第3話 つばきの里

「つばきの里」は、市の外れにある静かな丘の上にあった。手入れの行き届いた庭に、風に揺れる洗濯物。建て替えられてまだ数年という清潔な建物には、子どもたちの笑い声が響いていた。




陽介が訪ねてきたことを伝えると、奥から年配の女性職員が現れた。名刺も用件も控えめに差し出しただけだったが、話を聞くうちに、彼女の目つきが少しずつ変わっていった。


「村瀬結菜……いましたよ。確かに」


その声に、陽介の背筋がすっと伸びた。




「しばらくの間、ここにいて。その後は……生活支援制度を受けながら、一人暮らしを始めたと聞いています。もう何年も前のことだけど、確か“陽明町”あたりだったような……」




メモはもう残っていないと言われたが、職員がぽつりとこぼした「ひだまり荘」という名前が、陽介の記憶に引っかかった。郵便を配った覚えがある。古びた三階建てのアパート。名前も外観も、目立たない造りだった。




そのまま足を向けた。駅の反対側に広がる住宅街の裏手。少し坂を下った場所に、そのアパートはあった。陽が傾きかけた午後、建物の影がアスファルトに長く伸びている。




ポストの表札を順に確認していくと、見覚えのある名字があった。


「村瀬結菜」


ひらがな混じりの名前が、小さく貼られている。インターホンを押そうとして、陽介はふと指を止めた。




ほんの少し迷った。手紙は手の中にある。それを渡せば、役目は果たせる。ただ、それが本当に彼女のためになるのかはわからない。




何十年も前に亡くなった母。そこに遺された「ごめんなさい」という言葉。あまりに遅く、あまりに唐突な届き方だった。


——それでも。




陽介は、迷いを小さく押し込み、チャイムを押した。


返事はすぐには返ってこなかった。インターホンのスピーカーからも音はない。しばらく待ってから、もう一度押した。二度目も同じだった。




不在か、あるいは、出たくないだけかもしれない。


ポストの中に新聞は入っていなかった。鍵もちゃんと掛かっている。生活の気配はある。




陽介は一度後ろを振り返り、もう一度だけドアに目をやった。ポケットから、あの封筒を取り出す。迷った末、それをポストに静かに差し入れた。


「ごめんなさい」とだけ書かれた手紙。


読まれるかどうかは、もう自分の手を離れたことだった。




少し冷たくなった風が袖を揺らす。陽介は階段を下り、舗道に出て、ふと振り返った。


見慣れたようで思い出せない、どこにでもあるアパート。けれど今日、そこには確かに意味があった。


封筒を通じて伝わるものがあるのだとしたら、それは言葉以上の何かかもしれない。




陽介は、小さく息を吐いた。


少しだけ肩の荷が下りたような気がした。


彼は足元の段差に注意しながら、ゆっくりと歩き出した。

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