第一巻 福沢諭吉集

「学問のすゝめ」

 城塞都市アルンデアの朝は早い。

 最初に活動を始めるのは汚わい屋だ。まだ暗いうちから午前中いっぱいかけて、各建物の糞尿を採取する。

 集めた糞尿は城壁の外にひろがる麦畑の、さらに外側まで運ばなくてはならない。


 空がうっすらと白み始めたころ、農民たちが眠い目をこすりながら家から出てくる。

 彼らは黙々と作業する汚わい屋に軽蔑の視線を向けると、城門を出て各々の持ち場に散っていく。

 日が昇り始めると、商業地区では丁稚の小僧が店先の掃除や水まきを始める。


「おっと御免よ、でもトロトロ歩いてるのが悪いんだぜ。ははははは」

 なかには手元が狂ったふりをして、汚わい屋に水をひっかけてからかう不届きな小僧もいる。


 一仕事終えた丁稚たちが薄いスープと堅パンの朝食をとるころ、工業地区ではドワーフの親方がかまどに火を入れ始める。

 荷車を引いて肥桶を運ぶ汚わい屋が窓を横切るのを見て、ああはなりたくねえな、とつぶやく。


 遠くでカンカンと鳴りひびく槌の音で目覚めた貴族たちは、メイドが運んできた朝食をベッドで食べ始める。

 今日は登城する日なのか屋敷で書類にサインをする日なのかを、ぼんやりとした頭で思い出そうとする。

 貴族屋敷の門前では、下男が汚わい屋に文句を言っていた。


「遅えんだよ馬鹿野郎。五分も待たせやがって」

「すいません、悪ガキに水をぶっかけられたんで……」

「知るかよ、臭いからさっさと持って行け」


 下男の足元には、屋敷の主人一家、使用人やメイドたちの糞尿が入った三つの壺が置かれていた。

 それらを肥桶に移す汚わい屋を眺めながら、下男はヤバイ金額に膨れ上がっている博打の借金を、どうやって返すか考えていた。

 そして最後に活動を始めるのが芸人だ。


       〇


「ヒューさん! いいかげん起きてもらわないと困るんだよ!」

 おかみさんの怒鳴り声で目覚めたぼくは、毛布を引っぺがされているのに気づいた。


「いやらしいなあ、おかみさん。覗いちゃだめですよ」

「なに言ってんのさ、昨日の服装のままじゃないか」

 おかみさんが手に持った毛布を投げつけてきた。


「本当だ。飲みすぎちゃって覚えてないや」

「芸人ってのは、何でこうもだらしないのが多いのかねえ。さっさと朝食を片付けてもらわないと、お昼の支度ができないのよ」

「芸人ギルドの指定下宿に登録したのが運の尽きですなあ。なにしろ我々にとって、夜遊びというのは芸の肥やしなわけで……」

「いい加減におし! そんなに肥やしが欲しけりゃ、汚わい屋になればいいでしょ!」

「あ痛たたたた、二日酔いなんだから怒鳴らないでくださいよ……それにしても、汚わい屋とは上手いこと言いますね」

「ナメてもらっちゃ困るよ。あたしゃ、ヒューさんがおしめのころから芸人の世話をしてるんだ。そこで得た教訓はひとつ。言うことを聞かない下宿人は問答無用で追い出すに限るってね」

