連載小説【脳内彼女、愛莉と共に】
Unknown
第1話 諦めと悟り。そして愛莉との再会
2025年7月下旬。
早いもので、もう夏だ。
今朝はアパートのそばの木で蝉が鳴いていた。
暑い夏の日、俺はクーラーの効いた部屋でさっきまでノートパソコンに向かって在宅ワークをしていた。いわゆる「B型作業所」での仕事だ。
作業所とは、障害や一部の難病によって、日常生活に支障が出る人や一般企業で働くのが困難な人が利用する福祉サービスだ。「工賃」という名の時給も発生する。
ちなみに俺は“精神障害者”であり、手帳持ちで障害年金も受給している。
俺の時給は300円だ。
正直、この値段でもかなりありがたい。俺は20歳で車関係の工場を辞めた時から長期引きこもりで、実家にこもって1円も稼げない時期が何年も続いていたから。
この1Kのアパートで俺が一人暮らしを始めたのは3年前のこと。障害年金の受給の審査が通ったことがきっかけで一人暮らしを始めた。
そして色々なことがありつつ、今に至る。
◆
「諦め」と「悟り」は違うんだろうけど、似たような位置にあるものなんじゃないかと思っている。俺は今、諦めと悟りの中間地点にいる。でも「どうでもいい」という投げやりな感覚ではない。俺の心は静寂に満ちている。「どうでもいい」っていう感覚を例えるなら、飲み干した缶コーヒーの空き缶を思いきり遠くに放り投げるような感じだろう。
もう俺は膨大な数の空き缶を全て投げ終えた。だから今、心の中には何もない。希望も絶望もない。だが、それは良いことなのだ。希望があるせいで絶望が生まれるんだから。
ネガティブでもポジティブでもなく中間がベスト。
心は常に平穏であるべきだ。
アラサーになり、若さ故の情熱や欲望が加速度的に無くなってきているのを感じている。
俺、
「果てしなく長く思える人生も、きっとあっという間なのだろう。現にここまであっという間だった。後はのんびりと、精神的な隠居生活を送るだけだな……」
「──ちょっと
夏の某日の夕方5時。椅子に座ってノートパソコンに向かい趣味の小説執筆をしていた俺の背後から、突然甲高い女性の声がしたので、俺はびっくりして振り返った。
すぐそばに俺と同年代くらいの小柄な女性が立っていた。目鼻立ちがくっきりと整ったその顔は覚えている。だがしかし、俺はそこにいる人物が誰なのかを思い出せなくなっていた。
「えっと、あなたは誰だっけ。確か、あい、あい……」
「
「あ、思い出した。あなたは俺の脳内彼女の愛莉だ。愛莉に会うのは随分久しぶりな気がする。数年ぶりの再会だよね。元気だった?」
「元気なわけないでしょ。私は今もずっと心を病んでるの」
「そ、そっか、ごめん」
「優雅は元気だった?」
「俺は、まぁまぁ普通。可もなく不可も無い。それと、俺は愛莉に感謝してる。愛莉は俺の孤独を常に支えてくれた人だから」
「そうだよ。優雅が寂しい時はいつも私がずっと一緒にいた。優雅が鬱病で病んでる時も私がずっとそばにいた。でも、ここ最近の優雅は全然私のことを必要としてくれなかったね。新しい彼女さんでも出来たの?」
「いや、違う。俺はずっと一人だった」
「じゃあずっと一人で何してたの?」
「ずっと一人の部屋で、ぼーっと考え事してた」
「はぁ? なにそれ。ほんとにおじいちゃんみたい」
「俺はそれでいいと思ってる。だって、今の俺の生活の中には何も不幸なことが起こってないから。不幸なことが起こらない何気ない平和な日常。それが一番の幸せなんだ。退屈=幸福の証だ。何故なら不幸なことが起きている状態のときは退屈を感じる精神的余裕すら無いからな。……俺は今幸せだよ、愛莉。これは本音だ」
