳だけ黒塗りになってしまいます。その代わり、人間を飲み込むような耳の化け物に襲われる幻覚が浮かぶのです。
鏡より目を離せぬまま、一心不乱に両手で耳を塞ぎました。ところが、手に触れる耳の複雑な感触も、芋虫を素手で握り潰すような不快と重なるのです。いくらでも変形できるほどに柔らかく、それでいて硬骨のように形状を保つという不思議。加えて、三つのときに罹った疱瘡の高熱で左耳が聾でありますので、耳を塞ぐ際の皮膚が擦れる音で片方聞こえないのを確認してしまうのも、気が滅入るものでした。当時は不要にナイーヴだったのです。兄上に遊んでもらってばかりの頃は、両耳の穴へ指を抜き挿しして、音の違いを楽しむ能天気で居られたのですが、金物屋の息子たちと遊ばされるようになると、声のする方角が判らず見回す姿を揶揄われ、穀潰しの不具廃疾と罵られますから、簡単に落ち込むようになっておりました。そんなこともあり、耳というモティーフに執着しつつ、拒絶し続けているやもしれません。
その怪物と遭遇してからは、現在に至るまで、耳の形が目に入るのを避けるようにしております。治せないものかと人体について学び、青ざめながら耳の内部構造についての知識も入れましたが、むしろ悪化するばかりでした。最近では渦巻くものの全部が恐怖の対象になっております。数年前、遊学で訪れた仏国ではエスカルゴを食べる文化があったのです。あ、エスカルゴというのは蝸牛のことであります。食用のエスカルゴは紫陽花の葉に見るものより大きく、人の耳に見えてなりませんでした。
ただ、美術館で近頃日本でも流行っているファン・ゴッホの絵画を観られたのだけはよかったです。写実から徐々に離れ行くのは、徹底的に観察したものが精神に伴って再構築されているためだと感心しました。そうして、彼が耳を削ぎ落としたという話に一等惹かれたのです。大喧嘩になったゴーガンから、耳の描き方を指摘されたことに因るそうですが、耳を切って間もなく自画像を描くという芸術家の姿勢たるや、美しいと思われませんか。
左耳はどうにでもなれと覚悟できましたが、あの痛みに再び耐えられる気が致しませんし、右耳は僅かに可愛くもあります。人から見れば惨憺たる神経衰弱でしょうが、こちらからの景色は遂に青く透き通るのです。
先生、お助けください。どうかこの右耳を切り落としてはいただけませんか。
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