第6話 千回の素振り
翌朝。
朝霧がまだ森に残る、薄暗い時間。
俺は約束通り、村の裏手にある広場に来ていた。
「おはようございます、師匠!」
俺が着くのとほぼ同時に、元気のいい声が響く。
リアだ。
昨日と同じボロボロの革鎧姿だが、その瞳はやる気と希望で満ち溢れていた。
……正直、少し眩しい。
「……師匠と呼ぶな」
「はい、師匠!」
「……はぁ。まあいい」
このやり取りにも、いずれ慣れる日が来るのだろうか。
俺は早々に諦めて、本題に入ることにした。
「さて、何から始めるかだが……」
俺はリアの全身を、頭のてっぺんから爪先までじろりと眺める。
やる気は十分。だが、体つきはまだ細く、筋肉もろくについていない。
こんな体で剣を振り回しても、怪我をするのがオチだ。
「よし、決めた。まずは素振りだ」
「素振り! はい、望むところです!」
「千回」
「……え?」
リアの元気な笑顔が、ぴしりと固まった。
「せ、せせせ、千回……ですか?」
「聞こえなかったか? なら二千回にするか?」
「い、いえ! 聞こえました! 千回ですね! やります!」
リアはぶんぶんと首を横に振ると、腰に差していた錆びた長剣を抜き、威勢よく構えた。
そして、叫びながら剣を振り下ろす。
「いーち! にーい!」
……ひどい。
見ていられないとは、このことだ。
手首はぐにゃぐにゃ、腰は回っておらず、足は地面に固定されたまま。
完全に腕の力だけで、滅茶苦茶に剣を振り回しているだけだった。
「やめろ」
俺は、十回もいかないうちに、その無様な動きを止めた。
「もう終わりですか……? 私、まだ……」
「そんな振り方じゃ、百回も振ればお前の腕が壊れる。仮に千回振れたところで、時間の無駄だ。何の意味もない」
「そ、そんな……」
リアが、がっくりと肩を落とす。
俺は、地面に落ちていた手頃な木の枝を拾い上げた。
「よく見ておけ。一回しかやらん」
俺はリアの前に立ち、ゆっくりと木の枝を構える。
そして、ただ、振り下ろした。
ヒュンッ!
木の枝が風を切る、鋭い音だけが響いた。
それは、リアが振り回していた剣とは、まったくの別物だった。
速く、重く、そして美しい。
俺の体は一切ぶれず、振り下ろされた枝の先端は、地面すれすれでぴたりと止まっていた。
「……え?」
リアは、何が起こったのか理解できず、目をぱちくりさせている。
残像すら、捉えられなかったのかもしれない。
「剣は、腕で振るんじゃない。足で地面を掴み、腰を回転させ、体全体の連動で生み出した力を、ただ刃先に伝えるだけだ。星の引力すら利用して、最小の力で最大の結果を生む。それが剣だ」
「ほ、星の引力……?」
「今の俺の動きを、その目に焼き付けろ。そして、完全に同じ動きを再現しろ。できるようになるまで、今日は飯抜きだ」
「む、無理です! あんな動き……!」
「なら、やめるか? ここで諦めて、村に帰って機織りでも習うか?」
俺の冷たい言葉に、リアは唇を強く噛んだ。
そして、悔しそうに顔を上げると、再び剣を構え直した。
「……やります」
そこからの時間は、地獄だっただろう。
リアは、何度も何度も剣を振るう。
だが、俺が見せた軌道には、到底届かない。
汗は滝のように流れ、呼吸は荒くなり、足はもつれて何度も地面に転んだ。
それでも、彼女は諦めなかった。
泥にまみれながらも、すぐに立ち上がり、ふらつく体でまた剣を構える。
その姿を、俺はただ腕を組んで、無言で見つめていた。
昼過ぎになった頃。
「アレンさーん! リアさーん! お昼ですよー!」
森の入り口から、エマがバスケットを抱えてやってきた。
その額にも、うっすらと汗が浮かんでいる。食堂の仕事の合間に、ここまで来てくれたのだろう。
「悪いな、エマ。だが、そいつは飯抜きだ」
俺が言うと、エマは俺を軽く睨みつけた。
「もう、そんなこと言わずに。リアさん、すごく頑張ってますよ。見てください、あんなにボロボロで……」
エマの視線の先で、リアがまた盛大に転んでいた。
俺は、やれやれと首を振って、エマが差し出したサンドイッチを一つ受け取った。
「……リア」
俺は、地面に座り込んで肩で息をしているリアに、ボソリと言った。
「お前、右足に力が入りすぎだ。軸足がぶれてるから、上半身にも無駄な力が入る。もっと肩の力を抜け。剣を握る指は三本でいい」
「え……?」
リアが、ハッとした顔で俺を見る。
俺は興味なさそうにサンドイッチを頬張りながら、視線を逸らした。
「……指、三本……」
リアは何かを掴みかけたように呟くと、ゆっくりと立ち上がった。
そして、俺のアドバイスを反芻するように、もう一度剣を構える。
右足の力を少し抜き、肩をリラックスさせ、剣を握る力を調整する。
そして、ゆっくりと剣を振り下ろした。
ヒュッ。
さっきまでとは、明らかに違う。
風を切る音はまだ小さいが、それでも、これまでとは比べ物にならないくらい、無駄のないスムーズな軌道だった。
「あ……!」
リア自身が、その手応えに一番驚いていた。
「師匠っ! 今の……! できました……!」
彼女は、疲れ切った顔に、満面の笑みを浮かべた。
その笑顔は、朝日よりも眩しく見えた。
「……まぐれだ」
俺は、そっけなく言い放った。
「今の感覚を忘れないうちに、あと千回振れ。日が暮れるまでだ」
「はいっ!」
リアは、疲れも忘れたように、再び元気よく素振りを始めた。
その姿を横目に見て、俺は残りのサンドイッチを口に運ぶ。
存外、悪くない味だった。
エマは、そんな俺たちの様子を、微笑ましそうに見守っていた。
だが、その時。
彼女はふと、森の奥から、誰かに見られているような、冷たい視線を感じた。
不安になってそちらを振り返る。
「……?」
木々が風に揺れるだけで、そこには誰もいなかった。
(気のせい……かな?)
エマは小さく首を傾げた。
だが、俺は気づいていた。
エマが感じた、あの粘つくような視線に。
それは、ただの動物のものではない。
明確な意思を持った、第三者の気配。
俺は、リアの訓練を熱心に見守るふりをしながら、意識の大半を、その見えざる敵の気配を探ることに集中させていた。
どうやら、お遊びの時間は、そう長くは続かないらしい。
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