「す、速やかに朝食を片付けてきます!」


 下宿を追い出されてはかなわない。ぼくは慌てて食堂に下りていった。

 食堂では一足先に起きたケーンが、ものすごい勢いで豆のスープをすすっていた。


「相も変わらず豆のスープにかぶのピクルスか。いいかげん飽きてきたな。それにしても、あれだけ飲んだのによく平気だな」

「ヒューが弱すぎるんだよ。すぐに潰れてるようじゃ、ほかの芸人にナメられるぞ」


 ケーンは年下のくせに、ぼくよりずっと世慣れている。

 鍋に残ったスープを一生懸命かき集めて、ようやく皿の八割ぐらいを埋められた。まあ食欲がないから良いんだけど。

 ぼくは具材には手を付けず、スープの汁だけを飲んだ。


「食わないんなら、おいらが貰っとこう」

 伸びてきたケーンのさじをはねのけると、


「後で食うんだよ、あとで」

 残った具材をパンにはさんで懐にしまった。


「ところでケーンはこれから予定があるのか?」

「なんで?」

「きのう授かったスキルを見てもらおうと思って」

「そういえばそんな事を言ってたな。どんなスキルだ? 歌唱力か演奏力か、それとも魅力か?」

「ブンガクゼンシューだよ。きのう言っただろ」

「酔っぱらって覚えてないや。それにしても聞いたことのないスキルだな」

「なんか演目が増えるスキルみたいだけど、良く分からないんだ」

「演目が増える? どれくらい?」

「三つか四つぐらいだったかな」

「それだけかよ」

 途端にケーンはつまらなそうな顔になった。


「だからちょっと試してみたいんだ。付き合ってくれよ」

「悪いけど無理だ。いまから劇場に行ってリハーサルをしなくちゃ」

「だったら明日はどうだ?」

「残念でした。明日は本番だから朝イチで劇場入りだ」

「本番ということは、いよいよ舞台デビューか」

「熱を出した女優の代役だけどな。おいらの場合、子役も女形おやまもできるから、こういった緊急事態には重宝されるんだ。そんな時だけは、このツラに生んでくれたお袋のマンコに感謝したくなるぜ」


 美しい顔に似合わぬ言葉遣いにギョッとする。どうもケーンは育ちの悪さを隠し切れないところがある。


「なあ、ちょっとで良いから見てくれよ。良く分からないスキルだから、検証したいんだ」

「女優が復帰したら、いくらでも見てやるよ。そうだ、いっそのこと今から広場に行って、ぶっつけ本番で発動してみるのはどうだ」

「そんな無茶な!」

「いやいや、それぐらいの度胸がないと、この先やってけないぞ。それにな……」

 ケーンはぼくの肩を抱いて顔を寄せてきた。


「たとえ失敗したとしても、それはそれで美味しいじゃないか」

 たしかに芸人仲間のあいだでは、この手の無茶は武勇伝と受け止められることが多い。

 美味しいと言われて、やってみたくなるのは芸人の性だ。


「そうだな……よし、今から広場に行ってくる!」

「いってら~」

 というわけで、ぼくは商売道具の六弦琴を抱えて、すっかりお馴染みとなったスラムの広場へと向かった。


       〇


 ちょうどお昼がおわって食休みの時間になっていたので、広場はかなり賑わっていた。

 ところが不思議なことに同業者の姿が見えない。首をひねっていると後ろから声をかけられた。


「ヒューさん、来てくれたんですね。今日は来ないんじゃないかと思って、心配してたんですよ」

 ふり返ると、先月から活動を始めた新人の軽業兄弟が、ホッとしたようにこちらを見ていた。

 この兄弟は蜥蜴人リザードマンで、大柄な弟が小柄な兄を投げたり振り回したりする芸で売っていた。


「どうしたの、かき入れ時なのに油を売ってていいの?」

「ぼくらだけじゃ無理ですよ。ただでさえおっかない場所なのに、先輩が居てくれなかったら何をされるか……」


 スラムの洗礼に耐えきれず、行方をくらます新人は多い。

 ぼくが通い始めたころの先輩はみんな消息不明になっていた。いまや、ぼくが広場の最古参である。

 この兄弟も遠からず逃げだす予感はするのだが、切り捨てるのも冷たすぎるので、何かアドバイスでもしようか。


「スラムなんて栄養失調のやつばかりだぞ。何かされても、おまえらの身体能力なら十分太刀打ちできるだろ。だいたいお前らは気が弱すぎる。先輩を待つんじゃなくて、先輩の客を分捕るぐらいの図太さがなくては、この業界でやってけないぞ」

「分かりました、ヒューさん。ぼくたち頑張ります!」


 軽業兄弟は目を輝かせながら持ち場に戻っていった。

 偉そうに説教したが、ぼくだってようやく芸歴一年になろうというド新人なのだ。

 芸人のしきたりとか街の内情なんかは、まだ分からない事のほうがおおい。

 気を取りなおして六弦琴を構えると、ぼくは自分の定位置に立った。


「ステータスオープン」

 女神から教わった呪文を唱えると、昨日と同じく空中に板が浮かび上がった。板にはこんな文字が書かれている。


『ヒューロッド・トラーソン(15)