俺が愛莉の目を見ながら不慣れな笑顔でそう言うと、愛莉は目を丸くした。
元々丸い目を、更に丸くして俺を凝視している。
「優雅、ほんとにどうしちゃったの? 数年前はもっと不安定で破滅的なロックスターみたいなこと平気で言ってたのに。いつ死んじゃうか分からないような危うさがあったのに」
「実は、不安定で破滅的な時期は終わったんだよ。愛莉」
「そうなんだ……。いつの間にか優雅のメンヘラが治って、なんかちょっと寂しい気もするけど、良かったね。本当に」
「ありがとう」
「昔はよく死のうとしてたけど、もう死にたいとか思わなくなったの?」
「思わなくなったよ。ロープも処分したんだ」
「そっか。良かった」
「俺は、もう一人でも生きていけると思う」
「……じゃあ、もう私は必要ないって事? ……私はもう要らないって事?」
愛莉は涙で潤んだ目をして、泣きそうな震え声でそう言った。
俺は大きな罪悪感に襲われて、胸が痛んで軋んだ。
「なぁ、愛莉」
「なに?」
「これからも、ずっと俺のそばにいてくれ。正直俺はもう一人でもやっていける。だけど、その隣に愛莉がいてくれたら、俺はもっと心強くなるし、生活も楽しくなるよ」
「……ねぇ聞いて。私には優雅しかいないの。なのに、なんかズルいよ。私が知らない間に勝手にメンヘラ治して大人になってさ。私だけ置いてけぼりじゃん! ズルいよ!」
愛莉は“俺の脳内彼女”であるため、他の宿主はこの世に一人も存在しない。『私には優雅しかいないの』という言葉は真実なのだ。俺が愛莉を必要としなくなったら、愛莉という存在は完全に消滅してしまう。
やがて愛莉はこう言った。
「私、死ぬまでずっと優雅のそばから離れないからね!」
「当たり前だ。愛莉にはこれからずっと一緒に来てもらう。人生という長い旅路をな」
俺がそう言うと、愛莉は嬉しそうに笑った。
「ほら、やっぱり優雅には私っていう恋人が必要なんじゃん! ほんとは私がいなくてずっと寂しかったんでしょ! 素直にそう言えばいいのに!」
「そうだな」
「あ、そうだ。精神薬はもう飲んでないの?」
「精神薬は今でも結構飲んでるよ。6種類くらい」
「お酒は?」
「75日くらい断酒した後にスリップして再飲酒したけど、また断酒を始めた。今日で断酒12日目になる」
「ふーん。お酒もやめるんだ?」
「やめる。俺のためじゃなくて家族のために」
「優雅がお酒をやめたいって思う日が来るなんて思ってなかったよ。優雅がどんどんまともになっていくね。あ、そうだ。ODはやめたの?」
「3年前にやめたよ。俺もあと2か月で29歳だしな。いい加減まともにならなきゃ」
「今、仕事はしてるの?」
「在宅ワークの作業所で働いてるよ」
俺がそう言うと、愛莉は驚愕したのか目を再び丸くしていた。そのあと、少し寂しそうな表情を浮かべた。
「……そっか。しばらく会わないうちに、もう卒業しちゃったんだね。ニート」
「そんな寂しそうな顔するなよ」
「だって、私はまだニートだもん! 私の許可なく勝手にニート卒業しないでよ! ばか!」
「B型作業所だから、時給は300円だ。在宅ワークとはいえ、俺だって稼いでる額は少ない。ニートみたいなもんだよ」
「でも働いてるんでしょ? 1日どのくらいの時間働いてるの?」
「10時半から15時半まで。月曜から金曜。隔週の土曜日にも働いてる」
「全然ニートじゃないじゃん!」
「あ、そっか。俺はもう働いてるからニートじゃないのか」
「うん。なんかもう、優雅が私の知らない人間になってる……」
愛莉はそう言って、ふてくされた様子でフローリングの床で丸くなってゴロゴロし始めた。
