空と、海と。
アブクマ
空と、海と。
海が青すぎて、空との境界がわからなかった。
都心の大学の屋上から見る空とは、まるで違っていた。
ここは鹿児島、知覧。
特攻隊の基地があった町。
風が吹いている。
湿った、夏の匂いを含んだ風。
「なんで、おれはここに来たんだっけ」
その理由を、まだはっきりとは言葉にできない。
ただ一枚の、古い写真を見つけたことがきっかけだった。
モノクロの空の下、若い男が笑っていた。
その写真の裏に、こう書かれていた。
『昭和二十年四月十二日 大平香取 出撃前日』
俺と同じ苗字だった。
---
国家試験まで、あと一年。
医学部じゃないけど、医療職として生きていくには避けて通れない関門だった。
大平勉、二十一歳。
都内の医療大学に通って三年目。
夢は救命医療、あるいは災害医療。人の命を現場で救いたい、そう思って進んできた。
でも最近、どうしてもわからない。
参考書を読んでも、講義を聞いても、何ひとつ頭に入らない。
知識ではなく、感覚がついてこない。
誰かの命に触れることが、いつの間にか怖くなっていた。
その違和感は、ある日突然、崩れるように押し寄せてきた。
「救急対応演習」の授業中。
シミュレーターの人形に、胸骨圧迫の手を置こうとして――止まった。
(……この胸の中に、本当に“命”があるんだっけ)
まわりは淡々と動いている。俺だけが動けなかった。
ただのスランプ? 寝不足? 緊張?
そう思おうとしたけど、内心ではわかっていた。
「命」ってなんなんだろう、って思いはじめた時点で、俺は、何かを見失ってる。
そんな中、一本の電話がかかってきた。
「……おじいちゃんが、亡くなったの」
母の声だった。静かで、どこか遠くて、現実味がなかった。
祖父、大平健一。
鹿児島の山間部で生まれ育ち、一度も県外に出なかった人。
子どものころ、夏休みにだけ会っていた。
優しいけど、昔の人って感じで、話すときはいつもどこか背筋が伸びた。
その祖父が、ぽっくり逝ったらしい。
病院で眠るように。
父も泣いていた。
授業のこと? 演習のスケジュール? そんなの、どうでもよかった。
俺はチケットを取り、ノートPCを閉じて、鹿児島行きの夜行バスに乗った。
空は晴れていた。
だけど、心の中には、ずっと霧がかかっていた。
命を救うために学んできた俺が、命をどう扱えばいいか、わからなくなっていた。
そんな自分を、祖父がどう思うのか。
……いや、それ以前に、俺は祖父のこと、何も知らなかった気がする。
たった一枚の写真を見つけるまでは。
---
「健一じいさん、遺品整理しといてくれたんだね」
そう呟きながら、俺と母は静かに段ボール箱を広げていた。
中には、古びた書類、使い込まれた手帳、そして何冊かのアルバムがあった。
「懐かしいものばかりね……」
母が小さなため息をつく。
埃まみれの中から、ひときわ薄い紙片が出てきた。
モノクロ写真。
俺は思わずそれを手に取った。
写っていたのは、若い男。
飛行服を着て、少し緊張した面持ちでカメラを見つめている。
まだ十九歳くらいだろうか。
「これ……曾祖父さん?」
そう尋ねると、母は頷いた。
「ええ。香取おじいちゃん。健一の兄で、戦争で亡くなったの」
俺は写真の裏側に手を回す。
そこには、震えるような文字でこう記されていた。
『昭和二十年四月十二日 大平香取 出撃前日』
その日付は、戦争末期、特攻隊が出撃していた頃だった。
写真を握りしめる手が、少しだけ震えた。
“出撃前日”。
何を想い、どんな気持ちでこの写真を撮ったのだろう。
俺は知らなかった。
自分の家族に、こんな重い歴史が隠されていたことを。
「香取じいさんって、どこの戦争で亡くなったの?」
俺は写真を見ながら、母に尋ねた。
母は少し首をかしげて、困ったように答えた。
「うーん、はっきりとはわからないのよね……」
その時、居間の扉が開いて、祖母がゆっくりと入ってきた。
「太平洋戦争じゃよ」
婆さんの声は、思いのほかはっきりとしていた。
「名前はわからんけれど、敵の航空母艦に突っ込んでな……命を捧げたんじゃよ」
俺は祖母の言葉に飲み込まれるように聞き入った。
戦争の具体的な場所も、戦況も知らないけれど、
この家族の歴史の深さだけは、胸にずっしりと響いた。
「そうか……そうだったのか」
静かな部屋の中で、誰もがそれ以上の言葉を出せずにいた。
ただ、遠い昔の戦火の記憶だけが、静かに流れていった。
---
祖母の家の居間で、俺は古びたパソコンの前に座っていた。
「神風」と入力し、表示された戦時中の写真や解説を何となく眺めている。
別段、特別な感情は湧かなかった。
歴史の教科書で何度も見た言葉。遠い過去のことだ。
画面の片隅に目が留まったのは、2015年に起きたパリの自爆テロに関する記事だった。
現地のメディアはその事件を「カミカズ」と呼称していた。
フランス語訛りの「カミカゼ」、つまり「神風」のことだろう。
そのすぐそばには、元特攻兵とされる人物の言葉が引用されていた。
「俺たちの特攻は祖国と家族を守るためだった。だが、民間人を無差別に巻き込むテロとは違う。
あれは違うものだと、強く憤りを感じる。」
画面に映る文字が静かに胸に響いた。
時代も場所も違うが、戦争と暴力の連鎖は続いている。
俺はただ、言葉の意味をかみしめるだけだった。
でも、やってることって大まかに言えば同じじゃないのか……?
