小さな気持ちと燈たち

星燈 紡(ほしあかり つむぎ)

躊躇いという獣

「怖いよ......」

 グラグラとした視界でどんよりとした闇夜を見つめて呟く。月や星はもちろん、私を照らす部屋の灯り一つない箱の中で独り蹲っている。

「どうしたら、あんなにギラギラと輝いた目でいられるのかな」

 目を瞑り、今日あった新入社員のことをゴクッと唾を飲み込むようにゆっくりと振り返りながら呟く。

「悍ましい.....」

 思い出したあの子はテキパキと卒なくこなし、屈託のない眼差しで私を見つめてきた。そのこと自体、私の体の、嫌、私の心がザワザワと風に揺られる雑草の音のように掻き立てられた。ギュッと腕を握り、プルプルと震えそうな私の体を落ち着かせるように抑えつけるだけで精一杯だ。次第に唇を噛み、ゴリゴリと音が聞こえ、白い歯が見え隠れする。堪えるだけで精一杯な私に限界が訪れ、壁にだらりともたれかかり、意識が遠のく。


 カタカタと音を立てて、書類を書き上げている私がいた。

『先輩!これもできました!あと、こっちの仕事も片付けておきますね!』

 ああ、あの子と同じように私の入りたての頃だ。何一つ迷いのない私が真っすぐに向き合い、壁にぶつかるなど微塵も考えてなかったピンピンとしていた頃の私。

『おう、頼んだわー。君は仕事が早くて助かるねー』

 髪がボサボサの先輩は自分のモニターから私に視線を移し、ニッコリとした笑顔を向けてくれた。

『でも、どうしてそんな根を詰めてるのかい?君が望むものとかあるのかい?』

 髪をワシャワシャとかき回して、私ではない、遠くを見つめて聞いてきた。今思えば、今の私と同じドロドロとした気持ちで聞いていたのかもしれない。

『私、早く仕事できるようになって、上を目指したいので』

 そう。私は屈託のない答えをスラスラと述べた。先輩は眉間にグシャっとした皺を一瞬作ったが、すぐに私に視線を戻した。

『そうかそうか!上を見つめる向上心があるのはとても大事なことだぞ』

 先輩は私にポイっと捨てるように言葉を投げると、スッと下を俯いた。

『はい!』

『そうそう。いい返事だ。......例え、何にもならなかったとしても忘れるなよ』

 俯いた先輩は珍しく、だんだんモゴモゴとした口調で私に伝えた。ふと気になったが、先輩の眼鏡がモニターの光でギラギラと反射していて、顔が見えなかったので、気にしなかった。今思えば、いつも和やかな先輩が語気を強めていたように思えるし、そんなことを掬う暇もなく、どこまでも愚直に突き進んでいた私に気づける余地などなかっただろう。でも、今の私になら分かった。先輩が私の何を見てトゲトゲしい言葉を口にしたのか。


 額にはじんわりとベタっとした汗が張り付いていた。ダラリと一滴が垂れて、瞼から頬に落ちていく。ゆっくりと瞼をあけると、ぼやけた視界の先にうっすらと陰鬱な夜が目に入ってくる。肺腑の奥にドロドロとした闇を吸い込み、ブワッと吐き出すように言葉を呟く。

「あぁ。分かった......。何が怖いのか。ガブリと喰われることが怖いんだ」

 ギロリと遠くを見つめても何も見えない。ボロリと大きな雫が目尻から零れ落ちる。私の中にいるドス黒い心に言い聞かせるようにブルブルと震える唇をゆっくりと開く。

「プチッと踏みつぶされて、グチャグチャと喰いつくされて、ボロボロの養分になってしまうだけなんじゃないかって」

 言葉にすることで耳からも入り、グルグルと体を巡り、黒い心がボコボコと暴れ狂いはじめる。やがて体が、口がガクガクと震え、頭の上へとフツフツとこみ上げてきた。握りしめていた手も震えてうまく力が入らない。


――忘れるなよ


 先輩の言葉が脳裏を過る。

「何か...忘れている...の?」

 私の言葉で先輩が揺れていた。それは間違いようのない事実。立場や責任を顧みず、真っすぐな言葉。ヒクつく体を必死に抑えながら、少しずつ空気を吸い込む。頭が勝手に見たくないとブルブルと震える。瞼をギュッと瞑り、ギリギリと歯ぎしりを立てて抑えつけて、先輩との会話を思い返す。


――君が望むものとかあるのかい?


 震える手で必死に腕を掴む。

「ずっとこのままなんて嫌...。新しいあの子が私を超えるんじゃないかって...。私は何のために...」

 まつ毛がびっしょりと濡れるほどの涙が溢れる。キラキラとした憧れとグルグルと渦巻く不安に押しつぶされそうになり、身をギュッと縮こまるように蹲る。私の中から何かが出ていきそうな気がして。


――上を見つめる向上心があるのはとても大事なことだぞ


 俯いた顔をガバッと上げると、そこには遠くに朝日で紅くグラグラと焼かれた空が見え始めていた。縮こまった身をゆっくりと解く。フラフラと立ち上がり、朝日を見つめる。

「あぁ。そんなこと考えなくてよかったんだ。ただ、真っすぐに上を見てれば

怖くなかったはずなのに」

 震えていた手を朝日にかざす。次第に震えは止まり、朝日のポカポカした暖かさに包まれていく。ゆっくりと指を畳んでギュッと朝日を掴むように拳を握りしめた。

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