第一章‐5:記録官の沈黙
正式な報告としては、何一つ残らなかった。
だが、私は確かにあの現場にいた。
死を見た。声を聞いた。血の温度を、街の沈黙を感じた。
記録官として、あの都市に立っていた。
そして、思い知らされた。
“記録できない”ということが、どれほど無力で、どれほど恐ろしいかを。
それでも――いや、だからこそ、私は記録官であろうとした。
記録官という職に就いたのは、今から十数年前のことだ。
本部研修の初日、古びた保存書庫で一冊のファイルを手渡された。
表紙には、手書きの文字でこう書かれていた。
「記録とは、存在の証明である」
その一言が、私の原点だった。
誰にも気づかれなかった死。
意図的に隠蔽された事実。
誰も語ろうとしない悲劇。
――それでも、誰かがそれを記録する限り、失われることはない。
そう信じてきた。
いや、信じたかったのだ。
ヴェザリア支部に戻ったあの日。
私は改めて、その建物を見上げた。
白銀の塔のようなその施設は、都市の片隅にあって、まるで世界から切り離されているようだった。
内部は静かすぎた。
音が吸い込まれるようで、床を打つ靴音さえも、すぐに消えていく。
記録保管室の扉は開いていたが、書架の一角が不自然に空いていた。
整然と並ぶファイルの間に、ぽっかりと抜けた空白。
それを見たとき、私は思った。
この街では、“記録しない”ことが前提になっているのではないか、と。
支部の記録官たちは皆、淡々とした表情で業務をこなしていた。
しかしその目は、どこか曇っていた。
日報の記入も、事件記録の整理も、まるで義務だけをこなす人形のように。
「記録のために生きる」のではなく、「記録しないことに慣れる」ためにいるようだった。
その日の夕刻、私は書架の奥で再びカリム・イシュヴァルと会った。
彼は古文書の背表紙を指先でなぞりながら、私の存在に気づくと、ゆっくりと振り返った。
「落ち着いたか、オスカー」
「……あれが、ヴェザリアの“常識”なのか?」
「違う。だが、それがこの街の“現実”だ」
私は言葉を探したが、見つからなかった。
カリムは、ひと呼吸おいてから続けた。
「昔、私もお前のようだった。全てを記録に残したいと思っていた。
この手で事実を掬い上げることが、誰かの命を守るのだと信じていた」
「やめたんですか」
「違う。やめざるを得なかったのだ。
この都市では、“記録することそのもの”が排除される時がある。
それを前にしたとき、人は――選ぶしかない」
「選ぶ?」
「残すか、沈黙するか。
どちらも苦しいが、残そうとすれば、何かを代償にしなければならない。
それをお前は、これから思い知ることになるだろう」
私は問いかけた。
「あなたは、それでも記録官を続けている。
なら、何のために……?」
カリムは目を伏せ、静かに言った。
「残せる時が、たまにある。
ほんの一行でも、ひとつの単語でも、“残せた”と確信できる瞬間が。
私はそれを――ただ待っているだけだよ、今は」
その夜、私は支部の最上階にある小さな閲覧室にこもった。
カリムの言葉が、脳裏に焼きついていた。
記録とは何か。
なぜ私は、この仕事を選んだのか。
暗い部屋の片隅、閲覧用端末の青い光がほのかに揺れている。
私はそこに、自分のログインIDを入力した。
記録されない都市。記録されない死。記録されない人々。
しかし、私はそれらを確かに“見た”。
ならば記録しよう。
たとえ、それが“公式”でなくとも。
たとえ、それが“誰にも読まれない記録”だったとしても。
私は記録官だ。
沈黙することも仕事のうちかもしれない。
だが、それでも。
“見たこと”を記すことは、私の存在の証でもある。
そしてそれが、誰かの記憶に届くかもしれない可能性があるのなら――
私はこの手で、今日も記録を始める。
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