爆弾を抱えて、敵の本拠地に突っ込む。
自分は死んで、相手も死ぬ。
そう思うと、頭の中がぐるぐると混乱した。
分からない。
でも確かに、何かが違うのかもしれない。
その「何か」って一体、何なのか。
俺にはまだ見つけられなかった。
「曽祖父さんのことを知っている人、いないかな……」
俺は祖母にそう尋ねた。
祖母は少し考えてから、ぽつりと言った。
「あの時代の人はだんだん少なくなってきているけど、まだ知っている人はいるかもしれんね」
そこで、俺たちは手紙を書くことにした。
曽祖父の名と出撃した日のこと、何か覚えていることがあれば教えてほしいと。
だが、2020年代初頭、新型コロナウイルスの感染拡大はまだ完全に終息していなかった。
外出や人との接触が制限され、直接会って話すことは難しい状況だった。
実際に会うことは叶わず、返事を待ちながら、俺は静かに時を過ごした。
それでも、遠くにいる誰かと繋がる希望だけを胸に抱いて。
---
数日後、祖母の家に一通の手紙が届いた。
俺は差出人の名前を見て、息を呑んだ。
「菅原大良」
震える手で封を切り、便箋を広げる。
そこには、戦時中の香取を知る元隊員の言葉が静かに綴られていた。
---
〈菅原大良より〉
彼のことは存じております。かつて、とある航空母艦にいた時、彼も私も着艦が下手くそでした。
ミッドウェイ敗戦後、彼と私は別の空母に割り当てられたり、陸に行ったり…まあ色々とありました。
香取さんはその後、めきめきと成長したようです。しかしその時には既に、敗戦間近でした。
私も彼とは全く違う方面に割り当てられました。
その後、久々に会った時は…少しやつれていました。
彼が特攻に行くと聞いた時、私は脱力しました。
誰よりも着艦が下手くそで、誰よりも優しい彼が、特攻に行くなんて。
悲しいですが、それも戦争なのです。
また何か聞きたいことがあれば、お手紙をください。
---
手紙を読み終え、俺は言葉にならない思いを胸に抱いた。
香取はただの若者だった。優しくて、不器用で、戦争に翻弄されたひとりの人間だった。
その姿を知れたことが、なによりも重く、温かかった。
---
しばらくして、また一通の手紙が届いた。
差出人は「田嶋透」という名前だった。
手紙を広げ、静かに読み始める。
---
大平くんのひ孫さんへ、
彼はとっても優しい奴でした。
着艦が下手くそでして、みんなから「下手の大平」と呼ばれておりました。
でも、自尊心が高かったのでしょう。彼はありとあらゆる作戦で生きて帰ってきたのです。
そして、回数を重ねればもちろん、その分上手くなりました。
…それが災いしたのでしょうか。彼は本当によく生き残ったのです。
敗戦間近、日本軍は血迷ったのか、特攻という、捨て身の攻撃を作りました。
行かないやつは臆病者という風潮もありました。
自尊心の高い大平くんは、当然行くことになりました。
まだ若かった。彼も私も。
そのときは、それが美しいことだと思っていました。
…現実は非情ですね。
彼は毎回生き残ってきたのに、特攻に行ったきり、帰ってきませんでした。
成功したのかどうかも、わからずじまいです。
---
手紙を閉じ、俺は深く息をついた。
どんなに強い意志を持っていても、戦争は残酷だ。
その悲しみを、誰かに伝えることしかできない自分がもどかしかった。
ただ、それでも俺が思ったのは、
知ることができたということだった。
命を賭けた意味までは、まだ分からない。
けれど、曽祖父が生命をかけたこと。
そして俺たちのために、未来の日本のことを思っていたこと。
それを、知ることができたのだ。
彼らだって、もう老い先短い。
それでも、こうして言葉を尽くして俺に伝えてくれた。
その重みは、簡単には消えない。
これからもずっと、俺の胸の中で生き続けるだろう。
空と、海と。 アブクマ @TR-808
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