 称号 : 詩グルイ

 職業 : 吟遊詩人

 装備 : 六弦琴

 メインスキル : 文学全集 Lv.1

 サブスキル : 歌唱 剣術 農業 算術 楽器演奏』


 欲しかった歌唱や楽器演奏が、サブスキルとはいえちゃんと入っていることに安心した。

 こういう情報が見られるというのは、なかなか便利だ。

 ふつうは最初に女神から口頭で教わるだけだ。それ以降は鑑定士に見てもらうしか知るすべがない。

 昨日はどうしたんだっけ。そうだ、確かこの辺を指で触ったんだ。

 ぼくは『文学全集』と書かれた文字列に触れた。すると画面が変わり、別の文字列が表示された。


『日本文学全集 近代編 ▲

 第一巻 福沢諭吉集 ▲

       「学問のすゝめ」

       「西洋事情」

       「窮理図解」

       「文明論之概略」』


 その下には〇の中に/が入った記号がずらりと並んでいた。

 この画面がゲームのインターフェースを模したものだとすると、現時点で二巻以降は施錠ロックされてるという事だ。

 おそらく開錠アンロックするには何らかの条件をクリアする必要があるのだろう。


 いきなりゲーム知識が出てきて戸惑われたと思うが、じつはこの画面を開いたとたん、ぼくの脳みそが変質してしまったのだ。

 例えるなら脳のリミッターが外れたような状態だ。記憶を掘ればいくらでも思い出せた。自分が知らない知識までも。


 福沢諭吉はむかしの偉い学者の名前だ。ぼくの頭にはその人の肖像画が浮かんだ。なぜか一万という数字も同時に浮かぶ。

 そして『学問のすゝめ』という文字列には強烈な懐かしさを感じた。冒頭部分をわけも分からず暗唱させられた思い出がある。

 いや、そんな思い出があるはずないんだけど。


 とにかく、この本は学問の重要性を述べた啓蒙書で、出版当時は大変なベストセラーとなった。

 開国したばかりのちっぽけな島国が、わずか半世紀で列強国に成長した原動力になったという説まである。

 ぼくは確信した。みんなに学問のすゝめの内容を教えれば、この国は何倍も発展するだろうと。


 タイトル文字を指で触れると、思った通り画面が切り替わって本文が表示された。

 ぼくは今や六弦琴ギターの正しい演奏法を知っている。伴奏は定番のカノン進行でいいだろう。

 その場でこの国の言葉に翻訳しながらなので、ゆっくりとした朗読口調になるはずだ。


「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり

 されば天より人を生ずるには

 万人は万人みな同じ位にして

 生まれながら貴賤きせん上下の差別なく……」


 朗読を始めると常連客たちが近寄ってきた。

 しかし普段やってる豪傑バンダーやカルドーン逸話集と全く違う内容だと気付くと、みんな戸惑いの表情を見せた。


「……人学ばざれば智なし

 智なき者は愚人なりとあり

 されば賢人と愚人との別は

 学ぶと学ばざるとによりてできるものなり」


 続いて異変を察知した周囲の人たちが集まってきた。

 最初はニヤニヤしながら聞いてた人も、内容が進むにつれてじょじょに真剣な表情になっていく。


「かかる愚民を支配するには

 とても道理をもってさとすべき方便なければ

 ただ威をもっておどすのみ

 ……こは政府のからきにあらず

 愚民のみずから招くわざわいなり」


 いまや広場にいたすべての人が僕の周りに集まっていた。

と静まり返った中にぼくの朗読と伴奏だけが響いていた。みんな固唾をのんで論説の成り行きを見守っている。


「人民もし暴政を避けんとほっせば

 すみやかに学問に志し

 みずから才徳を高くして政府と相対あいたい

 同位同等の地位に登らざるべからず

 これすなわち余輩よはいすすむる学問の趣意なり」


 タイトルを回収したところで演奏を止めた。一時間かけて初編と二編を朗読したことになる。

 画面の下にあるEXITを押すとインターフェースが消えた。そのとたん、脳みそに再びリミッターがかけられた。

 まるで夢から覚めたようだった。夢の中で理解してたことが、覚めたとたんに思い出せなくなる、あの感覚だ。


「えーと……」

 広場は水を打ったように静まり返っていた。みんな凍り付いたようにその場で固まっている。

 若者は続きを期待するような目でこちらを見ていた。老人はおびえたように下を向いていた。中年は判断に困ったようなあいまいな表情で空中を見ていた。

 その中に、恨みがましい目でこちらをにらむ蜥蜴人リザードマンの軽業兄弟を発見した。

 なんだか急に怖くなってきた。


「あのですね、ただいまの演奏は……あっ!」

 ぼくは驚愕の表情で前方を指さした。

 その場いた全員がいっせいにそっちを向いたすきに、全速力で広場から逃げだした。

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