第20話:昨日のわんこ

 わたしは星影学園・1年A組、竹内ゆかり。


 学校に登校して、椅子に腰を下ろした瞬間――妙な違和感が走った。

(え、なにこれ……スースーする……?)


 嫌な予感しかしない。そっとお尻を動かして確かめる。……穴が、空いている。よりにもよってパンツに。


 血の気が引いていくのを感じながら、昨日の夕方を思い出す。


***


 ソファで漫画を読んでいたとき、愛犬ラッキーが「ワン!」と吠えて、白い布を咥えて走り抜けた。

「こらラッキー! 返しなさい!」

 母が必死に追いかける声。


 でもわたしは見向きもしなかった。いつもの光景だからだ。

 ラッキーはとにかく洗濯物が大好き。Tシャツも靴下もタオルも、彼にかかれば獲物でしかない。

(またやってる……まあ、母がなんとかするでしょ)

 ページをめくりながらそう思った。


***


 その結果が、これ。

 穴あきパンツで学校に来てしまったわたし。スカートは膝丈より短め。座ってるだけでも危険なのに。


「ゆかりー」

 となりの席の由紀が振り向く。

「いまから全校集会だって。体育館集合だよ」


(最悪……! よりによって体育館!?)


***


 体育館は生ぬるい空気でむわっとしていた。

 全校生徒がずらりと並び、校長先生の長話を聞かされる。わたしたち1年生は後方で体育座り。


(これ、体育座りが一番危険なんだってば……)


 両足を閉じて、必死にスカートを押さえる。

 穴の位置がどうなってるか考えるだけで心臓が痛い。前の男子がちらりと振り向いた瞬間、全身が凍りついた。


(絶対見えないようにガード! わたしのすべては今、この瞬間にかかってる!)


 でも校長先生の声は子守歌みたいで、だんだん瞼が重くなる。うつらうつらしたそのとき――ハッと目を覚ました。


 わずかに膝が開いていた。

(やばっ……!! もしかして今、全部……!?)


 汗が一気に噴き出す。前の男子の肩が揺れてる。笑ってる? いや、考えすぎかもしれない。でももしも本当に――。


(もう、わたしの人生ここで終わったかもしれない……!)


***


 二時間目が終わって、更衣室に移動する。

 今日の体育はバスケ。でもそんなことより、わたしは「どうやってこの状況を切り抜けるか」で頭がいっぱいだった。


 みんながガヤガヤと話しながら着替える中、わたしは端っこのロッカーの影に逃げ込む。スカートを脱ぐ瞬間なんて、誰にも見られたくない。だって、パンツに穴が空いてるんだから。


(ここなら……誰も気づかないで……)


 と、祈るように腰をかがめていたら――


「ちょっと、なにコソコソしてんのー?」


 突然、ひょいっとスカートをめくられる。

「きゃあっ!」

 反射的にスカートを押さえたけど、もう遅い。目の前でニヤニヤしているのは、もちろん由紀。


「やめてよっ!」

 必死に隠すわたしを、彼女はじっと見て――あっさり笑った。


「もしかしてセクシーなやつでも履いてんのかと思ったけど、普通じゃん!」


 その一言が逆に胸をえぐった。だって彼女は、穴の存在には気づいていない。でもわたしは「気づかれたら死ぬ」という前提で生きてる。

 冷や汗でシャツが背中に張り付いていく。


(お願い、もう放っておいて……! わたしはそっと死ぬまで隅っこで暮らしたいんだから……)


***

 授業がすべて終わったとき、わたしは心の底から「今日一日を生き延びた」と思っていた。

 でも、国語の課題は待ってくれない。『走れメロス』の原文を探すため、図書室へ。


 全集の棚、一番上。どうしてこういうときに限って、一番上にあるの。

 脚立に足をかけて、そっと登る。


(誰もいない……よし……。今のうちに取って、すぐ降りれば大丈夫……)


 慎重に手を伸ばした、その瞬間――


「お、竹内も探してた?」


 背後から声。

 振り返るまでもなくわかる。中西くん。しかも立ち位置、最悪。脚立の真下。完全に“見える”ポジション。


(……終了しました)


 脳内で鐘が鳴る。

 人生終了の鐘。どこからともなく「ゴーン」と響いてくる。


(女子としての人生、ただいま終了しました。今までありがとう。さようなら)


 体中の血が逆流したみたいに熱くなって、わたしは慌てて脚立を降りた。

 手にしていた本はぎゅっと抱きしめ、顔は赤く火照る。心臓はマラソン選手みたいに暴れまわっている。


「ご、ごめん!」


 思わず飛び出したのは、意味不明な謝罪の言葉。

 何を謝っているのか、自分でもわからない。


「あの、見えたよね?」


 声が震える。自分から言わなければよかったと、言った瞬間に後悔した。

 でも、もう取り消せない。


 中西くんは一瞬、きょとんとした顔をして――少しだけ視線を逸らした。

「……その、ちょっと……」


 その曖昧な返事に、わたしの脳内では警報が鳴り響く。

(やっぱりだ! 見られたんだ! よりによって穴あきパンツを!)


「……ごめん、白いのみえちゃったけど、誰にも言わないから」


 中西くんは、声を小さくして言った。

 その頬がうっすら赤く染まっているのに気づいて、わたしの心臓はさらに暴れる。


(……やっぱり、そうなんだ。見えたって、認めた……。)


 でも、その言い方。すごく言いにくそうに、口ごもるみたいに“白いの”って表現して……。


(……やっぱり穴があいてたことも気づいてるよね?)


 わたしは本を抱きしめたまま、うつむいて声を震わせる。

「……そ、そう……ありがと……」


 中西くんは「いや、ほんと大丈夫だから」と気安く笑ってみせるけど、その笑顔さえ優しさで真実を隠してるように見えてしまう。

 ぐるぐる回る頭を抱えながら、わたしは図書室を飛び出した。


***


 家に帰るなり、ソファに倒れ込む。

 隣でラッキーがしっぽを振っている。


「……あんたのせいだからね。穴あきパンツ、ばっちり見られたんだから……」


 ラッキーは首をかしげて「ワン」と一声。

 その無邪気さに、もう一度心が沈んだ。


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