記憶喪失サブスク

ちゃろん

第1章:記憶の隙間

「今日は三月十二日、火曜日」


天音ユリは、枕元の端末に表示された日付を小さく読み上げた。午前六時。薄暗い部屋で、青白い光が彼女の輪郭を静かに照らす。いつもと同じ時間に目覚め、いつもと同じように、昨日の記憶が曖昧だった。


ベッドから起き上がり、失われた昨日を手繰り寄せようとする。学校には行ったはずだ。でも、何を学び、誰と話し、何を感じたのか。その手触りだけがない。まるで、自分のものではない誰かの記録映像を、早送りで見た後のようだ。


「……またか」


諦めの混じったため息が漏れる。これが日常だった。人間の記憶なんて、もともとこんな風に不確かなのかもしれない。そう思うことで、心の隙間を埋めようとした。


洗面台の鏡には、黒いボブカットの、物足りないような瞳をした少女が映っている。十七年間、見慣れているはずの顔。それなのに、時々ひどく他人行儀に感じる。ユリは水を手に取り、顔を洗った。冷たさが、一瞬だけ意識を鮮明にする。


ふと、ユリが手を伸ばした枕元の端末画面が、一瞬だけ砂嵐のように乱れた。

「……静電気かな」

小さくつぶやき、スケジュールアプリを開く。『今日の予定:学校』。昨日も、一昨日も、その前も同じ。変化のない、安全な毎日。


制服に着替えながら、ふいに頭の中に声が響いた。

『ユリ、大丈夫か?』

男性の声。優しくて、少し掠れていて、ひどく懐かしい。夢の中でよく聞く声だ。この声だけが、霞んだ日常の中で唯一、確かな輪郭を持っていた。

「誰……?」

問いかけても、答えはない。


一人きりの朝食。テーブルにはもう一人分の食器が置かれているが、それが誰のものだったか思い出せない。ネオ東京の街並みは、高層ビルの間を走るチューブ状の交通機関と、規則正しく浮かぶ人工雲で構成されている。綺麗だが、作り物めいていた。本物の空は、どんな色だっただろう。


学校への道のりは、いつものように記憶が途切れる。気がつけば、教室の自分の席に座っていた。周りの生徒たちの会話は、遠いどこか別の世界の音のように聞こえる。


「天音さん、最近、電子機器の調子が悪かったりしない?」

担任の田中先生が、心配そうに声をかけてきた。

「え?」

「ううん、何でもないの。何か困ったことがあったら、いつでも相談してね」

先生はそう言うと、どこか言いにくそうな顔で去っていった。


授業中、ユリはまたあの不思議な感覚に襲われた。ペンを握る指先が、ぴりぴりと微かに痺れる。机に置いた学習端末の画面が、また一瞬だけ、ノイズで揺らいだ。


『君は……違うんだ。君だけは……』


声が聞こえる。断片的で、何かを伝えようと必死になっている。その声に応えようとすると、決まって軽い頭痛がした。


昼休み、女子生徒たちの会話が耳に入る。

「メモリサブスク、本当に便利よね。嫌な記憶は、月末には綺麗サッパリ」

「恋人と別れた記憶も消したの。全然平気」


メモリサブスク。記憶を消去するサービス。自分には関係ない、はずだった。

もし、自分のこの曖昧な日常が、サービスによって作られたものだとしたら?


放課後、ユリは一人、帰路についた。街の広告塔が『月額1980円で快適リセット!』と謳っている。その安っぽさが、なぜか自分の価値まで値踏みされているようで、胸がざわついた。


家に帰ると、見慣れない革靴があった。リビングの扉を開けると、中年の男性が座っていた。

「おかえり、ユリ」

親しげな声。でも、ユリには思い出せない。

「……どちら様、でしょうか」

「父親だよ。俺だよ」

男は悲しそうに笑った。その顔を見て、ユリは気づく。テーブルの上の、もう一人分の食器は、この人のものだったのだ。


夜、ベッドの中で今日一日を振り返ろうとしても、もう記憶は薄れ始めていた。田中先生との会話も、父親と名乗る男の顔も、すべてが霞んでいく。


『忘れるな……ユリ。君の……本当の……』


声が聞こえる。切羽詰まった響き。

「本当の記憶って、何?」

暗闇に問いかける。答えはない。

ただ、その声だけが確かにそこに在る。朝になれば忘れてしまうかもしれない。それでも、この声の主だけは、自分にとってかけがえのない存在なのだと、ユリは確信していた。

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