第14話 ラムネ

翌週の午後、陽介は図書館の窓際に座っていた。手帳を開き、ぼんやりと街の地図を眺めながら、時折、窓の向こうを歩く人々の姿に目をやる。



 仕事帰りのサラリーマン。手を引かれて歩く子ども。誰もが忙しそうに通り過ぎていくなかで、ふと気づいた。



 カウンターの向こう、児童書コーナーの隅に、小さな背中があった。


あの少年——陽真だった。



 前と同じ、黒いフードのジャージ。だが今日は、じっと机に向かって本を読んでいる。図鑑のページを指でなぞりながら、一語ずつゆっくりと目を追っていた。



 陽介は立ち上がって近づくことはせず、少し離れた場所でその様子を見守った。



 読むという行為が、こんなにも切実に見えることがあるだろうか。まるで言葉をひとつずつ拾い集めて、自分の中に何かを取り戻そうとしているようだった。



 やがて、陽真が立ち上がり、図鑑を抱えて貸し出しカウンターへと向かう。陽介は、その背中を目で追いながら、ポケットに手を入れた。


 中には、徳一が遺したもう一枚の紙片があった。



 手紙ではなかった。メモ用紙の端に書かれた、走り書きのような言葉。


——あの子は、俺の若い頃によく似ている。



 陽介は、はっとしてそれを読み返す。差出人の名前も日付もない。ただ、やわらかく滲んだ筆跡だけが、紙に残っていた。



「もしかして……」


 彼は図書館を出て、公園に向かって歩き出した。途中、ふと立ち寄った駄菓子屋で、ラムネとスナック菓子を二つ買った。意味はない。ただ、何かを渡したい気持ちが、言葉のかわりに手を動かした。



 公園では、陽真がベンチに座っていた。ポケットから取り出した小さな図鑑を、膝の上に開いたまま、指先でページをめくっている。陽介は少し距離を取って、隣に腰を下ろした。



「図鑑、借りてきたのか」


「……べつに、暇だったから」


「そっか」



 沈黙が流れる。陽介は、そっと買ってきたラムネを袋ごと渡した。少年はちらりと見て、黙って受け取る。口にすることも、お礼を言うこともなかった。



「……あの手紙、読んだよ」


しばらくして、少年がぽつりと口を開いた。



「最初、意味わかんなかった。でも、何回か読んで……なんか……」


言葉に詰まりながら、少年はうつむいた。



「うち、父ちゃんも母ちゃんもいない。前の施設から逃げてきた。誰も迎えにこないし、誰も俺の名前なんか呼ばない」


陽介は黙って耳を傾けた。



「でもさ。あの手紙には、俺の名前が書いてあった。びっくりしたよ。ほんとに、誰かが、俺のこと見てたんだなって……」



 陽真の声はかすれていた。顔はそむけたままだったが、耳元がほんのり赤くなっていた。



 陽介はそっと、自分の隣に置いてあったもうひとつのラムネの封を開けた。



「……じゃあ今度は、君が誰かに名前を呼んでやれよ」


それが、陽介の精いっぱいだった。



 少年はうなずきもせず、否定もせず、小さな音を立ててラムネの瓶を開けた。


 それだけで、十分だった。

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