第26話:ラッキーな配達員
わたしは星影学園・二年C組、森岡真琴。
その日の午後六時、外はまだ真夏の名残を引きずっていて、室温計は三〇度を超えていた。九月だというのに、秋の気配なんて微塵もない。家の中はむわっとした熱気に包まれ、エアコンをつけても効きが悪い。
誰もいない家で、わたしは汗を流すためにシャワーを浴びた。さっぱりしたものの、そこで痛恨のミスに気づく。――ショートパンツを持ってくるのを忘れたのだ。
脱衣所に置いたのは下着とTシャツだけ。二階の自室に取りに戻るのも面倒くさい。
(まあいいか、誰もいないし……)
そう割り切って、Tシャツと下着姿のままリビングへ直行した。
リビングはカーテンを閉めてある。外から見える心配はない。ソファに寝転がって漫画を開く。ジャンルはBL。友達に勧められて買ったばかりで、続きが気になって仕方がなかった。
「ふふっ……やっぱ攻めの顔いいな……」
ページをめくる手が止まらない。暑さも忘れ、夢中で読み耽っていた。
そんなとき、玄関のドアがガチャリと開く音がした。
「姉ちゃん、なんだよその格好!」
弟の翔太が帰ってきた。制服のシャツをだらしなく脱ぎかけ、鞄を床に放り投げながら目を丸くする。
「なにが?」
「パンツじゃん! ショーパンくらい履けよ」
「あー……忘れただけだって。暑いからちょっと涼んで、それから取りに行こうと思ってたの」
「はぁ……」
翔太はため息をつき、冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぐ。
「そういえば父さんと母さん、残業で遅くなるってさ」
「了解。晩ご飯は適当にチンするよ」
わたしは軽く返事し、再び漫画に視線を戻した。翔太の存在などすぐに意識の外に追いやられる。
(やっぱりこの作家さんの受け、最高にかわいい……!)
完全に物語に没頭していた。
「……俺も、シャワー浴びてくる」
翔太がそう言ったのも、耳に届かなかった。
そして五分後。
――ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
「翔太ー! 玄関お願いー!」
声を張り上げたが返事はない。浴室の水音が微かに聞こえる。
(うそ、シャワー入ってんの? 最悪……)
一瞬、居留守を決め込もうとした。だが、脳裏に浮かんだのは今朝メールで届いた通知。予約していた通販のBL本が「本日配達予定」とあった。
(まさか……これ、私の本じゃない? いや、絶対そうだ。受け取らなきゃダメなやつ!)
慌てて室内モニターの受話器を取り、声を作る。
「はーい?」
「宅配でーす」
低めの男性の声が返る。
(やっぱり……来ちゃった……!)
しかし今のわたしはTシャツと下着だけ。履くものがない。リビングを見渡すが、どこにもショートパンツはない。
(どうする、どうする!? このまま出られるわけないでしょ……)
二階まで取りに行くのは時間がかかる。結局、洗面所のラックに掛けっぱなしだったバスタオルを手に取り、腰にぐるぐると巻きつけた。苦肉の策だが、これしかない。
「は、はーい。すみません、変な格好で」
玄関を開けると、若い配達員が立っていた。
黒いキャップに、夏の陽射しで焼けた腕。額の汗を手の甲でぬぐいながら、段ボールを抱えている。
「こちらお届け物です。サインお願いします」
「は、はい」
ボールペンを握り、伝票に名前を書く。手は震え、字が少し滲む。
(落ち着け、落ち着け。今だけ耐えれば大丈夫……!)
ところが、その瞬間。
腰に巻いたタオルが、ストンとずり下がった。
「うわぁっ!」
慌てて片手で押さえるが、下着姿が一瞬あらわになったのは間違いない。
配達員の青年は目を見開き、数秒固まった。
「……っ、す、すみません!」わたしがタオルを巻き直しながらそう言うと、配達員は慌てて視線を逸らしながら伝票を受け取った。
その態度が逆に「確かに見た」証拠のようで、わたしの心臓は破裂しそうになる。
「い、いえ……ありがとうございました!」
配達員の青年の声が裏返った。
青年はお辞儀をして足早に去っていく。靴音が階段を駆け下りるように遠ざかり、わたしはようやく息を吐いた。
(ぜ、絶対に見られた……! しかも向こうも動揺してたし……最悪……!)
そのとき。
「姉ちゃん、なにやってんの?」
タオルを腰に巻き直したわたしの姿を、翔太がリビングから覗いていた。髪を濡らしたまま、ニヤニヤしている。
「な、なんでもない!」
「いや見てたから。タオルずり落ちただろ? ちょっと笑ったけど」
「一瞬だから見えてないでしょ!」
「いーや見られてたね、配達員のお兄さんにラッキースケベのお裾分けとか気が効くな」
「うるさいっ!」
顔を真っ赤にして怒鳴る。翔太は腹を抱えて笑いながら部屋に戻っていった。
ソファに座り直す。膝の上には新しいBL本。けれどページを開く気には到底なれなかった。
(ああもう、これから毎回配達のとき思い出すんだろうな……最悪……)
九月の夜、外の蝉が最後の力を振り絞るように鳴いていた。わたしの黒歴史も、あの声に負けないくらい大きく響いている気がした。
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