第五章‐5:終わる絵と残る記録

その日、私はアトリエに“誰か”の気配を感じていた。


開いたはずの扉が、ひとりでに閉まる。


描かれていなかった絵が、昨日より完成に近づいている。




すでに誰もいないはずの場所で、


“完成に向かって進んでいる”という事実だけが、静かに私を追い詰めていた。




そして、ついに私は――


彼と対峙した。




薄暗い倉庫の奥。


壁に背を預け、椅子に腰かけていたのは、


間違いなくレオ・アルヴァ本人だった。




肉体は衰え、目は深く落ち込んでいた。


だが、その視線はどこまでも澄みきっていた。




「ようやく来たな。君が最後になるとは、少し予想外だった」




私は問いも挨拶もせず、ただ一歩踏み出した。




「生きていたのか」




「……そんな問いは意味を持たないだろう、記録官。


この場所に“生きているかどうか”で立ち入れる者など、君と私くらいだ」




彼は穏やかに笑った。




「ここは“描かれたもの”が沈む場所。


君も、もう理解しているだろう?


私は魂を塗り重ねてきた。


それらを束ねて、ひとつの神を描くために」




「神など存在しない」




「君たちGIAが信じる“記録”と同じだよ。


見る者がいて、記す者がいれば、神も記録も“存在する”ことになる」




私は一歩ずつ彼に近づいた。




「君は、誰かの死を利用して自分を創ろうとした。


それは記録じゃない。


冒涜だ」




「冒涜――?」




レオはかすかに眉をひそめ、立ち上がった。


その手には、乾きかけた筆が握られていた。




「違う。私は、死者に形を与えた。


その魂の最も純粋な瞬間を、


色と線で残そうとした。


私の絵は、世界で最も誠実な墓碑だ」




彼の声は静かだった。だが、確信に満ちていた。




私は問いかけた。




「それで……最後の絵に、私を描いたのか?」




レオは目を細めた。




「君は、誰よりも強く、私の絵に抗った。


だが……その抗いこそ、完成の最後の一筆になり得る」




私は構えていた。


だが、レオの筆は、振り下ろされることはなかった。




彼は、ふと肩の力を抜き、筆を床に落とした。




「君は“記録する者”だ。


ならば、記せ。


私の終わりを――君の言葉で」




そのときだった。


天井のオルカ灯が一斉に明滅した。


次の瞬間、背後から――銃声。




レオの胸元に、黒い花が咲いた。




振り返った私は、


そこに“教団の使者”の姿を見た。




「最終調律、完了。


異端画家レオ・アルヴァ、除去」




その者は無表情のまま、手短に報告し、姿を消した。




アトリエの空気が、わずかに揺れた。




レオは、壁に凭れかかりながら、私を見た。




「……やはり、私は……最後の筆を……握れなかったか……」




私はそばに膝をつき、彼の手から絵の欠片を受け取った。


それは、未完成の自画像。




レオの目は、まだ描かれていなかった。




「……君が、描け」




それが、彼の最後の言葉だった。




私は立ち上がった。


絵に触れず、筆を取らず、


ただ、文字で記した。




彼がどのように描こうとし、


誰の死を通して、何を求め、


そして、どう終わったか。




私の記録は、絵ではなく、“言葉”で残す。




――それが、私の役目だ。


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