第22話:父と娘

 宮崎優実は、星影学園・二年C組の陸上部員だ。

 その日のメニューは十キロ走。汗でシャツも下着も肌にべったりと張りつき、風呂に入ってさっぱりしたい――そう思って親友の美咲と近所のスーパー銭湯にやって来ていた。


 脱衣所で着替えの確認をしていたとき、優実の表情が固まった。


「……ない」


 バッグの中をひっくり返しても、替えのパンツだけが見つからない。

 今はいているものは汗で湿り、もう一度つけ直す気には到底なれなかった。


「え、替えの下着わすれちゃったの? お風呂寄るのやめとく?」

「せっかく来たんだし入りたいよぉ。美咲、どうしよう……」


 葛藤の末、優実はスマホを取り出した。母は今日は同級生と外食と言っていた。頼れるのは父しかいない。


「お父さんに頼んでみる」

 優実のつぶやきに、美咲は目を丸くした。

「え、お父さん!? わたし、お父さんに下着とか絶対頼めないけど……」

「一緒にお風呂はいるとかは無理だけど、下着持ってきてもらうくらいなら大丈夫でしょ」

 優実はスマホを操作しながら、少し得意げに言った。

「お父さん、兄には厳しいけど、わたしには甘いからね。1オクターブ声高めで頼めばいける」

「ついでにアイスおねだりしよ」

 美咲は呆れたような、尊敬するような複雑な表情を浮かべる。


 * * *


 コール音のあと、父の声が聞こえた。

『ん、優実か。どうした?』

「お父さん、ゴメンちょっと頼みがあるんだけど」

 優実は可能な限り可愛らしい声を出した。

「今、丸の湯にいるんだけど、替えのパンツ忘れちゃってさ……持ってきてくれない?」

 電話の向こうで、父は一瞬黙り込む。

『パンツ!? そんなの今履いてるのを履けばいいだろ』

「やだよ! 今日十キロ走ったんだから、汗でびちゃびちゃだもん!」

『……お前なぁ』

「お父さんもついでにお風呂入れば? あとアイス奢って!」

 駄々っ子のように続けると、父は「はぁ……」と深いため息をつき、根負けしたように言った。

『仕方ねえな。十五分待てるか』

「うん! ありがとうお父さん! 大好き!」


 電話を切ると、美咲が吹き出した。

「何いまの声! 途中で笑いそうになったよ」

「十五分後に持ってきてくれるって! この調子なら三百円のアイスいける! 美咲の分も頼むね!」

「えー、ほんとに? 神!」


 優実はガッツポーズを決めた。


 * * *


 一方そのころ、自宅。

 父は娘の部屋を覗き込み、首をかしげていた。


「優実の下着ってどのタンスだ?」

 引き出しを開けてもどこにあるのか見当もつかない。

(下手に触ったらあとで怒られるな……)


 諦めて部屋を出ると、乾燥機が止まっているのが目に入った。

「乾燥終わってるな……これでいいか」

 まだ温もりの残る洗濯物の山から、パンツを三枚と黒いブラジャーを一枚つかむ。


(ブラジャーもあったほうがいいだろ……たぶん)


 適当な袋に詰めて、車で銭湯へ向かった。


 * * *


 スーパー銭湯の自動ドアをくぐった瞬間、父は場違いな視線を感じた。

 半透明の袋の中で、下着らしき布がちらついている。


(これ……思ったより恥ずかしいな。別に悪いことしてないのに……)


 心臓が妙に高鳴った。


「持ってきたぞ」


 娘に袋を差し出した途端、優実の声が跳ね上がる。


「ちょっと! パンツとブラ、お母さんの入ってるじゃん!」

「えっ……本当か?」

「本当だよ! わたし黒の下着とかつけないってば! しかも袋、半透明だから中見えてる!」


 ロビーの視線が一斉に集まる。OLらしき女性が笑っているのが見えた。父の顔も赤くなった。

 優実は慌てて袋を胸に抱え込む。隣で美咲は腹を抱えて笑い転げていた。


「やめて! 笑ってる場合じゃないから!」


 父は無言で頭をかいた。――恥ずかしいのは娘だけじゃない。パンツ入りの袋を持って公共施設に来る父親もまた、十分に赤っ恥だった。


 * * *


 四十分後。風呂から上がった優実と美咲は、休憩所で新聞を広げる父を見つけた。


「お父さん、お待たせ」

「ほら、これでアイス買ってこい。俺の分もな」


 父は千円札を差し出した。優実は少し照れながら受け取る。


「ありがと! 美咲、何味にする?」

「ストロベリー! 優実は?」

「わたしはバニラ。お父さんはチョコミントね」


 三人は券売機でアイスを買い、丸テーブルに並んで腰を下ろした。


「うまっ!」

「走ったあとにこれ最高!」

「……お前ら、これ高いアイス買ってきただろ?」


 父は苦笑しながらも、冷たいアイスを口に運んだ。娘とその友人に挟まれて食べるそれは、なんだかんだで悪くない。


 けれどロビーで浴びた視線を思い出すと、胸の奥がまだ熱い。

 パンツを届けに来ただけなのに――父にとっても忘れられない夜になったのだった。

 

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