「あーあ。優雅だけは永遠に変わらない存在だと思ってたのにな~。うんこ! うんこうんこ! ばーか! あほ!」
「どうしたんだよ。愛莉」
「拗ねてるの!」
愛莉は数年ぶりに再会した俺の変化に付いていけてないらしい。彼女は明らかな怒気を見せている。
そういえば、愛莉の服装は上下ともグレーのスウェットである。THE・ニートといった服装をしている。
やがて愛莉は床でゴロゴロしながら、俺の名前を呼んだ。
「ねぇ優雅!」
「ん?」
「お腹すいた! マクドナルドの新作、なんでもいいからセットで買ってきて! そしたら許してあげる。サイドメニューはポテトのМ。あとドリンクはゼロカロリーのコーラ」
「そんなことで許してくれるの?」
「うん。だって私はとても心が優しいからね。優雅とは違って」
「分かった。今から急いで近所のマックに行ってくる」
「うん。待ってる」
俺はアパートの●●●号室から出て、3階からの階段を下り、駐車場に停めてある軽自動車に乗って、すぐに近所のマクドナルドへと向かった。
そして、ドライブスルーで適当に新作のハンバーガーのセットメニューを注文した。ついでに俺も全く同じメニューを注文した。マクドナルドは袋の段階から食欲をそそる良い匂いが漂うのが好きだ。
◆
帰宅して、すぐに自分の部屋に戻り、俺は愛莉に新作ハンバーガーのセットを渡した。愛莉は最初、ポテトから食べ始めて、途中からハンバーガーを食べ始めた。
「おいしい」
愛莉は笑顔でそう言った。口の端っこにハンバーガーのソースがついている。俺は無言で箱ティッシュを愛莉に渡した。すると愛莉は「ありがと」と言って口を拭いた。
俺も愛莉に続いてハンバーガーを食べた。これはおいしい。
「おいしいな、これ」
「おいしいよね。マックって久しぶりに食べると超おいしいよね。買ってきてくれてありがとう優雅」
愛莉は笑顔である。彼女の機嫌は直ったようだ。
愛莉はマックを食べながら言った。
「そういえば、優雅ってずっと鬱病だったよね? 今はもう治ったの?」
「医者からは鬱は寛解してるって言われたよ。でも……」
「でも?」
「鬱が治ったと思ったら、今度は躁病になっちまった」
「あはは。そうなんだ」
「そうそう。躁だけに」
「でも、全然躁状態に見えないよ。むしろ落ち着いてるように見える」
「デパケンっていう薬を毎日飲んで躁を防いでるからね。あと抗うつ薬とか抗不安薬は今も飲んでる」
「ふーん。でもそれで心が安定してるなら、良いことじゃん」
「そうだね」
「……ん?」
突然、愛莉がハンバーガーを口に運ぶ手を止めて、立ち上がって、俺の方に歩いてきた。そして、静かに優しく俺の左腕を掴んで、左腕を凝視した。そしてこう言った。
「タバコの火、押し付けた痕が何か所もある。赤黒くて痛々しいね」
「これは、数か月前に飲酒を我慢しようとして根性焼きをした痕だ。飲酒欲求を俺は自傷で押さえつけた」
「……ねぇ」
「ん?」
「全然メンヘラ治ってないじゃん」
そう言った愛莉の顔は真剣だった。愛莉が俺の左腕を優しく掴んだまま、目と目が合って、そのまましばらく無言の時間が流れた。
「……」
「……」
そんな静寂を破ったのは愛莉だった。
「痛かったでしょ。体も心も」
「うん」
「撫でてあげる」
愛莉はそう言って、俺の自傷痕を優しく撫でてくれた。
「ありがとう」
俺は無表情でそう呟いた。
すると、愛莉は何も言わずに、優しく微笑んだ。
クーラーの音だけが、この部屋に響いていた。
~第2話に続く~
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